小さな黙想。考えさせる面白い物語  2018年9月から



 

  ある町にとても自信過剰な男がいました。この男は自分の家で一番広い部屋の天井と壁と床を鏡張りにしました。一日中この部屋に入って満足している男は、自分の姿を隅から隅まで細かく見ていました。自分を上から見て、横から見て、下からも見て、前と後ろもよく見ることで、男は生きる力を受けていると思い込んでいました。自分の姿をずっと見ていれば、日常生活に起こって来る出来事に何も恐れることなく平常心で向き合えると信じていました。

  ある日のこと、男はあまりに急いでいたので、鏡の部屋を出るときにドアを閉めるのを忘れてしまいました。男が家を出た後、彼の番犬の大きなドーベルマンがこの部屋の中に入りました。この番犬は鏡の部屋で自分に似た犬をたくさん見たので、彼らの臭いを嗅ごうとしました。当然ながら、何も臭いません。そのため、怒ってうなりました。そうしたところ、他のすべての犬も同じように唸るので、番犬はますます怒って彼ら全力で襲いかかりました。すると、鏡と思いきりぶつかりその痛さで吠えてしまいました。番犬は何度体当たりをして、自分の主人の家を鏡の中の犬たちから守るため、終りのない戦いを精一杯行いました。とうとう番犬は疲れ果て、鏡の部屋の中で血を吐いて死んでしまいました。

 男が家に戻ったとき、自分の番犬が鏡の部屋の中で血を吐いて死んでいることに気がつきました。男は大きなショックを受けました。この鏡の部屋をもう二度と使わないよう、部屋の入り口を壁でふさごうと決めました。しかし、一人の召使いが男に次のように勧めました。「ご主人様、この部屋を閉じてしまうよりも、開けたままにしてください。そうすれば、この部屋はみんなに大切なことを教えてくれることができるからです」。「お前が何を言っているのか、理解できない。もっと詳しく説明してくれ」男は召使いに言いました。

 「この世は、ご主人様の鏡の部屋によく似ています。自分の周囲の人々は、自分が周りに与える姿をそのまま反映しているのです。自分が幸せを示すなら、周りの人も幸せを見せます。自分が悲しいとき、人々は悲しく寂しい姿を見せます。自分が心配すれば、皆もきっと心配するでしょう。この世において私たちは絶えず自分が与えた姿と戦っています。きっと死ぬまでそうでしょう。ご主人様の鏡の部屋は、重要なことを教えているのです。何をしても、何を言っても、私たちは自分自身の美しい姿を探しているのです。だからこそ、私たちは周囲に自分自身を見せることが好きなのです。私たちは自分が褒められること、認められること、自分の意見を納得させることを好みます。なのに、私たちは人が打ち明けたいことに耳を傾けずに、自分の言いたい言葉を人に聞かせがちです。私たちは人々を、自分を写す鏡のように見ています。自分がしたいことだけを相手に投影させているのです。このようなことをしていると最後には、死に至る生き方となってしまうでしょう。ですから、ご主人様の鏡の部屋を開けたままにしてください。そして人々に自分を見せるよりも、周りにいる一人ひとりをよく見るようにさせましょう。自分の周囲から謙虚に学ぶことが肝心だと思います」召使いはそう説明しました。彼の一途で賢明な話を聞いて、男は新しい生き方を発見しました。もう一度新しく生きようと決めたのです。

 私たちが識別を持つようにと聖パウロは願っています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となるように」(フィリピ1,9-10)。また、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(1コリント15,10)とも聖パウロは言いました。自分がなりたい姿、人々に見せたい姿を一度忘れましょう。そして、自分が人々に与えられている神の賜物だと考えた方が賢明なのです。周囲の人々も、私たちのための神の賜物だということを度々思い出す方がいいのです。そうすれば、人々の失敗や、過ち、欠点にもかかわらず、自分としてありのままに生きる喜びを深く感じるでしょう。この生き方を得るために全生涯が必要かも知れませんが、チャレンジすることが肝心です。


