グイノ神父の説教


A 年

年間第23主日から

王であるキリストの祭日まで


年間第23主日
注:弟24(十字架の称賛祝日)
年間第25主日
年間第26主日

年間第27主日
年間第28主日
年間第29主日
年間第30主日

年間第31主日(死者の日)
年間第32主日
(ラテラン教会の献堂)
年間第33主日
王であるキリストの祭日


                         年間第23主日   200897

        エゼキエル3379節  ローマ人への手紙13810節  マタイ181520

   今日の日曜日の典礼で紹介されている朗読を通して、私達は「無関心は致命的な事になりうる」という不変の特徴に気付きます。 キリスト教的愛が強く求めているのは、信仰のうちに成長するか、回心するかを手伝うことで、この点について、特に隣人を助ける責任があります。 今日の福音は、初代教会のキリスト者がどのように友愛的に欠点や過ちを正して、相互の愛を表現したかを示しています。 これは聖徒の交わりの神秘の具体的局面の一つです。 なぜなら神は私達一人ひとりを直接に世話するのではなく、私達に近い人々の友愛を通して世話する事を選ばれたからです。

   最初の朗読では、預言者エゼキエルに語りかけられる神の非常に厳しい言葉を私たちは聴きました。「もし、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任を私はお前の手に求める」という言葉です。 福音の中でのイエスの言葉は同様に強いです。 私達はカインのように「私は兄弟の番人でしょうか?」(創世紀
49節)ということはできません。 私達が兄弟の成長のために、または回心のために全然助けない時、私達が地上でつないだものは、よかれ悪しかれ、天上でもつながれています。 かえって兄弟を回心するように招くとしたら、私達が地上で解いたものは、天上でも解かれます。 マタイ2545節に「この最も小さい者の一人にしなかったことは、私にしてくれなかったことなのである」と書かれています。 ですから、私達には恐ろしいほどの責任があります。 が、同時に、神の愛の神秘に参与するものとして差し出される恵があります。 神はご自身が人間になられたのみでなく、私達の間の友愛的な相互援助によって、人類を救われます。

   預言者エゼキエルは私達に見張番の例えを話します。 見張番は目覚めていて、小さな危険にも注意を払っています。 皆が彼に頼っていて、彼は彼らの命と安全に責任を持っています。 イエスは私達が信仰のうちに目覚めている見張番であるように求められます。 弱者の見方である必要もなければ、他の人に教訓を与える必要もありません。 むしろ私達は、共同体からは離れようとする人々と友愛的な一致を保つために、また信仰の生き方を止めた人々を連れ戻すために、あらゆる努力をしなければなりません。 このことは勇気、繊細さ、慎み、忍耐、他人を理解する事など、絶え間ない祈りの内に根を下ろした事すべてを求めます。 イエスが命じられたように一対一で、兄弟と差し向かいで、というのは易しくありません。 しかし何もしないことや黙っていることや日光東照宮の3匹の猿を真似る(見ざる、聞かざる、言わざる)ということは卑劣です。 また、もっと悪いのは、関係のある人の後ろで批判したり、悪口を言ったりすることです。 お互いに他の人の事を批判するよりむしろ、彼らのために祈り、私たち自身の改心のために祈りましょう。 これが神の前に責任を取るという良いやり方です。 神の愛の名において、兄弟の永遠の救いに心を注ぐ事は、天の御父が憐れみ深いように、私達も憐れみ深くなることです。

 「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆う事になると、知るべきです」(ヤコブ520節)と聖ヤコブはまた私達にも忠告しています。 私達は皆、私達を愛して目覚めている兄弟で取り巻かれていますように! そして私たち自身、倒れたり、道に迷ったりしている人々を神の名において助ける見張番となりましょう。 なぜなら、聖パウロが「人を愛する者は、律法をまっとうしています」と言っているように、愛するとは果たし終わることのない義務です。(ローマ138節参照)無関心な状態でいたり、私は知りませんと言ったりすることは不可能です。

  信仰のうちで、キリストは戻って来るのを断る人々を捨てないようにと私たちに勧めています。 私たちは刑の宣告をするべきではありませんが、彼らに対して、同情の態度を守りましょう。 神にとって失われたものは何もありません。 その摂理はいつも活動的です。 決して希望を失ってはなりません。 神である私たちの父は、人類の真只中に居て、失われた子羊を自分の肩に乗せて連れて来ようといつも捜しに行きます。 しかし私達はいつも私達の共同体の聖性に対する責任をもっと感じるべきです。 それは、私達の共同体のなかで、信仰、愛、希望の衰弱に対して注意深い見張番となりながらです。 アーメン。

  


                         年間第25主日    2008921

     イザヤ5569節 フィリピの信徒への手紙120C2427A節 マタイ20118

   もし私達が福音の論理に従うなら、オリンピック競技において最後になった人も金メダルを受けるでしょう。 それは全く不条理に見えます。 しかし私達がいつも思い出さなければならないことは、本当らしくない要求を通して、イエスは神の心を発見するよう私達に望まれることです。 イエスの例え話をよく理解するために、イエスが神の王国について話される事を忘れてはなりません。 すべての人が同じ幸せを味わう平和と愛の王国から誰も遠ざからないように神はお望みです。

  例え話の人物は皆に対して正しいです。 というのは働き人には非常に気前のよい給料を与えるからです。 彼にとって大切な事は、働いている時間ではなくて、彼の寛大さであって、この寛大さは限りがありません。 神は良い方で、神の善意は皆に対して、すべてにおいて自由です。 神の寛大さは褒美ではなく、いつも喜びと感謝のうちに受け取る恵みです。 神はたとえ私達がショックを受けようとも、ご自分のやり方で王国を差し出されます。

