グイノ神父の説教



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  年間第13主日  B  2009年6月28日

 知恵の書 11315節、223,24節 コリントの信徒への手紙U 87,9,1315節 マルコ 52143

    マルコはごく僅かのキリストの言葉を伝えているのですが、悪のすべての力に対して、キリストが急いで闘おうとしている事を私達に知らせています。 「すぐに」と言う表現はマルコの聖書の中でしょっちゅう繰り返し表れます。悪に対するこの闘いの中で、イエスは「あなたの信仰があなたを救った。 怖れないで、ただ信じなさい」ときわめて重要な言葉を述べています。 信仰は奇跡を得るために、必要な条件です。 信仰なしには、何も出来ないとイエスは認めています。 人々が無力の状態に陥る時、イエスは何時もご自分の力を行使するという事もまた、マルコは教えています。 そこで、マルコは全く無力な二人の人物、ヤイロという会堂長として尊敬されている一人の男性を紹介し、病気のせいで、社会から離されている一人の婦人を紹介します。

    イエスは自分を取り巻く人々の未熟な信仰や、ときにはためらい勝ちな信仰を軽蔑する事はありません。 このような信仰を強める為に、イエスはいつも個人的な対話や接触をしようと努力します。 そういうわけで、出血病を患っているこの婦人と関わります。 彼女は健康を回復し、また結婚して母になる権利をとり戻す為に、
12年来闘い、自分の財産を全部使い果たしました。 というのは「法律上不潔」な彼女の状態は男の人との接触を何であれ禁止していたからです。 彼女はあらゆる事を試していて、最後の希望はイエスに懸かっています。 屈辱を受けた人生に対して彼女はもう耐えることが出来ず、十全に生きたいと言う彼女の意志は、恐怖を乗り越えるほどで、群集にも拘らず、やっとイエスに触れることが出来ました。 イエスを囲む人々の中で、沢山の人が彼に触れ、彼女だけが癒されました。 どうしてでしょうか? それは生きたいと言う望みがイエスを信じる力を彼女に与えたからです。 疑いもなく彼女の信仰は「もし私が彼の服に触れるなら、救われるでしょう」という迷信や魔術に染まっていました。 自分の不幸せを話しながら、すごく震えているこの婦人の言うことを、イエスは聞きます。 イエスは彼女に平和を返し、もっと本当の信仰に彼女を導きます。 「あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。 もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と。 癒されて、彼女は直ぐに社会で自分の立場を取り戻しました。 イエスに対する信仰で救われて、彼女は自分の体全体に、イエスは本当に命の泉だと感じました。

    この婦人が病気にかかった時、ヤイロの娘は生まれたばかりでした。 12歳のこの子供は幼年期を抜け、一人の婦人になり始め、彼女の前途には美しい未来が開けています。 しかしここに死が彼女を求めます。 彼女の父であるヤイロは動転しますが、彼はイエスが娘に手を置いて癒してくださるだろうと、堅く信じています。 可愛い娘の死の知らせは彼の希望を打ち砕きます。 「恐れることはない。 ただ信じなさい」とイエスは彼のぐらつく信仰を強めるように促します。 ヤイロは自分の不運を甘んじて受け入れるよりも、一歩飛躍して復活を信じなければなりません。 しかし、イエスの権能は魔法の見世物ではありません。 人の救いと神の全能はいつも慎み深さと単純さの中に表わされます。 ですから、イエスはあざ笑う者や泣く者を追い払い、ご自分のそばに子供の両親と弟子のうち3人を残して置かれました。 そして彼は子供の手を取りながら、アラム語で「タリタ・クム! 少女よ、起きなさい!」と言います。 子供は生き返ります。 イエスは彼が命の主であり、永遠の命の源である事を、この奇蹟によって新たに示されます。 彼はまた「私は主、あなたの神。 あなたの右の手を固く取って言う。 恐れるな、私はあなたを助ける」(イザヤ4113節)と言うイザヤ預言者の言葉を実現します。

    もし、マルコが少女に食べさせる事を主張するなら、それは私たちを反省させる為です。 洗礼を受けて死から命へと通り越したキリスト者は、聖体の秘蹟に赴かなければなりません。 神から受けた新しい命をキリストにおいて維持する為です。 神は私達を蝕む悪と闘うために、またご自分の言葉と体で私達を養う為に、更にご自分の命を私達に与えるために、私達の側におられます。 「神は死を造られたわけではなく、命ある者の滅びを喜ばれるわけでもない」(知恵113節) 第一朗読のこの句は、私達の長い人生の間中、心に留まるものでなければなりません。 私達の信仰が迷信にならないように、神に絶対的な信頼を持ちましょう。 ですから、 皆共に信仰のうちに目覚めていましょう。 お互いの為に祈りましょう。 特に、愛の証として、神への感謝の証として、この信仰をもちましょう。 ア−メン。
  

                 年間第14主日  B年   2009年7月5

   エゼキエル 225節   コリントの信徒への手紙U 12710節   マルコ 616

     マルコ福音書のはじめの5章の中で、イエスの宣教が稲妻のように、衝撃的に告げられています。 イエスは使徒たちに囲まれて、数々の奇蹟を行い、沢山の群集が彼に従います。 しかし、彼の故郷の人々は喜びをこめてイエスを受け入れる代わりに、非常に強くショックを受け、イエスをはねつけました。 イエスがご自分の最初の失意を忍ばれ、失敗を経験されたのは、ご自分の家族、ご自分の故郷においてでした。