カシの木とモミの木 

  ルーマニアの森の中央に、威厳に満ちた姿をしたカシの木がありました。このカシの木はいつも自分の自慢ばかりして、他の木々を軽蔑していました。カシの木は自分だけが立派だと自惚れて叫んでいました。森の木々はカシの木を恐れ、遠く離れた所に立っていました。ある日のこと、カシの木のすぐそばで小さなモミの木が生まれました。それを見てカシの木は驕って言いました。「ようこそ、ちびっ子ちゃん。私は森の重鎮のカシの木だ。君よりも森の事を良く知っているので、私の勧めに従えば、いつか私のように立派な木になることができよう」。モミの木は返答し「ぼくはあなたのような立派な風采をしていませんし、力もありません。おまけに、ぼくの葉は尖っていて棘があり、あなたのような美しい葉ではありません」。モミの木は悲しそうに言いました。

    「その通りだ。誰も私の美しさを越えることはできない。しかし、私の賢い勧めに従えば君もきっと自分を養い強めることができるのだ」。カシの木は偉そうに言いました。「ぼくに必要なものを、なぜご存知なのですか。お互いの気質は全く違っているのに…」とモミの木が不思議そうに尋ねました。「そんなことは問題にならん。とにかく、私の勧めを聞けば君は立派なモミの木になれるのだ」とカシの木は断言しました。「そんなの無理、無理…。あなたは季節ごとに葉の色を変えますが、ぼくは一年中緑のままです。あなたはたくさんのどんぐりの実で森の動物たちを養うことができますが、ぼくはマツの木のようにマツカサを結ぶことすらできません」。そうモミの木は答えました。

   小さなモミの木が、カシの木の意見を断ってしまったのを目にし、カシの木は頭のてっぺんから足の根の先まで身震いし始めました。毎日まいにち「ぼくはあなたと違う。」、「あなたを真似ることはできない!」、「ぼくにとって必要な物は何であるかをあなたは知らない…」、「無理なことは無理だ!」などとモミの木に言い続けられたのです。おかげでカシの木は自分が侮辱されていると思い込むようになりました。段々と自分に自信を失っていったのです。というのも、モミの木は他の木々たちとは違って、カシの木を否定する事をまったく恐れていなかったからです。今まで自信満々で傲慢であったカシの木も、段々弱くなってしまいました。威厳に満ちた姿が、いつの間にか醜くなってきました。その上、カシの木の立派な葉を秋の風が奪ってしまいました。生き生きとした緑の葉を保っているモミの木の前で、葉が無くなり裸になったカシの木はとても恥ずかしい思いをしていました。遠くに離れていた木々たちも葉を失いましたが、カシの木に励ましの言葉をかけました。「あなたは一人ではないですよ。見てごらんなさい。私たちも皆あなたと同じように葉が落ちて裸になってしまいました。私たちはすべての葉を失いましたが、春がすぐ来るという希望を失っていません。さあ、一緒に春になるまで頑張りましょう」。そう優しく誘いました。モミの木も他の木々たちと一緒に声を合わせカシの木に言いました。「ぼくはあなたとは違うけれども、あなたを尊敬し大切に思っています。あなたが幹だけになり裸になっても、あなたはぼくにとって必要です。あなたの太くて強い幹が、ぼくを風から守ってくれているからです。あなたはぼくがいつも同じ緑の姿で暮らすのが羨ましいと思っているでしょうが、あなたは春になるとまた美しい葉が出て立派な姿になりますよ」。そう励ましの言葉をモミの木が言いました。「そう、その通りだ! さあ一緒に頑張りましょう…」森の木々たちも声を一つにして大きな声で叫びました。