   ブドウ畑の主人は二つの論理、つまり理性の論理と心の論理に従います。 二つとも必要なものです。 正しくなければなりませんが、さらに良くなければなりません。 「神を捜し求めなさい」とイザヤは第一の朗読で忠告し、神はただ単に人間的な正義に基づいて、自分の行動をお決めになりません。 イザヤはさらに「彼の思いは私達の思いをはるかに超えている」と言っています。 私達の考えは利己主義、嫉妬、あるいは野望で汚れています。 それに反して、神はいつも善意にあふれています。 もし私達が神を見出そうと望むなら、神の愛し方を受け入れなければなりません。 というのは神は私達皆を、正しくても不正であっても、最初の者であろうと最後の者であろうと、神を愛する者であろうと神を憎む者であろうと、聖人であろうと、罪人であろうと、例外なしに愛しているからです。

   神は雇い主ではありませんが、誰かが神の呼びかけを掴み、人類に対する神の愛のご計画に入ろうと決意する時、喜びに溢れる父です。 正義と平和の神の王国の建設の冒険への参加を受け入れる人々と、絶えず親しくしようと神は求めておられます。 王国の働き人は自分を満たす限りのない無償の愛を見出します。 王国は神が私達に差し出される救いで、一人ひとりの手柄に基礎を置かず、神の自発的な自由によるものです。

   重要な事は、神がまず私達を愛されたという事を、認識する事です。 私達の神はすべての人に機会と愛を与える父、栄光を分かち合おうとすべての人に呼びかける父です。 イエスは私達を人間の論理から神の論理へ渡らせようと望まれます。 神は私達が神の好意を喜ぶように望まれ、すべての人に対して、同じやり方で、私達が振る舞うように望まれます。 神を理解する一番良い方法は、疑いもなく、隣人を愛して、神のようになりながら、正義と慈しみに溢れることです。 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、残りのものは皆加えて与えられる」(マタイ633節)と述べられています。

 「私にとって、生きるとはキリストです」とは聖パウロの素晴しい叫びです。 彼に対するキリストの愛を考えて、喜びに溢れています。 ある意味でパウロは何も捜し求めません。 というのは、彼はイエス・キリストにおいて神を見つけたからです。 しかしながら彼は躊躇します。 永遠にキリストと共にいるために死にたいのです。 しかし、彼が兄弟たちに対して持つ心配の故に、彼らと共にいて、彼らを教え続けることを望みました。 が、パウロは幸福な人です。 なぜなら彼は自由だからです。 恐れから自由であり、個人的な野望から自由であり、キリストでないすべてのものから自由です。 キリストは彼の命なので、パウロは自由で喜びそのものです。 私達が皆、神の王国のこの喜びを心の中に持つことが出来ますように!  証しするべきものはもはや何もなく、守るものは何もなく、得るものも失うものも全くない人々の特徴はこの喜びです。 この喜びは自由な人の喜びです。 彼らは何が起こっても、自分たちがキリストに属しており、そして天の父の愛する子供であるということを知っているからです。 アーメン。

            

                       年間第26主日      2008928

     エゼキエル182528節 フィリピの信徒への手紙2111節 マタイ212832

  今日、イエスは自分たちが正しくて、律法の忠実な守り手であると思っている祭司長たちと律法学士たちに、二人の息子の例え話を語られます。 祭司長と律法学士は神の望みを行なっていると自慢していますが、実際には、洗礼者ヨハネと神の子であるイエスのメッセージをつぎつぎと拒否しました。 エゼキエルが彼らを見れば確かに「彼らの行動は奇妙だ」と言うでしょう。

  この例え話で、イエスは律法を教えるがそれを守らない人々がすることの脈絡のなさを示します。 「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。 私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ721節)と言われます。 同様に、ヤコブは自分の手紙の中でこれを「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ217節)と説明しています。 言うことと、行う事との間には、一人ひとりの信徒が跳び越えなければならない溝があります。 この例え話は現実の危険を示しています。 これは、典礼を行う事や教会の活動に表面上の従順さで参加するが、本当のキリスト者になることのない、すべての人々に迫っている危険です。

  要するに、これは説明が易しい例え話です。 ある父()がぶどう園で、つまり選ばれた民のそばで働くように、二人の息子に求めます。 父の願いに「いやです」と言った息子は、しかしながら、その後で思いなおして、ぶどう園へ働きにいき、暫くの間、信仰にも神の望みにも基づかないで生活した人々を表わしています。 しかし、イエスに出合って、彼らは回心し、自分の生活に救いの福音を受け入れました。 ところで、「承知しました」と言った息子は、その後何もしません。 この人が示すのは、神を知っていて、掟に従いますが、約束されたキリストを受け入れる時が来ますと、弁解して、受け入れるのを断る人々です。 しかしながら、キリストは聖書すべてを完成するために肉体をとって来られた神のみ言葉です。 ここで、どうして、イエスが「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 なぜなら洗礼者ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ」(マタイ213132節)と言いながら、この例え話を締めくくられたか分かります。

  この例え話から、色々な説明を引き出す事ができます。 一つの説明では、この約束した事に対する忍耐について、語られた言葉への忠実について、または権威を持つ人々に対する従順について話す事ができます。 また他の説明では、回心するのに、遅すぎると言う事は決してないと断言できます。 というのは、神は忍耐強く、罪人の帰還を待っておられるからです。 または、本当に回心できるためには、神のみ言葉が心に深く浸み込まなければならず、それには長い時間がかかるという説明をすることも出来ます。 これらの説明は本当ですが、肝心のことは、エゼキエル預言者が求めている事を実現する事です。 その事とは、「神の考えと行ないに私達の考えと行いを合わせる」ということです。

  イエスを信じるという事は、イエスの愛、命の言葉、受けいれの行いと赦しによって、満たされるままになることです。 つまり神が愛されるように愛することが出来ることです。 神のように愛するとは、求めた事にその人が「いいえ」と言うことの出来る自由を受け入れる事です。 それはまた、本当に「はい」と答える事の出来る者のよい意思を喜ぶ事でもあります。 神のように愛するとは、言った事を行うことです。 神が私たちに与えようと望まれる幸福は、私たちを生かす真理の霊の内に、命の泉から湧き出ます。 神が私たちの心のうちに注がれた霊と愛は、神と共に、また私たちと共に、確かに調和します。 結論として、私達は他の人達と調和のうちに生きることが出来ます。