   ナザレは無視され、軽蔑されているガリラヤのつまらない村で、ナタナエルは救い主がここから出ると聞いて、驚いています。 「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とナタナエルは言っています。(ヨハネ福音書146節) 考古学者は、当時ここには全部で20軒ぐらいの家があるだけだった、と断言しています。 ナザレの数少ない住民は、イエスが物知りであるにしろ、全く普通の人である大工ヨセフとマリアの息子であることしか、考えられませんでした。 イエスがメシヤであり得ること、奇跡を行なう事が出来るのを信じるのを、彼らは拒否します。 その時、イエスが彼らに言われた事を聞く代わりに、彼らはイエスをその外見から判断するのです。

   これは私達皆の欠点です。 例えば、ある司祭が小教区に任命されます。 すると、人々は先ず、彼がどんな服を着ているか、はっきりと自分の考えを言うかどうか、いやな人か、おどけた人か、または気さくな人かどうか、あるいは独裁的か、怒りっぽいか、内気かなど・・を知ろうと努めます。 そして私達は人にとどまって、主を見ずに、通り過ぎます。 主はご自分が遣わした司祭を通して、私達に自己紹介しようとしていられるのに・・・ 肝心な事は外包みではなくて、内容です。 実際、司祭とか宣教師は包装紙のようなもので、これに隠されている贈り物を見つけると、もう外包みは必要がありません。 司祭が神について説教をしたり、話したりするときに、神が私達に下さる贈り物を啓示してくださるように聖霊に祈って、このプレゼントを包んでいた、包装紙は忘れましょう!

   この福音の光で、私達は自問できます。 私達の近くにおり、自分達の信仰を伝えようと努めている人々をどのように受け容れたら良いでしょうか? 私達はそれをどのように聞けば良いのでしょうか?というのは、私達は彼らの欠点とか、弱点を知っているので、彼らの証しの価値を下げる傾向があるからです。

     神がみ言葉を宣言するのにエゼキエルを送られた時、イスラエルの民を納得させるために、神は特別な権能を彼に与えられませんでした。 神はエゼキエルに率直に話すように勧めます。 「彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。 彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」(第1朗読) 福音の本当の証人は、自分達の限界をよく認識していますが、神に全面的に信頼しています。 彼らはイエスがパウロに言われた「私の恵は、あなたに充分である。 力は弱さの中でこそ、充分に発揮されるのだ」(Uコリント129節)と言う言葉を自分のものとしました。 彼らはたとえ、偏見、批判、不理解、また、聞くのを断るような事があろうとも、聖霊が証しの為に彼らを助ける事を知っていました。 また、神のみ言葉と福音は決して空しく宣言される事はないと知っていました。(イザヤ5511節)

   ナザレのイエスの証しの様に、司祭の教えも驚かされる事もあれば、ひんしゅくを買う事もあり、神の喜びと平和を与えることもあれば、全く無関心しか与えないこともあります。 しかし、神から選ばれ、送られた司祭は、よそから来たものについて語り、神からの何事かを教えます。 彼らは自分達を超える知恵を表明し、そして彼らが実行することは、確かに神の業です。 司祭についてのおしゃべりを聞くか、または彼らを通して神が表明される事を発見するか、あるいは、キリスト者は信仰の道について前進するかまたは、後ずさりするために、何を選ぶべきかを知らなければなりせん。 なぜなら司祭たちの教えは、聖書の黙想に、さらに個人的なそしてまた日々の祈りの中にその源泉を持っているからです。 ア−メン。



                年間第15主日   B年  2009712日 

  
アモス書 71215節   エフェソの信徒への手紙 1314節   マルコ 6713

     マルコのはじめの5章の中で、群集がイエスの周りへと急ぎ、喜んでイエスの教えを聞いているのが見受けられます。 特に群集はイエスに癒されたり、その奇跡を見たりしたいと望みました。 ナザレでの挫折はイエスの人生で、一つの曲がり角を示しています。 イエスは旅を再開し、ご自分の到来を準備する為に、使徒たちを前もって先に送り出します。 イエスはご自分の権能を使徒たちに与えられますが、それらは説教する事、癒す事、悪魔を追い出すことなどです。 しかし、イエスはナザレでの痛切な挫折が彼らにとっても、繰り返し行なわれる事を隠そうとはされず、彼らが無理解に出会い、締め出され、彼らの命そのものが危険に直面するであろうと、話されました。

    神かイエスが誰かを呼ばれる時、それは足踏みするためではありません。 神の選びは何時も使命の実行に送り出す事を意味しています。 「私についてきなさい」の後で、いつも「私があなたを送るところへ行きなさい」が続きます。 ご自分の預言者とされた神の呼びかけのお陰で、貧しい農夫アモスは、牛を剥ぎ取られました。 神の王国の間近に迫った到来を前にして、イエスは回心の道を準備しようと急いでいました。 一人で彼が全てをすることは出来ません。 ですから彼は祈りの一夜の後で、使徒たちを選んで、自分の権能を彼らに与えます。 疑いもなく、この使徒たちはこのような使命に対応する準備が出来ているとは感じていません。