   冬の間にカシの木は自分への自惚れの状態を捨てて、回心と謙遜の衣を着ました。次第に希望で満たされたカシの木は、モミの木の慰めと励ましの言葉を素直に受けとるようになりました。そして春の季節が戻ってきた時、カシの木はすっかり生まれ変わりました。森の木々やモミの木の中で、もはや支配する者ではなく、周りの皆を愛する親しい仲間となりました。この友情のお陰でカシの木はもう一度美しい威厳のある木となり、周りの木々を新しい眼差しで見るようになりました。その時からルーマニアの森は魅力的になったそうです。

  私たち一人ひとりは、他の人と比べることのできない独自の特徴を持っています。生まれた場所、言葉、文化、知識、歴史が違っても、それを自慢せずに分かち合えば人生が楽しくなります。「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15,12)とイエスは勧めました。謙遜に希望をもって、この世界の人々を批判せずに見てみましょう。そして今年も、季節ごとに新しい気持ちと決意で、皆の幸せのために励まし合って頑張りましょう。


隠遁者とイノシシ

 昔アイルランドの森に隠遁者が住んでいました。彼は大自然と動物たちをとても愛していました。動物たちもこの隠遁者が好きになり、彼のそばに静かに集まることが習慣になりました。毎日隠遁者を養うために、(うずら)(きじ)(からす)など色々な鳥たちがパンや野菜や果物、必要な食べ物を運んでいました。これには理由があります。ある日隠遁者が十字架の形に腕を伸ばし、祈りながら立っていた時のことです。一羽の鶉が彼の手の中に卵を産みました。隠遁者は卵が孵化するまでずっと動かずに、腕の位置を保ちました。その日以来、鳥たちの群れは、この隠遁者の世話をしようと決めました。他にも病気の動物たちや傷ついた動物たちは、癒してもらうために隠遁者のそばに集まって来ました。

 人里離れ、朝から晩まで神に祈りながら動物に囲まれていたので、隠遁者はまるでアダムとエバのエデンの園にいるような感じがしていました。彼が住んでいる場所は、景色の綺麗なところです。山と湖が広がっています。彼は高い木と小さな川がそばを流れている洞窟を自分の住む場所に決めました。その洞窟で祈りに満ちた孤独な生活を送ることこそが、この隠遁者の幸せでした。

  ある日、野生のイノシシが隠遁者の洞窟に逃げ込んできました。犬の群れと狩人に追いかけられているようでした。殺されることを恐れたイノシシは、震えながら鳴き声で隠遁者に助けを懇願しました。すると、イノシシを追いかけていた犬の群れは、突然洞窟の前に立ち止り、横たわったままで動くことができなくなりました。なぜなら、隠遁者の祈りが力強く働いたからです。しかし狩人は、イノシシを狩ることを諦めませんでした。狩人は、銃に弾丸を装填(そうてん)しました。それを目にした隠遁者は「直ぐ止めなさい。さもないと酷い目に合うでしょう!」と叫びました。狩人が振り向くと、隠遁者の周りには数え切れないほどのスズメバチが集まっていました。隠遁者が自分と犬の群れを攻撃する準備をしていると分かり、狩人は呆然としました。恐れを感じて、犬の群れと共に逃げていきました。野生のイノシシの命は救われました。感謝の念を示すために、イノシシは隠遁者のそばで暮らすことにしました。鳥たちのやり方を真似て、イノシシは森のキノコ、栗、胡桃(くるみ)、他の食べ物などを季節ごとに隠遁者のところまで運びました。

 イノシシは隠遁者が生きている間、ずっと彼の世話をし続け、彼を守りました。隠遁者が亡くなった時には、イノシシは彼の墓を掘りました。その後、イノシシは死ぬまで墓の番人をしていました。今ではイノシシの子孫が墓を守っています。また、現在でもあらゆる種類の動物たちの墓参りは続き、隠遁者が眠る場所を花で飾り続けていると言われています。