  神は私達に行ないの自由と信頼する事、他の人をありのままに受け入れる事、私達の祈りの中に彼らを伴う事の自由を下さいました。 私達はすべての人に対して、自分は正しいと信じている人々に対して傲慢な態度ではなく、親切と受け入れと慈しみの態度を持たなければなりません。 それは回心する事です。 イエスに対する信仰は、私たちに神に似た者となる選びの自由を与えてくれます。 私たちに無償で差し出される最も大きな幸福はこれです。 なぜなら、休むことなく愛される神と同じ感情を自分のうちに持つと言うことは、私たちを直ちに、律法の奴隷の状態から「神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかる」(ロマ821節)状態に移る事です。 アーメン。



                               年間第27主日   2008105日 

       イザヤ517節  フィリピの信徒への手紙469節  マタイ213343

  神はブドウ畑であるご自分の民について嘆かれるとイザヤは語っています。 神は葡萄の木によい実が出来るのを望まれましたが、悪い実しか収穫しません。 そこでイザヤはエルサレムの住人に、神は彼らに対して極めて厳しくされるだろうと警告を発します。 イザヤとは異なり、イエスは例え話のなかで、持ち主は葡萄の木とはトラブルを起こさないが、彼が信頼して任せていたブドウ栽培者とは面倒が生じると言われます。 このブドウ栽培者たちは、葡萄の実を全部を自分たちの物として取っておきたいと望み、自分たちの邪魔になるものは全部、片時もためらわずに排除します。 明らかに、この例え話はイスラエルの祭司長たちや責任者に向けられたもので、人々に対する、また彼らが間もなく殺そうとしているイエスご自身に対する、不当な態度を告発する為です。

  イザヤとは反対に、イエスは彼らが厳しい罰を受けるだろうとは言われません。 むしろイエスは葡萄の木が実をつけ続けるのを心配されます。 たとえ指導者が悪くても、イスラエルの民や、また後になってイエスの教会も、どうしても良い実を結ばなければなりません。 イエスは罰する事に関心はありません。 「さてぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか?」と質問され、話し相手は「その悪人どもをひどい目にあわせて殺し、ぶどう園は収穫を納めるほかの農夫たちに貸すに違いない」と答えます。

 この答えに対して、イエスは第二の部分、つまり答えの後の部分についてしか答えられません。 それは「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」という部分です。 イエスは罰について話されず、まして仕返しについても話されません。 さらに、例え話にさっと目を通すだけなら、考えつくようなこと、異教徒に与えるためにユダヤ人から取り上げられる王国についても話されません。 なぜなら、事実、異教の国々は選ばれた民と信仰において結びつくようになるからです。 むしろ、自分の地位から追い出されたのは祭司長たちや民の責任者たちです。 というのは、自分たちの権威を民の奉仕に使って責任を果たさず、ただ自分自身の満足を満たす為にだけ使ったからです。

  エルサレムの勝利の入城の後(マタイ2119節)、イエスは神殿の商人を追い出されました。 「何の権威でこのような事をするのか?」と怒った大祭司たちは抗議しました。 そこでイエスは皮肉を込めてこの例え話を語られます。 「彼の権威は何処から来るのか?」と彼らが訊ねた丁度その時、イエスはご自分の死の後に彼ら自身が権威を失うだろうと宣言されます。 宣教をされた3年の間、イエスはイスラエルの民の苦しみを通して、幻滅という葡萄、苦味という葡萄の房、失望という葡萄酒、つまり指導者である悪い実を見ました。 カナの婚宴の喜びは遠い昔のこととなり、預言者イザヤが願った「正義と公正の実」はありません。 イエスが絶えず放たれる回心の呼びかけに対して、祭司長たちや律法学者たちは、無礼な言動や軽蔑や死の脅迫によってしか答えません。 しかしイエスはそれにも拘らず、新しいブドウ栽培者のおかげで、神の葡萄は実を付けるだろうと肯定されます。 そして、とうとう、王国の良い葡萄酒を飲む事ができます。 神の働き手は成功するだけですから。

  この例え話の全体にわたって最も強く響くのは、実をつけることの必要性です。 それは私達みなに関わる事です。 私達は皆一緒に世の救いのためのキリストの教会です。 福音は「どうして私達はこんなに度々他の人を締め出す必要があるのですか? 否定的なやり方で、時には、有罪を判決するようなやり方で、批判するのですか?」と私達に自問するように求めています。 私達の行いと言葉によって、他の人達を十字架上に釘付けにすることは、確かに、内面に平和を見出すよい方法ではありません! そこで、 私達の生き方によって、世界に救いの良い実を与えているかどうか、「公正と正義」である神の王国の実を与えているかどうかを、私達の心の奥底で自問しましょう。 神はイエスによって、とても素晴しいもの、神の命のみ言葉を私達に下さいました。 そして神は私達がそれで生きるように望まれます。 イエスが人生の隅の親石としてあり続ける実を、私達がつけるために!  私達はそれを願っているでしょうか? そのために充分祈っているでしょうか? アーメン。



                           年間第28主日    20081012

    イザヤ25610節 フィリピの信徒への手紙412141920節 マタイ22122

  天の王国を思い出すのに何故婚宴について話すのでしょうか? 答えは簡単です。 特に婚宴の席に着くのを断った人々が言った断りの理由を聞くなら全く簡単です。 マタイの叙述では皆、受けた招待を無視しますが、ルカの叙述では(ルカ141820節)彼らの拒絶の理由が分かります。 皆そろって、弁解をします。 ある人は畠を買ったため、他の人は牛を買ったため、もう一人の人は結婚したばかりだからです。 この最後の人の弁解は『妻を迎えた(ギリシャ語を読みますと、女の人を取る、つまり、物を取るように、女の人を取ったとなっています)ばかりなので』(ルカ1420節)であって、まるで例え話でイエスが私達に与えたいと望まれる考え方に反対するかのようです。 実際、結婚はまず、「妻を迎える」ということではなく、死ぬまで、私達が人生を分かち合いたいと望む人に、「自分自身を捧げる」ということです。