    派遣は二人ずつで行なわれます。 使徒たちは、彼らが選ばなかった他の人といっしょに働くのに同意します。 その上、彼らのその後の存続は出会う人達次第です。 使徒たちは唯単に雄弁家ではない事に留意するべきです。 彼らは特に病人に対する同情を示しながら、イエスを手本にしなければなりません。 彼らの委ねられた使命は神のご計画の実現です。 この使命はキリストに所属する人を増やす目的のためではなく、悪の力の支配から癒し、救い、生かすためです。 こう言うわけでこの使命は必要不可欠で、緊急の事です。
 

    以上のようなわけから、イエスは使徒たちに、彼らが何を説教すべきかを言われませんでしたが、彼らがあるべき姿を、詳細にわたって強調されます。 貧しさと結ばれた隣人愛の証しは、あふれる言葉の証しよりも、もっと大切です。 使徒たちは神の王国のしるしを、明らかに示さなければなりません。 空の手で、無償で人に尽くす事や、友愛的分かち合いは、神の国を目に見えるものとします。 実際、宣教は一人ひとりの賜物の補足的性格のうちにしか実現できません。 また同様に、使徒たちの必要な貧しさは希望のしるしです。 無償で彼らが行なう奇跡や、お返しに彼らが受けるもてなしは、神の摂理のしるしです。

    福音はイデオロギ−を強制するものではなく、癒し、回心、十全に生きることへの呼びかけです。 宣教はいつも神と共に、また隣人と共に、愛の交わりに生きることへの呼びかけです。 勿論、使徒たちは拒絶を受け容れ、鼻先で戸をバタンと閉められ、人から馬鹿にされるでしょう。 しかし、足の埃を払いながら、使徒たちは、神の救いを拒絶すると言う彼らの決意の重大さを人々に示すでしょう。 神を嘲る事、それは死と塵の世に、閉じこめられる運命にある事です!

  「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」(ヨ2021節) 私達もまた、福音の良い知らせを人々に告げるために、私達のありのままの姿で、非常に限界のある方法しかありませんが、呼ばれ,遣わされました。 疑いもなく、私達は奇跡を行うこともありませんが、神を絶対に必要としている世界で、キリストの証人となるでしょう。 私達を遣わされた方のうちに、全面的に自分を委ねながら、私達の弱さの中に聖霊の力を注いでくださるように神に願いましょう。 特に私達の証しが受け容れられるように、人々の心と知恵を神が開いてくださるように願いましょう。 ア−メン。
 


                    年間第16主日  B年   2009719日

   エレミヤ書 2316節  エフェソの信徒への手紙 21318節  マルコ63034

    最初の宣教の後、使徒たちはイエスの周りに集まり、自分達がしたこと、教えたことを報告します。 イエスは喜んでそれを聞きますが、彼らが疲れていることに気付きます。 病人に絶えず頼まれる事や、炎天下を長時間歩く事や、満天の星空の下で眠ることや、度々空腹がどれほど辛いかを、イエスは体験から知っていました。 ですから、イエスは使徒たちが群衆から離れて休むように勧めます。 残念ながら、ガリラヤ湖は大きくはなく、小舟が進むよりも走っている群集のほうが早く行きつきました。

     舟からあがって、イエスはあらゆる処からやって来た大勢の群衆を見ます。 そこに、使徒たちはうるさい人々や邪魔者しか見ませんが、イエスご自身は「飼い主のいない羊のような」人達を見られます。 マタイはマルコよりももっと的確に、この人達が「弱り果て、打ちひしがれている」(マタイ936節)と書いています。 実際、使徒たちは舟を漕いだので、また群集は走ったので、皆、息切れし、疲れ果てていました。

     イエスはご自分の心の奥深いところで、皆に対する同情が湧き、感動されました。 そこで分け隔てなく、使徒たちや群集を、長時間、教え始められました。 イエスはこの様にして、自分の羊に注意を払う良い羊飼いとしてご自分を啓示します。 イエスはまた第一の朗読で私達が聞いたエレミヤの預言を実現します。

    マルコはイエスが語った事を私達に述べていません。 しかしイエスの言葉は、泉のように透明に、夜の風のようにさわやかに、光のように明晰にほとばしり出ます。 イエスの教えは偽りの約束も、人の心をそそるずるさもなく、ただ、救いの良い知らせだけです。 神のことばであるイエスは、生かす言葉,赦し、信頼、慈悲、慰め、確信、愛と平和の言葉を差し出します。 私達は神の言葉がいつもそれを聴く人の体と魂に、休息と平和を与える事を知らなければならないし、また知らせなければなりません。 神の言葉であるイエスは、パウロが言っているように「実に、キリストこそは私達の平和」なのです。(エフェ214節)

    神の言葉は、内面的な平和を私達に与えます。 それは私達がほかの人々に伝える為です。 自分の心に話すイエスの言葉を聞く人は、「遠く離れている人々にも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げに来られたイエス」と心を合わせて、一致している事になります。(エフェ217節) マリアのように、自分の心にイエスの言葉をとどめる事は、私達をキリストご自身の反映とすることです。 そうです。 私達は第一の朗読のなかで預言者エレミヤが語っているこの羊飼いの一人になるでしょう。 「彼らを牧する牧者を私は立てる。 群れはもはや恐れることも、おびえる事もなく、また迷い出ることもない」と。(エレ234節)