 今年はイノシシの年です。イノシシは司祭職のシンボルです。洗礼によって司祭職に与かっている皆さんが、大自然の美しさ、動物が与える喜びや楽しい付き合いを実感できるように、また何よりもまず祈りの力と神への委ねを再発見できるようにしたいと思います。そのためには、日常生活の忙しさの中で、『神のためにだけの時間』を作るように工夫し、祈りが与える神との親密な交わりと一致を深く味わいましょう。祈りは宇宙万物と調和の中に人を一つに集めます。ですから物語の隠遁者を真似て、キリスト者の司祭職を尽くし、人々や動物をも助け、大自然を尊重し、すべてを美しくする福音的な生き方によって、神と人々の喜びの泉となりましょう。このようにすれば、今年こそ聖なる年となるに違いありません。


人間の神性

 昔、全ての人間は神のようであったとインドの古い伝説は語っています。しかし、人間は自分たちが持っていた神性を悪用にばかり使いました。それに我慢できなくなったブラーマ神は、人間から神性を奪い取り、絶対に見つけられない場所に隠そうと決心しました。ブラーマ神は、すべての神々に「その隠し場所について意見を出すように」という命令を出し、会議を招集しました。しかし、集まった神々の意見は、なかなか一致しませんでした。

 デュルガ神は「人間が持っていた神性を、地球の暗い洞窟の土に隠そう」と言いました。それに対して「ダメだ。人間は物好きで、探すことが好きなので、いつかその洞窟を見つけて土を掘ってしまう」とシヴァ神が反論しました。「それなら、海の一番深い淵に隠してはどうでしょう」とカリ神が提案しました。この提案に対しガネシュ神は「それもダメ、ダメ。いずれ人間は湖だけでなく、すべての海洋を探検するでしょう。ですからそんなところに隠しても簡単に見つけ出してしまうはずだ」と答えました。「それでは、一番高い山の頂上はどうでしょうか」とラクミッシュ神が勧めました。「それもダメだ。人間はなんでもできるし、チャレンジするのが好きだから、そこも直ぐに見つけてしまうよ」とスリヤ神が否定しました。

 しばらく神々は何も言わず、重い沈黙が続きました。すると、クリシュナ神が次のような提案を出しました。「土も、海の水もダメなら、空はどうでしょうか。人間の手が届かないところ、例えば月の何処かに隠したらいいんじゃないでしょうか」。しかし、カリ神が「それも絶対にダメです。人間は賢すぎて、きっと月に行く方法を考え出し、月の表面を歩くようになるでしょう」そう言って激しく反論しました。議論を聞いていた神々の悩みは、ますます深くなりました。

 ガンガ神は、ため息混じりに「やはり、人間の神性を隠すための安全な場所など何処にもありません。人間にその神性を返す他に方法がありませんねぇ…」と言いました。するとブラーマ神も賛同して「そうだ、そうしよう。人間が探さない場所がある。それは人間の心の奥底だよ。人間は自分の心の奥底を決して調べない。だからそこに神性を隠そう」と言いました。それを聞いたすべての神々は、全員一致してこの提案に賛成し大喜びました。

  インドの古い伝説によると、神々が人間の心の奥底に神性を隠したその時から、人間はそれを見つけるために地球の洞窟を調べたり、高い山に登ったり、海の深い淵を探査したり、月の表面を歩いたりしたそうです。しかし今に至るまで、自分の心の奥底に隠されている神性を見つけ出すことはできなかったそうです。

  シラ書はこの伝説に似ている話を紹介しています。神の知恵(神性)は天空を巡り歩き、地下の海の深みを歩き回ったが、何処へ行っても憩いの場所を見つけなかった。だから、神は人の中に住むように命令しました(参照:シラ書24,1-12)。確かに、聖書は創世記の時から神が人間にご自分の息吹を与えられたことを教えています。ですから、私たちは神性がどこにあるのかよく解かっています。私たちの人性と神性はの神であり、の完全な人間である「キリストと共に神の内に隠されている」(コロサイ3,3)ことを知っています。私たちの人性はキリストに結ばれているので、私たちはイエスの神性に与るようになりました。クリスマスを祝う私たちは、この神秘を思い起こしながら、神に感謝しましょう。言葉と行いによって、私たちに与えられたその神性を大勢の人に示しましょう。