  他の言い訳も同じことで、マタイとルカの福音書では、仕事、商売、買い物に関してですが類似しています。 王の招待を拒絶する者は、自分自身を捧げる意向を持っていません。 皆, 物か人を独り占めすることだけを望んでいます。 所有についてのこの望みは、与えよう、特に、身を捧げようとされる神のご計画の反対です。 「王は怒っていて、不満だった」とイエスは簡単に言っています。 しかし王は妥協しません。 あきらめずに、婚宴の部屋が招待客でいっぱいになるまで、何かをもらおうと望んでいる良い人も悪い人も招待します。 ルカはここでまたもっと詳しく 「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」(ルカ1421節)と述べています。

  このように新しく招待された人達は皆、何かが欠けた生活を送る人達でした。 あらゆる点で貧しい彼らは、受け取ろうと手を差し出します。 神の王国とは神が与え、溢れるほど互いに与えあう喜びの祝宴です。 信徒やすべての人は彼らに神が無償で与えられるものを、受け取る準備が出来ていなくてはなりません。 ところが王は、婚礼の礼服を着ていない招待者を見かけます。 そこで再び、彼は怒って不満になり、すぐに宴会の広間から追い出します。 理由はその人が黙っていて、話し合おうとせず、説明も謝罪も示さないからです。 婚礼の礼服を着ない人とは、内面的に神との一致や対話に入りたくない思いを心の中にを持っていて、それを外面的に示している人の事です。 ですから、彼は招待されましたが、祝宴に席はありません。

  この例え話で、私達は招待され、質問されます。 この質問に、自分を正当化し、弁明するどのような答えを、神に差し出すかが求められています。 つまり、神が私達に与えたいと望まれるものを受け取る為に、神に向かって手を差し出すのを断ることについてです。 神の呼びかけに対する私達の沈黙や、神との対話を繰り返し拒否する事について、あたかも神が現存されないかのような、私達の生活態度を真面目に反省しなければなりません。 聖書の最初の言葉は神が創造された世界との対話を始められる神の言葉です。 イエスは肉となられた神の言葉で、私達を満たす為に与えられた永遠の命のみ言葉です。

 洗礼によって「私達はキリストを着ました」(ガラテヤ327節)し、神の子となる特権を得ました。 私達の名前は神の心に書かれ、神の手のひらに刻み込まれました。(イザヤ4916節) 信仰は私達を神の子とし、王の息子とします。 勿論、私達が招待されたこの婚宴は、まずキリストの婚宴ですが、私達は彼と一つになりますので、疑いもなくそれはまた私達自身の婚礼の祝宴でもあります。 そういうわけで、神の呼び掛けへの私たちの答えは、肯定でなければなりません。 私達が命に招待されているのであれば、私たちはとても忙しいとか、招待を断る沢山の理由とかを言うのは止めましょう。 特に、神と共に、又、私達の周囲にいるすべての人と共に生きる、信仰の着物を捨てないようにしましょう。 何時も、何処にいても、謙遜さと感謝をこめて、喜んでこの信仰の着物を身につけていましょう。 なぜなら、それは聖霊ご自身の命の息吹であり、私達が神の子である栄光の印だからです。 アーメン

                       

                               年間第29主日   20081019

         イザヤ4516節 テサロニケの信徒への手紙115節 マタイ221521

   イエスはご自分の答えが人々の気に入らないだろうと知っていました。 しかし、キリストは真理ですから、自分の肖像の刻まれた貨幣を発行する権利のある皇帝が、それを要求する権利のあることも言うのを躊躇しませんでした。 神に対しても同じ事です。 神は私達にすべてを求める権利があります。 なぜなら神はご自分の似姿として私達を創られ、私達に下さったものしか私達は所有していません。

  イエスが皇帝に属するものを彼に返し、神に属するものを神に戻すと言われた時、イエスはその教えの本当の意味を私達にしめされました。 それは税金を支払う問題ではありません。 たった一つ責任を負うことは、イエスの教えを聞きながら、神に対して賛成するかしないか、天の王国について受け入れるか受け入れないかについて、どうするかという事です。 この王国は、父である神が王で、おん子であるイエスは入いる為の狭い門です。 税金ではなく、イエスを通してすべての人に無償で差し出される、光と愛の恵みによって、神だけが統治されます。 


  キリストの答えのように、お金に縛りつけられたこの世のすべての権力者と指導者は、いつか自分たちの脱落へと追いやられます。 同様に、人は永遠に生きるために、神のイメージとして創られた本当の本性へ戻されます。 貨幣に刻まれた皇帝の肖像は消えてしまいますが、神のイメージとして創られた人間は、地獄に落ちようと救われようと、永遠にこの印を持っています。

  このエピソードは、神との関わりでの完全な従属を私達に思い起こさせます。 私達は神の唯一つのイメージが私達である事を、認めなければなりません。 私達の使命は、神の反映であるこの像を変形することなく、ひどくぼやけることなく、証することです。 私達の信仰を生きながら、私達を見る人々が、私達を通して、神の光を識別し愛するように、何時も努力しましょう。

  お金が偶像になってしまったこの世では、人がお金の奴隷であるのとは違った他のイメージを与えるように、イエスは切に求められます。 そして日常生活が要求するものを英知と信仰で理解するように、主は私達に求められます。 「皇帝に返すこと」そして特に福音が要求するものを「神に返すこと」です。 デナリオン銀貨、お金、皇帝などは、閉じ込もる人生の印と象徴であり、永遠の命に不可欠な豊かさから遠く離れた対極にあります。 当たり前の心配や不要な気がかりの中で、選り分ける為に神の業こそが私達の助けにならなくてはなりません。 もし、地上の物事に対する極度に不安な気がかりが福音的な価値から私達の気をそらせるなら、神に返さなければならないものを、皇帝に返す事になってしまいます。