   「そのときイエスは憐れみに捕らえられ長時間教え始められた」とマルコがはっきりと書くのは、大きな欠如に対する同情からです。この欠如とは、群集の神についての無知であり、神のことを知りたいと言う彼らの望みについてのものです。 この方向を見失った群集に対してイエスが行なわれた第一の世話は、彼らを新たに方向付ける事であり、彼らの人生の深い意味を教えることです。 イエスはご自分の人格のすべてを尽くし、行いと言葉によって教えられます。 疑いもなく、私達もまた、神、聖書、秘跡的な生活、教会の歴史に関する私達の無知を満たさなければなりません。 しかし私達に知りたいと言う望みがあるでしょうか? 神のみ言葉に飢え、渇いているでしょうか? キリストと共に命と平和の泉になりたいでしょうか? または「飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれて」(マタ936節)いる群集の中の目立たぬ者の一人であるほうを好むでしょうか? 今日もまたイエスは私達に「あなたは私を何者だというか」(マルコ829節)と訊ねます。 いったい私達はなんと答えるでしょうか?  ア−メン



                   年間第17主日  B年  2009726

    列王記下 44244節   エフェソの信徒への手紙 416節   ヨハネ 6115

     パンの増加は4つの福音書に、6回繰り返して取り上げられているただ一つのイエスの奇跡です。 それはつまり、初代キリスト者に重要な事であると見なされていると言えます。 ヨハネの解釈は非常に詳しく説明されていて、私達が全部を聞くのに、5つの日曜日が必要です。 それはキリスト教的人生の源泉と頂点である聖体の神秘について黙想する機会になるでしょう。

    ヨハネは群集が数々の癒しを見ようと、イエスのところに駆けつけたと言います。 ヨハネは決して、「奇跡」と言う言葉を使いませんが、「しるし」と言う言葉を使います。 これらのしるしは信仰を呼び起こし、イエスの本当の人格を啓示します。 イエスは奇跡の作り手ではなく、神から遣わされ、生きて、活動される神のみことばです。

   「この人達に食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか?」という質問には驚かされます。 他の全部の奇跡は人々の願いによって成就されたのに、ここでは主導性を取られるのはイエスです。 ほかの人に対する配慮は、イエスが示す第一のしるしです。 フィリップは必要なお金の莫大な総額を計算しますが、持っていません。 アンドレは少年の持っている食べ物を告げて、5000人のためには話しにならない事を知らせます。 仕事の賃金200日分の法外さと、5つのパンと2匹の魚の取るに足りない少なさは、驚くべき対照です。 フィリップは表面的な答えしかもたらしません。 少年は自分の食事を差し出します。 彼はいつでも差し出せるたった一つの食事を持っているたった一人の人です。 ところで、これは何でもない事ではありません。 というのは、この5つのパンと2匹の魚は初代教会において、キリストご自身の、また聖体の、象徴となります。

    大人のように計算高くなく、気前よく自分の持っているものを与えた、名も知られないこの少年のお陰で、イエスは群集に食べ物を与える事が出来ます。 長時間、話して、イエスは既に人々を霊的に養いましたし、彼はいまや、物質的な食べ物を彼らに与えます。 6回、福音は「イエスはパンを取り、感謝を捧げ、それを人々に分け与えられた」と語っています。 同じ言葉が聖パウロと福音史家によって聖木曜日の最後の晩餐のときに引用されます。(コリントの信徒への手紙T1123節、マタイ2626節、マルコ1422節、ルカ2219節) これは幾世紀にもわたって、毎回、ミサのときに、繰り返された、聖変化の時の言葉です。  ミサは、キリストの秘跡的なしるしです。 即ち、まずキリストは神のみ言葉を聴くことで私達を霊的に養い、それから御自分の体である永遠の命のパンを私達に与えて、私達の飢えを満たされます。

    ヨハネの話のなかで、旧約聖書の暗示はたくさんあります。 山(3節)はモーセによってマンナが与えられた事から、そのモーセの山が思い出されます(出エ15章)。 大麦のパン(9節)は預言者エリシャの奇跡を思い起こさせます(第一朗読)。 青い草(10節)は新鮮な草の上に憩わせる詩篇23の良い牧者を思い出します。 最後に残ったパンで一杯になった12の籠(13節)は聖書の中の12の数、充満のしるしが連想されます。 群集は直ぐにこのしるしを理解しました。 と言うのは彼らは「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と叫んだからです。 群集は間違えませんでしたが、イエスは遠ざかるほうが良いとされました。 イエスは群集の政治的、地上的願望を満たす為に来られたのではありません。 私達を養い、救う為に、あの少年のように、イエスは彼が持っておられるもの、み言葉、おん身体とおん血、御死去と御復活をすべて、私達に与えられました。

    残りのパンの12の籠は、疑いもなく、その日には、人々はそれほど飢えていなかったと言うことではないでしょうか。 彼らは神の賜物をとことん受け容れる事を知りませんでした。 私達の場合も度々そうではないでしょうか? もしミサが私達にとって度々退屈で、つまらないとしたら、それは私達が充分神に飢えていないという単純な理由のせいです。 そしてまた、私達がイエスとの出会いを充分準備していなかったせいです。 5週間の間、聖ヨハネと命のパンについて黙想しながら、この事についてよく反省しましょう。 アーメン。 