友を求めて

  親しい友を見つけるために、若いオスの象は群れから遠く離れて深い密林に入って行きました。歩いていると小さなサルと出会いました。「サルくん。君が、僕の友だちになってくれたら、嬉しいです」と言いました。するとサルは「だめ、だめ。あなたは体が大き過ぎて、僕のように木から木へと身軽に移動することができないでしょう。あなたの大きな耳は決して翼の換わりにはなりません。」と答えました。

  次に象は、2メートルもある大きなヘビに出会いました。「ねぇ、ヘビくん。僕の友だちになってもらえないかなぁ…」と言うと、ヘビは「いくらあなたの鼻が長くて僕と似ていても、僕にとっては大き過ぎてあなたの体を抱き締めることは不可能です。おまけに、草の中を這う私はきっとあなたに踏み砕かれるでしょう。あなたの友だちになるなんて無理です」と答えました。

 寂しくなった象は、自信を無くしてフラフラと歩いていると一匹のウサギを見つけました。「ねえ、ねえ、ウサギさん。僕の友だちになりたくないですか」と尋ねました。ウサギは「とんでもないことです。あなたはあまりにも大き過ぎて、私の狭い巣穴に入ることが出来ません。あなたの食べる食物の量と私が必要とする食べ物の量は全然違います。もし、あなたと一緒に暮らせば、直ぐに大飢饉の状態になるに違いありません。と言ってウサギは象の願いを断りました。

  ウサギの巣穴の直ぐ傍にとても小さな池がありました。この池に住んでいるカエルを見て「カエルくん。君こそ、僕の親しい友になってください」と象は願いました。「だめですよ。あなたはあまりにも重過ぎて、私のように飛び跳ねることはできないでしょう、おまけに、この小さな池の水を飲んだり、池に体を入ればあっと言う間にこの池の水は干上がるでしょう。あなたは大き過ぎます。さあ、さあ、あちらへ行ってちょうだい」と忙しそうにカエルは自分の小さない池を守るために答えました。

 密林のどんな動物と出会っても、若いオスの象はどの動物からも同じ答えを受けました。彼は友だちになってくれる動物がいないので群れに帰ろうと考え始めたちょうどその時、急に密林の動物たちが恐怖で逃げまわり出しました。不思議に思った象は、逃げようとしていたオカピを呼び止めてその理由を聞きました。「大変です。猛獣のトラが誰れかれかまわずに殺そうと狙っているのです。あなたも早く逃げないと…。」と話してくれました。若いオスの象は、今こそ皆の命を救うチャンスの時だと思いました。そして猛獣のトラと出会い「僕の友だちを殺さないで!」と強い口調で言いました。するとトラは「人のことに構うな!これは俺の問題だ」。トラが自分の態度を変えるつもりがないと分かって、若いオスの象は命懸けで猛獣のトラに何度も体当たりをして、とうとうトラを追い出しました。「僕がここにいる限り、もう二度とここに来るな」と象はトラに宣告しました。若いオスの象が密林の動物たち皆の命を守ったと聞いて、動物たちは彼の傍に集って来ました。そして代表の年寄りのアリクイは「あなたは私たちの友になるために、ちょうどよい重さと大きさを持っているので、皆、喜んであなたを友として迎えます。よろしく、ね!」と宣言しました。幸せでいっぱいになった若いオスの象は、いつまでも皆を守ることを約束しました。