 「神の物は神に返そう」 何よりも先ず、私達が差し出さなければならないものは、私達の罪人としての心であると同時に、信徒としての心でもあります。 というのは、人の心は神ご自身のイメージを自分のうちに持っているからです。 世界宣教のために捧げられた今日、すべての人びと、私達の兄弟の為に祈りましょう。 いつか、彼ら自身の心の奥底に、ローマの貨幣に刻まれたティベリウス皇帝の肖像よりも、もっと深くはめ込まれている神のこのイメージを、彼らが認めますように。 自分だけの利益のために、銀行家や株式仲買人が引き起こした国際的破産で、お金の奴隷となっている人達の為にも祈りましょう。 また給料を全くもらえない人、失業者やホームレスの人々のためにも祈りましょう。 最後に家族の遺産に対する欲望の為にお互いに離れてしまい、破壊されたすべての家族の為にも祈りましょう。

   終わりに、神が私達の心を変容させ、今以上に宣教師として下さるように祈りましょう。 人間の全運命に、決定的な意味を与える唯一つの印が神のみ顔であることを何時も思い出しましょう。 私達と出会う人達が、私達のキリスト者としての証を通して、神の顔を見出し、感嘆しますように! アーメン。

   

                          年間第30主日    20081026

       出エジプト222026節  ティモテへの手紙1510節  マタイ223440

   ファリサイ派の人たちはイエスがサドカイ派の人達を黙らせたと言う事を聞いて、次のような質問でイエスを試そうとグループでやって来ました。 その質問は「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか?」というものです。 旧約聖書の中には、十戒と、どうしても守らなければならないものとして、365の禁止と245の法律があり、全体として620の掟があります。 新約聖書の中には、二つの掟しかありませんが、この二つは旧い620の掟を完全に実現していて、イエスは「律法全体と預言は、この二つの掟に基づいている」と言われました。 この事を言いながら、幾つかの法律が強すぎる事とその数が多すぎることを告発する為に、預言者たちがどれほどの時間を費やしたかを、イエスは思い出されました。

  「あなたの神である主を愛しなさい」 イエスはどのような法律も私達に、愛する事を強要できない事をよくご存知です。 というのは、法律によって強いられた愛は、愛ではないからです。 イエスにとって、愛は感情でもなければ、私達をよぎる一瞬の幸福の息吹きでもありません。 愛するとは、歩き回る道であり、あらゆる注意を込めて実現すべき計画であり、多くは壊れやすいが、未来を作り出す建築でもあります。 神を愛するとはこういうことです。 それは信頼をもって、神の全能の愛を受け入れ、自分の特性と欠点をもって、余す所なく神に自分のすべてを委ねることです。 福者シャルル・ド・フコーの祈りはこの事を非常に良く表わしています。 それは「わが神よ、果てしない信頼を持って、この身を限りなくあなたのみ手にささげ、委ねよと、愛が求めてやまないからです。 あなたこそが私の父だからです。」という祈りです。

   イエスが神の愛を第一に置かれるのは、それはこの愛が他のすべての真実の愛にとって、必要不可欠な条件であることを私達に示すためです。 このことは、もし私達が神と本当の親密さを持たないなら、私達が他の人に抱く愛は不完全だという意味です。 イエスは第二の掟「第二もこれと同じようである」を告げられた時、はっきりと明言されました。 「同じようである」と言われることは、同一であるという事ではありません。 この隣人に対する愛の掟は、神に対する愛の掟に似ています。 というのは、他の人への愛のうちにしか、私達は神の愛を完全に生きることが出来ないからです。 出会うすべての人々のうちに、神を発見し、識別し、愛する事を学びながら、私達が神を愛することをイエスは求められます。 このようにして、神を愛する事が可能となり、易しくさえなります。 神を愛するとは、他の人の中に神を探し、見出す事です。 神は何時も信頼、友愛、分かち合いの関係のうちに、自分を発見するままになさいます。 雲のかなたにおられる神を愛そうとしてはなりません。 彼はそこにはいらっしゃいません。 私達は神が居られる所で神を愛しましょう。 それは隣人のなかです。 それで聖ヨハネは「『神を愛している』と言いながら、兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。 目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛する事ができません。」(1ヨハネの手紙420節)と書きました。

   「隣人を自分のように愛しなさい」と、ここでキリストは実現不可能な事を私達に再び求めたりされません。 「自分自身のように愛しなさい」とは支配することなく、自分のものにしようとすることなく、かえってあるがままに受け入れながら他の人に出会いに行く事です。 そうすれば全ては簡単になります。 なぜなら、愛が私達のすべての行いと反応の中心となるからです。 出エジプト記の中から引用された第一朗読で読まれる、最後の句の「もし彼が私に向かって叫ぶならば、私は聞く。 私は憐れみ深いからである」という言葉は、神がどのようにその隣人を愛されるかを、私達に示しています。

   ローマの信徒への手紙の中で(1310)、パウロは私達がそうしなければならない愛し方を「だから愛は律法を全うするものです」と要約しています。 如何なる律法も私達に愛する事を強制できません。

   聖パウロの愛の賛歌は、別の方法で、真実の愛が何であるかをよく表わしています。(1コリント1347節) もしこのように愛そうと私達が努めないなら、私達は自己愛のとりこであり続け、その愛は、神を捨て、隣人を軽蔑する利己主義で傲慢な愛になります。 しかしこれに反して、もし、真実の愛を実現しようと努力するなら、その時は、私達はようやく新しい掟を実行する事ができます。 この掟はイエスが亡くなられる前に、私達に与えられたもので、神と隣人に対する二つの掟に要約されます。 「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ1334節)と。  アーメン
 


                         死者の日    2008年11月2

        哀歌3,1726節  コリントの教会への手紙 41451節 ヨハネ63740

  「見よ、私は戸口に立って、たたいている。 だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をするであろう。」(黙示録320節)

   ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世が教皇として選ばれた日に、「恐れずに贖い主に、扉を大きく開いてください」と述べました。 信仰のうちに私たちに先だって生きていた兄弟姉妹は、多分、この扉を開けた可能性があります。 それは彼らの存在がすべて神に委ねたものとなるためです。 しかし、神の鼻先でこの扉をピシャリと閉めたキリスト者の為に、またこの扉を開ける事が出来ず、さらに開けようとも望まなかったキリスト者でない人々の為に、私たちの懇願と取次ぎとが神のもとへ上っていきますように・・・ この日に私達はすべての人が救われるように神に願いましょう。 「私の父の御心は、子を見て信じる者がみな永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることである」とイエスは言われましたから。

  「来て、見なさい」とヨハネの福音書は絶えず、繰り返しています。 実際、キリストを見ること、キリストを信じ、彼のうちに留まる事は、すべてのキリスト教的人生の目的です。 その通りです。 私達はイエスの故に、「よそ者であり、借り住まいの者であり、自分の故郷を捜し求めている者」(ヘブライ111314)のようになりました。 天の国に向かう道で、私達の人生は深い意味を持ち、値打ちのあるものです。 そして人生は道そのものです。 なぜなら、私たちの人生の日常性の中で、神は私たちの一人ひとりと契約を結び、それを発展させようと望まれるからです。 日常生活の種々の状況のなかで、イエスは私たちに見るように呼ばれ、彼を信じるように、また彼に従うように誘われますが、それは私たちのうちに主が留まる為です。 「父が私にお与えになる人は皆、私のところに来る。 私のもとに来る人を、私は決して追い出さない」とも述べられています。

   ローマの信徒への手紙の中で,使徒パウロは「何もかも私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離す事は出来ないのです」(ローマ839節)と、キリストの証を繰り返します。 そこで使徒パウロはその理由を次のように長く説明します。 「私たちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。 従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ1478節)と述べており、知恵の書も同じ教えを与えます。 つまり、「主に依り頼む人は真理を悟り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる」(知恵の書39節)という箇所です。

   十字架上でのイエスの叫びは、死を前にする私たちの無理解と苦悶をすべて含んでいます。 神は私達の人間的条件を真面目に引き受けられます。 イエスは、罪以外を生きる一人の人間をすべて生きました。 死に打ち勝ったキリストは、誰でもその手を受けようとする人に、復活された手を伸ばされます。 神は死から救い、真実の命の扉を開かれる正しく憐れみ深い方です。 今日の福音は、私達にイエスの救いの使命を思い出させます。 「私をお遣わしなった方の御心とは、私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることです。 私の父の御心は、子をみて信じる者がみな永遠の命を得ることだからです」(ヨハネ63940節) 神は私達を救うという一つの目的しか持たれません。 私達が神から遠ざかる時でさえ、神はご自分の救いをあきらめずに、私たちに下さいます。

  「愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ神を知っているからです」(1ヨハネ47節)と聖ヨハネは宣言しています。 すべての死者のための日が、イエスによって神から私達にもたらされるこの愛に、だんだん自分を開いていく機会となりますように・・・私たちの人生のあらゆる面から、イエスが入ることが出来るように、私達の魂の扉を大きく開きましょう。 無限の愛に溢れて、イエスはこの扉の傍に立ち、私達に「見よ、私は戸口に立って、叩いている。 だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をするであろう。」(黙示録320節)といわれます。 既にこのミサで私たちは座って、「主と共に、主は私たちと共に」食べるように招かれています。 キリストの体と血を頂く事によって、私たちは永遠の宴会を前もって味見し、私たちを待っている永遠の救いの喜びを両手で一杯汲む事ができます。 そうすれば、この地上を去るときが訪れる時、すべての聖体拝領に強められて、私たちは不意を突かれることがありません。 かえって今まで私たちの人生できわめて重要であったものが永遠に続くと、キリストの光のうちに悟るでしょう。   アーメン



                  ラテラン教会の献堂   2008119

      エゼキエル471,2,8,9,12節Tコリントの信徒への手紙391116,17節ヨハネ21322

   今日、私たちはラテランの聖ヨハネ大聖堂の献堂を祝います。 このバジリカはローマの司教である教皇の司教座聖堂で、320年ごろ、つまり 迫害の終わり頃、コンスタンチヌス皇帝のに建てられ、324年、聖シルベストロT世教皇によって献堂されました。 当時は「聖なる救い主の教会」と呼ばれていました。 このバジリカはローマで一番古い教会です。 その献堂を記念して祝いながら、私達は礼拝の特権を持つ場所として聖別された事を思い出し、教皇とすべての教会の一致と共同体的交わりを宣言します。

   今日の朗読がエルサレムの神殿について語るのは、それは、この神殿が信徒にとって、復活したキリストの教会のシンボルだからです。 新しい神殿のビジョンのなかで、預言者エゼキエルはキリストの刺し貫かれた右の脇腹から溢れ流れる、すべての恵と祝福をあらかじめ述べています。 キリストの神秘的体である教会は、私たち一人ひとりがすべてを自由に汲むことの出来る泉です。 このすべてとは何かと言えば、私たちの体と魂を癒す為に必要なものすべてです。

   使徒パウロは信仰によって私たち自身が聖霊の神殿となった事を、私たちに思い起こさせます。 なぜなら、キリストは私たちの人生をその上に築き上げる堅固な岩だからで、彼は私達をしっかりと支え守る基礎です。 それは私たちの全人生をもって、神に栄光を帰することが出来るためです。 神の神殿、それはまた、私たちの小教区共同体です。 そこには、一人ひとりの場所があり、一人ひとりが他の人を頼りにするところであり、お互いに他の人を支える所であり、聖霊が私達すべてを神の栄光を賛美する賛歌に変容する所です。(エフェゾ112,14節)