  
                 年間第18主日    B年    200982

  出エジプト記16241215節 エフェソの信徒への手紙4172024節 ヨハネ62435

    ヘブライ人は砂漠にいたとき、働かないで、神が彼らを毎日養ってくださるのが当たり前だと考えていました。 と言うのは、自分達の欲望と期待のままにすることしか考えなかったからで、モーセは神に対する飢えと渇きを、上手く彼らに与えることが出来ませんでした。 「彼らはマンナを食べたが死んでしまった」(ヨ649節)のです。 もし彼らが望むなら、この天から来たマンナは神を知る為の道を開く事が出来たのでした。

    ですから、使徒パウロが自分の手紙の中で、キリスト者が「人を惑わす情欲に流されて堕落しきった」
(エフェ422節フランシスコ会訳) 異邦人のように生きないようにと、しばしば勧めたのは、このような訳からです。 また彼は「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。 そこでは、キリストが神の右の座についておられます。 上にあるものに心を留め、地上のものに心を惹かれないようにしなさい」(コロサイ312節)と懇願しています。

    福音の中で、イエスは人間の望み、飢え、渇きについて話します。 しかし彼は特に霊的な欲を物質的な欲に対立させます。 地上の必要な物事に執着している人は、キリストを理解する事も、信じることも出来ないだろうと、イエスはよく知っていました。 ヘブライ人、ユダヤ人、回心した異邦人そして私達自身も、皆、内面的な命に必要不可欠なスペースを、自分のうちに造るのは難しいです。 私達は神と共に愛の親密さを生きるために、神を知ろうと求める代わりに、直ぐ目の前にある幸せを享受するのを好みます。

    イエスを取り巻く群衆はしるしを望みます。 イエスは彼らの願いを遠ざけようとはしません。 イエスは「私は命のパンである。 私の許に来る者は決して飢える事がなく、私を信じる者は決して渇く事がない。」と言われて、しるしとして、ご自分をお与えになります。 イエスはこのように、自分の物質的命しか考えない人々に、永遠の命を差し出されます。 しかし明らかに人々は誰もこれに興味がありません! イエスが彼らのために問題を解決した時だけ、人々はイエスについて行こうとします。 しかし、イエスが少しばかり厄介な物事を提案される時、皆、彼から逃げ出します。 イエスは私達が望むことを取り消すよりも、反対に、増加させるのを求められます。 イエスは私達一人ひとりの熱望や望みを、もっと、もっと高めるように励ましたいのです。 「朽ちる食べ物の為に働かないで・・・」と言われ、そこでイエスに「何をするべきでしょうか?」と訊ねたら、イエスは「神があなたに遣わされた人を信じなさい」と答えられます。 イエスは永遠のために、愛し、愛される飢えと渇きを与えるために,遣わされました。 実に、イエスは私達の心に神への愛と知識の為に道を開かれる、この命のパンです。

    しかし、人は基本的に必要なものを満たしたいです。 これだけを捜し求めて、自分の時間の大部分を使いますが、「唯一必要な」神を捜すのを忘れます。 私達が小さく、はかない幸せで騙している、最も頑固な飢えを養う命のパンはイエスです。 この永遠の命のパンを受けるために、唯信じるだけで充分です。 ところで、信じるとは、神が私達に下さる、御子を信頼のうちに受け取る事です。 イエスは何かを与えるために、天から降ってこられたのではなく、ご自分自身のすべてを与えるために来られました。 イエスは命です。 私たち自身と最も親密な命となるために食べ物として、自分を与えられます。

    ですから私達の心を開いて、無償で与えられるイエスを受け取るために、手を伸ばしましょう。 「なぜ糧にならぬもののために銀を量って払うのか?」(イザヤ552節)とイザヤは訴え、エレミヤは「生ける水の源である私を捨てて、無用の水だめを掘った。 水を溜めることの出来ない壊れた水だめを。」(エレミヤ213節)と抗議します。 そして聖アウグスティヌスは自分の著「告白」のなかで、「私の神よ、あなたのうちに休まない限り、私の心は憩うことがありません」と告白しています。 「無に導かれる」ままになっている者と聖パウロが言っている異邦人のように生きてはなりません。 むしろ、「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいて正しく清い生活を送るようにしましょう」(エフェ424節参照)。 イエスをいただきましょう。 彼は私達の永遠の幸せ、私達に命を与えるために、天から降った本当のパンです。 アーメン。

 参考; 私の欲望は十字架につけられています。 そして、物質的なものを愛する炎は私のうちにはありません。 私のうちにあるのは、生きている水、語る水です。 この水は私の内心にこう語っています。 「父のもとにおいでなさい。」 私は朽ちる食べ物にも、またこの世の楽しみにも、味わいを覚えません。 私は神のパン、すなわちダビデの子孫であるイエス・キリストの肉がほしいのです。 また飲み物としては、その御血、すなわち不朽の愛がほしいのです。

                                アンチオケの聖イグナチオ司教殉教者




               年間第19主日    B年     200989

   列王上 1948節   エフェソの信徒への手紙 430節〜52節   ヨハネ 64151

    王妃イゼベルから死刑の宣告を受けたエリヤは、怖れに捕らわれ、命を救おうと逃げ出しました。 非常に熱情的なこの預言者は、自分が他の人と同じように、罪人であり、弱く、臆病である事に気付いていました。 勇気を失って、王妃イゼベルが命じる乱暴な死に服するよりも、砂漠で一人で死ぬほうが良いと考えました。 しかし神は思いやりを込めて、彼を元気付けられました。 天使が炭火で焼いたパンを幾つかと水差し一杯の水を差し出しました。 エリヤが神と親しく出会うまで歩けたのは、この「ヴィアティクス(ラテン語旅行のパン)」のおかげです。