 「知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う」(知恵6,16)。イエス・キリストは天の栄光から離れ、この世に来られた時に友となる人を捜し求めました。しかし、人々は様々な言い訳をして「私は商売で、忙しい」「私は父が亡くなったばかりです」「あなたの教えは酷すぎて耐えられない」「あなたは悪霊に取り付かれている」などと答えてキリストの誘いを拒みました。猛獣のトラのように人々を狙っている死に打ち勝ち、全人類を守るために、イエスは命をささげました。私たちは永遠に守られているからこそ、イエスの親しい友になるのは当たり前のことではないでしょうか。キリストの愛のサイズも重さも広さも私たちにぴったりしています



王様の後継者

 年老いた王には子供がありませんでした。そこで、自分の後継者になるのに相応しい人を見つけるために、次のようなことを考えました。王は王国のすべての青年たちを宮殿の広間に集め、彼らに色々な試練を与えたのです。大勢の青年がいましたが、その中で後継者に相応しいと認められたのはたった10人でした。その10人の青年に最後の試練を王が与えました。彼らの手に一粒の小さなトウモロコシの種を渡したのです。「この国は、農業によって栄えている。私の後継者になりたい者は、土を耕すことや野菜を育てることを知るべきである。それゆえ、お前たちはこの種を家にもって帰り、植木鉢に植え、世話をせよ。3週間後に、芽を出したトウモロコシの苗を私に見せよ。一番上手くトウモロコシの種を育てた者を私の後継者としよう。」王は説明しました。

  10人の青年たちは家に帰り、言われた通り植木鉢にトウモロコシの種を植えました。ところが、ある青年はいくら丁寧に種の世話をしても、トウモロコシの芽が出てきませんでした。それを見ていた近所の友だちが、「芽が出ないのはきっとこの種が悪いからじゃないかい。トウモロコシの種はみんな似ているから、他の種と変えても誰も分からないだろう。」と不正をすることを勧めました。しかし、この青年は正直だったので、友だちの言うことに耳を傾けませんでした。「王様が私にくださったのと違う種を育てるなら、私は王様を騙すことになります。3週間後にどうなるかは分かりませんが、私は王様からもらった種を育て続けます。」と青年はきっぱり言いました。

 3週間。10人の青年たちは宮殿に集まりました。青年たちのうち9人は、芽の出ているトウモロコシの苗を自慢しながら王様に見せました。王は頭を振りながらトウモロコシの苗をゆっくり見回しました。「これらは私がお前たちに与えたトウモロコシの種を育てて出た芽か?」と王様が聞くと、9人の青年たちは「はい、そうです。王様。」と答えました。王様は10番目の青年のところにやって来ました。ところが、この青年はただ土を入れた植木鉢だけを持っていたので、恥ずかしくなって震えていました。きっと王様は怒って、自分を宮殿の牢屋に入れるだろうと思っていたからです。「お前は私が与えた種を、どのように育てたのか?」王様が尋ねると「僕は、毎日、丁寧に世話をして、肥料を与え、よい空気に当たるようにしましたが、このトウモロコシの種はなかなか芽を出しませんでした。」青年は震えながら答えました。そう聞いた王様は、右の手を高く上げ、王国の民に暫く静かにするように言いました。

 「王国の民よ。ここに皆に相応しい次の王がいらっしゃる。私は10人の青年に茹でたトウモロコシの種を与えたのだ。この種からは絶対に芽は出てこないはずだ。ところが、この9人の青年たちは、他の種と入れ替えて私を騙そうとした。彼らは王になるには相応しくない。王に必要なのは実直さと誠実さである。王は真理に基づいて国を支配すべき存在であるからだ。この青年は王に必要な実直さと誠実さを持っている。したがって、私の後継者に選び、皆の王になる事をここに決定する。この喜びを大いに祝おうではないか。」と王様は断言しました。誰が王になるか首を長くして待っていた国民は、選ばれた青年に温かい握手で祝意を表しました。