  神殿の商人たちを鞭で追い出しながら、イエスは教会と私たち自身が祈りの家、聖なる神殿でなければならないと繰り返し言われます。 イエスはまた、私たちに自分の生き方から、また信じ方から、神に対する障害となっているものすべてをどのように追い出すかを示されます。 この激しさは必要です。 というのは、人は無気力では回心せず、かえってたゆまぬ努力によって回心するからです。 神の神殿は、私たちキリスト信徒一人ひとりであり、この神殿は聖なるものです。 私たちが批判する事で、共同体の誰かを遠ざけるなら、平和な心の中に問題を引き起こすなら、しっかりした者の中にあれやこれやのやり方でもろさをつくりだすなら、それは取りも直さず、神の神殿を攻撃するのだと言う事を知りましょう。 ですからイエスはそんな攻撃を我慢する事ができません。 なぜなら、私たちには聖霊が住んでおられて、出会う一人ひとりの人にどのような尊敬を抱かなければならないかを私達が理解しているからです。 コリントの信徒への手紙の中で、パウロは強くこの事を思い出させています。「あなた方は自分が神の神殿であり、神の霊が自分達の内に住んでいることを知らないのですか。 神の神殿を壊すものがいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう」(1コリント3章、16,17節)と忠告しています。

   かつて神はモーセに「私はイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となり、彼らは私の民となる」(出エジプト2945節)と言われました。 この言葉はいつも現在性を持っています。 神は私達のうちに住もうと望まれました。 あゝ、しかし何と言うことでしょうか、私たちはしばしば神を独りぼっちにします。 たくさんの取るに足りない事に係わり合い、忙しく立ち働きます。 神の御前に生きること、それは私たちの内にある聖所(神の住む場所)にたびたび立ち戻る事です。 そして神に次の祈りを幾度も言いましょう。 「おお主よ、あなたはあなたの家、私の心の深みにおられます。 私の心の奥底の、あなたの所へ私を引っ張っていってください」と・・・ イエスの弟子たちは詩篇6910節「あなたの神殿に対する熱情が、私を食い尽くしているので、」を思い出しています。 これこそ従がうべき模範です! 私たちの教会が私たちの祈りの場所となり、私たちの信仰を豊かにし、強める場所となり、わたしたちが神を易しく見出す場所となりますように・・・聖体拝領によって、イエスは私たちのうちに来られます。 そして彼は「あなたの神殿に対する熱情が、私を食い尽くします。」とイエスと共に繰り返すように招かれます。 主の招きに喜んで答えるよう、マリア様が私達を助けられますように! アーメン。



                         年間第33主日  20081116

 箴言31101319203031節 Tテサロニケの信徒への手紙5章T−6節 マタイ251430

   キリストの再臨の時は何時であってもそれほど重要ではなく、大切な事は、神の現存において生き、どんな時であろうと、キリストを受ける準備をしていることだと、パウロは言っています。 キリスト者は信仰のうちに目覚めていなければなりません。 というのは、主はキリスト者のこの地上での人生に一つの計画をされたからです。 もし主が私たちのために選ばれた所で忠実に生きていくなら、私達の才能を豊かに実らせるために聖霊の恵が与えられるでしょう。 いつか私たちが主にお返ししなければならないものは、生まれた時の状態にあったものではなく、自分の人生を生きている間中、神が私たちに預けられた賜物のお陰で、変化していったその自分です。 なぜなら、私達に与えられたこの賜物は、すべての人のためのもので、神は私達に決算を望まれます。 聖パウロはコリントの信徒への手紙で「一人ひとりに『霊』の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(127節)と警告しています。

   ローマ帝国では、タラントンは重さの単位です。 銀5タラントンは、約150万ドルの価値があります。 全幅の信頼をもって、主人は自分の帰還まで莫大な財産を管理するようにと、召使たちに依頼しました。 いわば主人は一財産を召使たちに任せたのです。 実際、タラントンは教会に委ねられた神の王国を表わしています。 一人ひとりは真心からこの王国の利益に大きな関心を持たなければなりません。 私たちの最も悪い間違いは、このような宝物にすべての人を呼び集めるよりも、信頼の欠如から、むしろ埋めておいたことです。 例え話しの主人は召使に信頼して預けたタラントンで彼らに何をしたら良いかは言いません。 私たちも彼らがそれをふやすために何をしたかを知りません。 ただ、彼らは主人が示した信頼と自分の責任に大きな関心をもって、急いで何かをしました。

   第三番目の召使は忠実ではありませんでした。 なぜなら彼は信頼をもって生きてはいなかったからです。 主人の気苦労を自分のものとしなかったからです。 委ねたタラントンを返しますが、主人はこれに全く興味がないので彼を厳しく罰します。 私たちは他の人よりも少ししか貰わなかった上に、厳しく罰されたこの人に、一度で可哀そうな、気の毒な人だと憐れみを示します。 だが、イエスは正直に忠告します。 私たちを狙っている大きな危険は、自分自身が天分に恵まれていないと思い込み、または、才能がないとか自分の信仰が弱いから、などと神を含めて、誰にも言い訳をする必要がないと思い込むことです。 悪い僕が自分の怠惰を認めずに、もっと悪い事に、自分の主人を公に非難し、彼が種を撒かなかったところで収穫する事を厳しく非難します。 私たちの祈りがかなえられないと神を非難する時、この悪い僕に良く似ています。 同様に、自分を罪悪感から開放する為に、自分の霊的な怠惰の重みとか無気力や、何かへの参加に対する恐れなどを他の人に背負わせる時、この僕によく似ています。

   この例え話からイエスは人が自分の人生を管理する為に、反対の二つの仕方、,つまり信頼か、恐れかがあると言われます。 非常に豊かに寛大に信頼を示す神に対して、私たちは丁度同じ信頼によって答える事が出来ます。 私たちが返す事ができるよりもっと多くを神は決して要求されません。 しかしもし私達が神について、またその目的について誤った考えをもつなら、その時こそ,恐れが私たちの態度すべてを支配し始めるでしょう。 三番目の僕の過ちとは恐れる事でした。既に創世記の第3章で、人間の根本的な罪とは恐れと不信であると教えています。 「主なる神はアダムをよばれた。 『何処にいるのか』 彼は答えた。 『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり隠れております。 私は裸ですから。』」(創世記3910節)と。 悪い僕も同じように弁明します。 「私は恐ろしくなり、出かけていって、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。 ご覧ください。 これがあなたのお金です。」と言っています。 誘惑者は何時も憐れみ深い神の本当の姿を見せずに、そんな方ではないと私達に思い違いさせます。 つまりねたみ深く、油断のならない神、特に人間に対する支配を失う事を恐れている神という考えを吹き込みます。 「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」 根本的な、ただ一つの罪とは神を恐れることです。