    エリヤが受けたパンは聖体の秘跡を予め示しています。(死にかけている人々に与えるときの聖体拝領は特にヴィアティクスと呼ばれています。) 死から命へと私達を移らせる為に、大きな思いやりをもって神は私達に旅路のパンと命の水を提供されます。 が、それはもう灰の中で焼かれたパンではなく、ある方、神ご自身の御子です。 私達の人生の旅路のために、失敗と試練を通して、神は私達にイエスを与えます。 イエスは生きる水の泉であり、永遠の命のパンで、父である神との親密な一致のうちに私達を置きます。 何故なら、イエスは神の啓示であり、神から来て、神を見られた唯一の方です。

    イエスはこの「生きるパンであり、ヴィアティクス」で、これに対して、肉体的な死は本当の命に向かう歩みの中で、一つの段階に過ぎません。 イエスは切り離せない二つの方法でご自分の命を私達に与えます。 一つは、告げられたイエスの言葉を、私達の心に受け止めることによってで、次は、聖体拝領で受けたイエスの御からだと御血によってです。 この二つの条件なしには、詩篇
349節で言われている「深く味わって悟りを得よ。神は恵みに満ちておられる。」という言葉を体験するのは不可能です。

    神の命は信心深い考え、よく祈りたい望み、または美しい典礼の中で生まれるのではなく、現実にご自分を与えられるキリストの内でだけ生まれます。 神の単純さを信じるには、大きな信仰がなければなりません。 イエスのうちに二つの動きが実現します。 イエスのうちに神は私達のほうへ来られ、私達はイエスによって神の方へ行きます。 イエスは神から遣わされた方で、「ただひとり父をご覧になった」方であり、「天から降って来られた」方です。 もし第一の動きが私達の外側からのものであれば、第二のものは私達の内側からのものです。 「神のみ言葉と、命のパン」として受けたイエスは、私達を父の方へ導く方です。 何故でしょうか? それは、父が私達をイエスのほうへ引き付ける方であり、「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私の許に来る事はできない」とイエスが言われたからです。 勿論、私達のための、また私達のうちにある神のこのやり方を受けいれるか、拒否するかは私達の自由です。

    イエスは私たちに、信仰は父からの無償の賜物であることを思い出させます。 御父はその賜物を,忠実にみ言葉を聴く人に、注意深く心に留める人に、与えられます。 神との個人的な関わりを持つために、私達は世を救う神のパンを頂かなければなりません。 「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」(ヨ
651節)

    イエスは、聖霊が神の事に対する私達の知恵を広げるだろうと約束されました。 聖霊が私たちを照らし、私達の信仰を大きくしてくださるように・・・私達のために十字架に付けられたイエスのうちに、ご自分の愛を示し、ご自分を見せてくださる神を捜し求めるよう、聖霊の助けを受けましょう。 キリストの引き渡された御体と流された御血の恵を感謝して受けましょう。 差し出されたこの無償の愛を感謝を込めて受けましょう。 そして、イエスこそ、死から永遠の命へと通過させる生きるパンであると強く信じましょう。  アーメン。



                 年間第20主日     B年      2009816日 

   箴言 916節    エフェソの信徒への手紙 51520節     ヨハネ 65158

    「浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進みなさい。」と箴言は命じています。 「あなたの行動によく注意しなさい。 愚か者のように生きてはなりません。 賢明な者として生きなさい。」と聖パウロも懇願しています。 しかしながら、聖書の中でイエスは非常識なことを言うように思われたり、聞く人達に馬鹿かと思われています。 「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせる事ができるのか」(ヨ652節)と彼らはぶつぶつ言います。 しかし人々にもっとショックを与える危険を冒しながらも、イエスは強調します。 自分の肉を食べるだけでなく、さらに自分の血を飲まなければなりませんと宣言します。 この言葉のせいで、弟子たちの多くは「実にひどい話だ。 誰がこんな話を聞いていられようか」(660)と言って、去っていくほうを選びます。

    信仰なしには、イエスが明らかにされた神秘を理解する事はできません。 人々にとって愚かな事は、神にとって賢い事です。 
2000年経った今、イエスの言葉に最初に言われた時の力を再び与えるのに良い機会です。 神の愛の偉大な神秘に入るには、言葉をはるかに乗り越えなければなりません。 私達を永遠に神の内に、神によって生きさせるために、イエスはご自分を私達の食べ物、飲み物としてお与えになります。

    イエスは説明する事が出来るにもかかわらず、受けいれがたい事を色々なふうに繰り返し、ご自分の言葉によって、人々をわざと挑発する方法を好まれます。 唯一の真実の食べ物、唯一の本当の飲み物である、彼の体を食べ、彼の血を飲まなければなりません。 イエスは真理であり命です。 彼はご自分が言われたみ言葉をありのままに信じるように望まれます。 これが命を得るための唯一の条件です。 具体的にそれを生きることで、イエスの神秘を理解する事ができます。 どんな説明でもすべて、いつも不十分です。