 「目的は手段を正当化する」と言われています。この世で成功するために人々は、実直さと誠実さを無視する傾向を持っています。「正直な人は幸せを継ぐ」(参照:箴言28,10)、また「正義は正しい道を歩む人を守る」(箴言13,6)と箴言が教えています。「目的は手段を正当化する」と思って人を騙す人は、結局自分自身を騙し軽んじています。洗礼によって真理の霊を受けた私たちは、模範的な者として正直に生き、誠実に行い生きていきまし


侮辱のプレゼント

 あるところに年老いた座禅の先生がいました。何でも我慢強く耐えることが遠くまで知られていました。いつも淡々とし、どんな人間も、どんな思いがけない出来事も、災いも全く恐れていませんでした。この先生には、たくさんの弟子がいました。先生は彼らに「どのようにして自分を自制するのか」、「冷静さを保つためには、どうすればよいのか」などを教えていました。

 ある日、この先生の評判と名声を損なわせようと無頓着で無謀な青年兵がやって来ました。この青年兵は酷く無礼な言い方で人を傷つけることで有名でした。彼は人の弱さと欠点を攻撃し、評判を損なわせるのが上手でした。この青年兵は、座禅の先生をそそのかすために、大声で先生を侮辱し始めました。弟子たちは先生を守るために傍へ集まって来ました。すると先生は青年兵を誘って言いました。「それじゃあ、町の広場に行こう。大勢の人の前で私を侮辱した方がいいでしょう。そうだ、それじゃあ、明日、町の広場に行こう」青年兵は先生の誘いに乗ることにしました。青年兵は、心の中で「ようし、そうしよう。これは面白くなるぞ…」と思いました。

 次の日、先生と青年兵の戦いの結果を見るために、町の広場に大勢の人が集まりました。朝から夜遅くまで青年兵が先生につばを吐きかけたり、公園の砂や小石を投げたり、先生の先祖や友人たちの悪口を言ったり、その他考えられないような侮辱やののしりを言い続けました。しかし、先生は絶対に口論しませんでした。青年兵が侮辱する間中、ずっと冷静な態度を示し、落ち着き払っていました。そうするうちに青年兵は、群衆から野次を浴びて、段々と恥ずかしくなってきました。結局、皆の前で自分の失敗を認め、頭を下げて逃げてしまいました。群衆は座禅の先生を大いにほめたたえました。

 弟子の一人が先生に近寄って、次のように尋ねました。「先生はどうして何も反抗せずに、何一つ怒りの態度も示さず、この酷い侮辱に堪えることができたのですか。なぜ自分の先祖や友人たちの評判を守るために弁明しないで、何も言わなかったのですか」。先生は質問で答えました。「あなたに捧げられたプレゼントを貰いたくないなら、このプレゼントはいったい誰のものですか」。「プレゼントを捧げた人のものです」と弟子は答えました。「はい。その通りです。同じように受け入れたくない侮辱や罵りや悪口も、それを言った人のものです。なぜなら、その人は心の中でずっとそのすべての悪いものを持っているからです」と先生は説明しました。

 侮辱される時、あるいは悪口の的になる時、私たちは無意識に強く反応したり、怒ったり、復讐したりしがちです。ですが、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(参照:ローマ12,21)と聖パウロは勧めています。悪に対する冷静な態度や自制する努力が必ず良い実を結びます。怒りは悪を拡大する危険性をもたらします。だからこそ、怒りと憤りを抑えることが大切なのです。「怒ることがあっても、悪魔にすきを与えてはなりません」(参照:エフェソ4,27)ということも聖パウロは勧めています。冷静を保ち、自制しましょう。私たちを攻撃する悪い言葉や無礼な行いに対してはそれを受け取らず、無視をし、差し出した人に返すことを学びましょう。そして主イエスが教えたように、「敵を愛し、私たちを憎む者に親切にしましょう。悪口を言う者に祝福を祈り、私たちを侮辱する者のために祈りましょう」(参照:ルカ6,27-28)。








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