   例え話の主人は留守です。 神は何時も私たちが完全な自発性を持つようにまかされます。 神の創造者としての力に私たちを参加させようと、神は途方もない信頼を示します。 第一の朗読で称賛されている、力強く、思慮深い婦人のように、(格言31)、またパウロによって目覚めているように招かれているテサロニケの教会の信徒のように(Tテサロニケの信徒への手紙55,6節)、主が帰って来られるまで、主を待つ私たちの期待は、私たち一人ひとりが自分の責任を完全に果たし、あらゆる面で協力することです。 なぜならキリスト教的な信仰は、貴重なものとして守るように委託するものではなく、また、信仰宣言の内容を暗記する事や、典礼のやり方を守る事でもないし、良い行いの保障でもありません。 真の信者に信仰はいつも希望を与えます。 その信仰が成長しながら. たえず豊かな実を結びますが、それは神のご計画を実現する為です。 アーメン



               王であるキリストの祭日  20081123

エゼキエル3411121517節 Tコリントの信徒への手紙15202628 マタイ253146

   ロマネスクの時代には、キリスト者はキリストを表わすのに、美しい帯で飾った長い、国王の衣を着せ、髪の毛と髭はしっかりと櫛で梳かしつけ、目は大きく開いて、頭には王冠を被り、威厳に満ちた姿で示しました。 苦しみの十字架は彼らにとって、栄光の印、死に対する勝利の印でした。 このロマネスク時代の十字架は、私達の人生のあらゆる悲劇を復活の光に向かって生きるように、私達に呼びかけています。

   大抵の教会では、キリストの十字架は祭壇のとても近くにあり、典礼における焦点であって、私達は皆、十字架のほうへ向きます。 それはキリストの後に続いて、私たちが心の底から御父に向かいたいと深く希望している事を思い起こす為です。 「世の終わりが来ると、その時、キリストはすべての悪を滅ぼし、父なる神に国を引き渡します。 最後の敵として死が滅ぼされます。 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてをご自分に服従させてくださった方に、服従されます。 神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」(Tコリント1524節〜28節参照)

   キリストは人々の真の光でこの世に来られました。(ヨハネ19節) それは彼らの人生を、最も肝心な事、つまり彼らを待っておられる御父と永遠の命に向かわせるためです。 み言葉によって私たちは進路を見出し、主の光の中を歩みます。 「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれた事である。」(マタイ2540節)の意味がはっきりと分かります。 今日の福音で私たちは永遠のうちに入りました。 そして審判の箇所は今朝はほんの数秒で長くありません。 愛が決定しました。 この世の真っ只中で隠れて生きる事を選ばれた私たちの王は、隠れていたものに日の光を当てるために、簡単に覆いを取り除く事しかされません。 ある人たちは愛する事を選びました。 ほかの人たちは隣人の必要に目を閉じる事を好みました。 最も驚くべき事は、両側にいるものがどちらも驚くことです。 あたかも誰一人、聖書の勧告を読んだ事がなく、またはキリストが話されるのを聞いた事がないかのようです。 「いつ、私たちはあなたにお目にかかったでしょうか? 何時私達はあなたに知らん顔をしたでしょうか?」と訊ねます。 イエスは私たちの人生の一つ一つの行いがイエスに向かって方向付けられているか、またはイエスに背を向けているかを教えてくださいます。

   最も小さいものたち、差別された人たち、また一人で切り抜ける力のない者達と一致するキリストの神秘をどのように分かるでしょうか? どんな風に理解できるかを、イエスは最も小さいものと、その苦境、孤独、苦悩、そして死とまで一体化することによって王であることを私たちに啓示されました。 「キリスト者であろうとなかろうと、または無神論者であっても、ある人は信仰によって地上の人生の間に、他の人は死の時に、つまりすべての人間はこのキリストとの出会いをします。 私たちの死の時は、私たち一人ひとりにとってキリストの帰還のときです。 その時、溢れる光のうちに、私たちのありのままの本当の事が現れるでしょう。 私たちの行いのひとつひとつは在るがままに考察されます。  福音のこのページを十字架の聖ヨハネは「私たちの人生の夕暮れに、愛について裁かれるでしょう」と述べています。 そしてある修道女は「神の王国とは、素晴しい人間関係の事です!」といいました。 その通りです。 神の王国は毎日の私たちの具体的な現実のうちに、深く根を下ろしている本当の何かです。

  神の王国は、からしの木の小さい種のようなものだとイエスは言われます。 私達は幸いな者です。もし、信仰によって、祈りとほかの人に対する気配りが大きくなるのを見るなら、またもし、私たちの人生において、今日既に、現存するキリストと内面的に親しく出会っているなら、幸いな者です。 もし、私たちの信仰と行動が、神のみ言葉に対する日々の黙想に応じる光と、秘蹟と、祈りの力によって、規則正しく養われているなら、私達は幸いです。 そうでなければ、私たちはどのようにして、周りを取り巻いている人々のうちに、キリストの現存を識別できるでしょうか? 私たちのランプが灯され、油が沢山ありますように! なぜなら生き生きとした信仰だけが、つまり、神によって養われた信仰だけが、私たちの隣人の中に、キリストを見る助けとなります。 その隣人がお金持ちであろうと貧乏であろうと、病気であろうと健康であろうと、日本人であろうと外国人であろうと、のけ者にされていようと尊敬されていようと、  アーメン


  
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