    私達を神の神秘に入らせるには、食べたり飲んだりする事は具体的な行為です。 「私のパンを食べ、私が調合した酒を飲むがよい。」(箴95節)と箴言で言われています。 食べて、飲む事は、私達とは異なった外側のものを、私たち自身のものにするために、消化し、吸収することです。 しかし、反対に、イエスの体を食べ、その血を飲む事は、イエスのうちに内在化することです。 つまり、それは、彼の体と彼の血になるために、キリストの死と復活の神秘を私達のうちに受けいれる事です。 「私達が神を賛美する賛美の杯は、キリストの血に与ることではないか。 私達が裂くパンは、キリストの体に与ることではないか。」(Tコリント1016節)と書かれています。

    イエスの肉と血は神がどのような方であるかを啓示しています;つまり愛によってご自分を差し出す方です。 ご自身の命に私達を同化しようとキリストは聖体を授けます。 ご聖体を授ける時に、聖アウグスティヌスは「あなたが受けた方になりなさい」と言っていました。 ラテン語の“communio(共有、共同体的一致)は同じ責任、同じ機能を分かち合う事を意味します。 聖体を拝領するとは、食べるという事だけではなく、何よりも、キリストの使命に参加することです。  イエスのようになると言う問題は、「命のパンとなり、食べられる人間」となること、つまり、「毎日、私達の命を愛によって完全に与えること」です。

    「私の肉を食べ、私の血を飲むものは、永遠の命を得る」(ヨ654節)とイエスは言われました。 聖体を拝領できる私達は幸い! 何故なら、私達がイエスの御体と御血を戴く時、イエスは私達のうちに、私達は彼のうちに留まります。 イエスは私達に自分の命、永遠の命を譲ります。 この司祭年にあたって、私達が決してキリストの御体と御血を取り上げられる事がないように、何時も司祭を与えて下さるように、父である神に願いましょう。 全世界において、永遠の命のパンを私達に下さることで、キリストの使命を完成する全ての司祭のために、イエスに感謝しましょう。 最後に、神への飢えと渇きを、毎日私達のうちにもっと深く掘り下げてくださるように、聖霊に願いましょう。  アーメン。

           
     
                 年間第21主日    B年    2009823

  ヨシュア記2412節、1517節,18節エフェソの信徒への手紙52132節ヨハネ66069

    今日の3つの朗読の共通の主題は決心です。 約束の地に入る時に、民は周りの国の人々の宗教に心を惹かれていると言う事をヨシュアは知っていました。 ですから、彼は決定的な選びをするように民に求めました。 「あなた方はどんな神に仕えたいか、今日、選びなさい」と。 パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、結婚すると決めた人々に呼びかけています。 お互いの根本的なこの選びは、「偉大な神秘である」と、キリストと教会の神秘に思いを馳せながら、明言しています。 結婚するとは、永遠の愛を、二人で生きると自由に選ぶ事です。 福音の中で、沢山の弟子たちがイエスを棄てました。 というのは、彼の言葉が受け容れがたいと思ったからです。 自分の許に留まった人達に、イエスは「あなた方も離れて行きたいか?」と選びをするように求められます。

    長い人生の間中、私達は数多くの選びをしなければなりません。 最も難しいことは、選ぶ事ではなく、過ぎ去っていく日々を忠実に生きることです。 神を選ぶ人は、他の偽りの神々を全て放棄します。 結婚する人は、夫や妻に対する忠実によって、誰かほかの人を愛する事を放棄します。 キリストに従う事を選ぶ人は、瞬間的な幸せを保証したり、未来のことは分かっていると主張したりする、色々の宗派の間違った預言を聞くのを放棄します。

    毎日、私達は自分の選びの動機を深めていかなければなりません。 それはその動機に忠実に留まるためです。 選ばなければならないとしたら、全てを選ばなければなりません。 「後はまあ、見ましょう」と言いながら、自分達に興味のある選びの一部分だけを選ぶことは出来ません。 ペトロの事を思い出しましょう。 イエスに対する彼の愛着は絶対に誠実なもので、皆の前で彼が宣言した事を本当に信じていました。 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ2633節)と言った時です。 続きは皆知っています。 大祭司の屋敷の中庭で、ペトロは3回もイエスを知らないと繰り返します。 選びは誠実であっても、繰り返しても、充分ではありません。 ペトロはイエスが神から出られたことを信じていました。 「あなたこそ神の聖者であると、私達は信じ、また知っています」(ヨハネ6章69節)と彼は宣言しています。 しかしペトロは苦しみと十字架によってご自分の使命を完成されるというイエスの特徴ある選びを受け容れようとはしませんでした。

    全てが上手くいく時、イエスを選ぶのは易しい事です。 しかし、病気や、苦しみや、死別の悲しみや、離婚の問題が起きるとき、キリストに従うことはもっと困難になります。 挫折や苦難も過去を振り返る誘惑を引きおこします。 その時こそ、「あなたも離れて行きたいか」と訊ねるイエスの声が、私達の苦悩の心に響いているのに気付かなければなりません。 「主よ、私達は誰のところに行きましょうか? あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。」と言う忠実な言葉で答える力と賢明さが直ぐに与えられるでしょう。 突然、心に十字架の出来事を置かれた人にとって、神が愛である事を信じるのは難しいです。 しかしその時に、キリストは私達に「あなたが仕えたいのは誰か、今日選びなさい」と言われます。 神に信頼を持つか、または、あなたの感情、気持ち、怖れに支配されたままでいるか、どちらかを選びなさい。

    神を完全に信頼しているのは難しいでしょう! しかしながら、私達は誰も他の人の許へ行く事はできません。 というのは、神を除いては、「無」しかないからです。 そういうわけで、日毎に、キリストに従うと言う選びを新しくする事は大切です。 イエスの弟子達は皆、彼の呼びかけに対して、「はい」と答えました。
 皆、例外なしに、疑いと怖れ、勝ち誇った成功と痛切な失敗を知っていました。 しかし皆、忠実さを保ちました、というのは、彼らは自分が信頼している方を知って(Uテモテ112節)いたからです。 彼らは「あなた方が私を選んだのではない。 私があなた方を選んだ」(ヨハネ1516節)や「父からお許しがなければ、誰も私の許に来る事はできない」(ヨハネ665節)と言う言葉をしばしば考えました。 イエスが何時も私達を自分の選びと自分の決定に忠実に留まらせて下さいますように!アーメン。



              年間第22主日     B年     2009830

   申命記41,2,68節 使徒ヤコブの手紙117,1821,2227節 マルコ71814,152123

    ファリサイ人にとって、手を洗うと言うことは、宗教的行為、また神に感謝する印です。 手を洗うことは、食事に神聖な意味を与えます。 人は神の前で食べ、自分が必要とする食べ物を毎日下さる事を神に感謝します。

    残念な事に、しばしば、非常に美しい伝統は、時が経つに従がって、じょじょに薄らいでいきます。 ファリサイ人は神に帰すべき尊敬の象徴を間もなく失ってしまいました。 彼らは唯、自分達のようにしない人達は、汚れていて罪びとであると言うためにだけ、手を洗うようになります。 そういうわけで、イエスは彼らに「あなたの悪い心が変わらない限り、あなたは手を洗う必要がない。 あなた方は清潔で清いと見せかけたいが、あなたの心は軽蔑の思いに溢れ、憎しみとけちと欲望に溢れている。」と言われます。

    イエスにとって、ファリサイ人がするように手を洗うと言うことは、偽善です。 それはピラトが後にすることです。 彼はイエスが完全に無実である事を認めながら、イエスの死の宣告をするときに、手を洗いました。 同様に、大祭司たちは、異邦人の傍で身を汚さないで、過ぎ越し祭のために身を清く保ちたいからと、ピラトの宮殿に入ろうとはしないのです。 しかしピラトが自分の意見を言って、判決を下す前に、彼らは、イエスの死刑の宣告を主張します。 彼らの法的な清さは偽善の最悪なものです! 悪は物の中に、食料や場所にはありません。 悪は私達のうち、私達の心の中にあります。 ですからイエスは、心の堕落である
12の罪のリストを与えました。 イエスが罪のリストを与えられたのは一回だけで、疑いもなく、今日の人も聞きたくありません。

    人間を分裂させ、時には地球を一種の地獄とする全ての悪は、私達の心から来ます。 手を洗うことで、心は清められません! しかし、もし神のみ言葉が私達の心に入り込むなら、そのときには神の赦しが私達を癒す事ができ、私達を清め、変えることが出来ます。 もし、病気で、罪のある私達の心から悔悛の涙が溢れるなら、そのときにはイエスは私達を柔和で、心の謙遜な人とし、平穏な人、神や隣人と和解する人とされるでしょう。 「心の清い人々は幸いである。 その人達は神を見る。」(マタイ58節)

    今日の福音は私達自身が真理の内に生きるように招いています。  自分の感情を抑えるように努力したり、神の前に真理の内に生きるように努めたりするより、 人を満足させるために、自分を良く見せるのは比較的易しいです。 ですが、自問しましょう。 関係や、言葉について私達は公平でしょうか?と。 私達の生き方は信仰を表しているでしょうか? 反対に、この世の生き方を模範としているのではないでしょうか? 福音は私達に神が偽善を喜ばれないことを思い出させます。 本当の信仰は思いやりとか、義務的な慣わしだけでは完全でありません。 本当の信仰は他の人を尊敬する事に始まり、それは行いと真理を表明するものでなければなりません。

    律法の完成とイエスによってもたらされた霊的刷新は、本質的なものを目指しています。 イエスは律法を破壊しませんが、律法に愛の力を与えます。 本当の愛には、自分を確立するために、規則、標識、目じるしが必要です。 愛するには、慣わしがなくてはなりません。 だから、たとえば、祈り方に関しても、たびたび、繰り返して言う形式とか言葉で始まります。 しかし、何年か経験してから、祈りは愛の単純な眼差しと沈黙になります。 「祈りとは、ただ単に愛している方の近くへ行く事です」と三位一体のエリザベトは語っています。 正教会の神学者、オリビエ・クレマンは同様に、「福音の大変革は、人が原理よりも大切にされる事です」といいました。 今や、キリストと共に、本当の礼拝は、キリストの人格に完全に、内面的に同意する事になります。 聖パウロはギリシャの言葉で言い表せない書式を用いました。 「
私は“エンノモス・クリスト”です」つまり「私は律法としてキリストを持っている・・・」です。(Tコリント921節参照)

    イエスが私達に願うのは、彼自身の愛で愛する事で、その愛は自由を与えると同時に、厳しく要求します。 ですから、神との愛の親密さの内に生きながら、愛に燃える心の人となりましょう。  アーメン。




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