グイノ・ジェラー^ル神父の説教



特別な祝い日

 と 祭日

聖人の祝い




聖家族
主の公現
キリストの洗礼
聖母被昇天
諸聖人の祝日

          聖家族B年       20141228日   グイノ・ジェラール神父

       創世記15,1-621,1-3  ヘブライ11,811-1217-19  ルカ2,22-40

    エルサレムの神殿に来られたヨセフとマリアは重大なことを行います。 彼らは自分の子イエスを神に捧げます。 神に自分の子を捧げることは、次の事を意味します。 「主よ、私たちはあなたからこの子を頂きました。 この子は私たちの所有物ではないことを知っていますので、あなたにお返しします。 この子の未来について私たちが立てた計画ではなく、あなたご自身がこの子に対して立てた計画を実現するために、この子を私たちに委ねられました。 ですからこの子があなたの御旨を行うようにあなたに差し出します」と。

    聖家族の祝日に当たって、両親、祖父母、教育者としてこの事について一緒に考えましょう。 全ての子供が神の賜物であり、神に属する子供です。 同様に両親も神ご自身の選びです。 神が両親を選んだのは、彼らの教育によって生まれた子供が神の立てた計画を実現する為です。 ですから、両親と子供たちはお互いに尊敬する必要性があります。

    農村の文明を持っている人にとって、子供はいつも神の祝福であり、大家族は豊かさの保証だと彼らは思っています。 しかし、都市の文明を持っている人にとって、子供は神の恵みではなく、大家族は豊かさでなく、むしろ経済的な妨げだと思っています。 と言うのは、子供を育てるのには多くの経済的な費用がかさみますから。 また、社会の面では身ごもっているお母さんは直ぐに仕事を失います。 そのためにたいていの女性たちは、子供を産むことを出来るだけ先延ばしにします。 今日では、子供が望まれるのは子供自身の為ではなく、両親の必要性の為です。 自分の利益の為に子供を生む時代です。 この状況を考えると子供を神の賜物として見分けることはとても難しくなり到底無理です。

    私たちは自分たちの為にだけ生きることが出来ないと、聖家族が教えています。 私たちの人生には神が決めた意味と目的があるのです。 両親も子供たちも皆が神の子供であり、神がこの世界に与えられておられる貴重な賜物です。 全ての子供が「神の子」であり、全ての家庭は「教会、即ち神の国のしるし」であります。 祈りと自分の生き方の内に、両親と子供たちは、自分たちに対する神の意志とこの世で委ねられた使命を発見しなければなりません。 人間の使命とは父親、母親として、また教育者、子供として、神がそれぞれに望まれることを実現することです。

    両親は命を決して与えません。 彼らは自分の子供に命を伝えるだけです。 実際に両親は自分たちが祖先から頂いたものを子供に伝えるのです。 確かに両親は伝統的なものと遺伝的なもの、即ち体の特徴や文化、言葉、その地方の習慣や歴史を遺産として伝えるだけです。 これらのものは、遠い昔から人から人へと伝えられてきたものです。 年を取ると、人は祖先からたくさんの物事を遺産として貰ったことが分かるようになります。 ですから、命は受け止めるものであり、そして伝えるものです。 神から受けた命を私たちはいつか自分の個人的な歴史を含めて神に必ず返すのです。

  今日、一般の家族の絆は弱くなりました。 つまらないことで両親は容易く離婚し、子供たちは両親が存在していないかのように生きているのです。 利己主義が社会的な関係にまで浸透して、他の人に対して信頼を失っています。 全てに対して自分を守るようにします。 その為に教会は信頼とお互いの尊敬を満たしている聖家族を模範として私たちに与えます。 教会は人生の困難の中に、また霊的な分野の中にある聖家族の一致をよく見せようとします。 ですから、神が委ねた使命を行なうように、「神によって、神と共に生きる喜び」が私たちの助けとなるように、聖家族の執り成しを願いましょう。 そうです、この世界の中で聖家族がそれを示したように、私たちも神の御顔の反映になりましょう。 アーメン。



          主の公現(祭日)B年   201514日   グイノ・ジェラール神父

                イザヤ60,1-6  エフェソ3,2-35-6  マタイ2,1-12

   今、耳にしたマタイによる福音は、神を礼拝する為に、神を探し求めるように私たちを招きます。 神を見つけることを可能とする第一のしるしは、神が創造された被造物です。 ですから、星空を眺めていた占星術学者たちは、不思議な星の中に神の呼びかけを発見しました。 神を見つけることを可能とする第二のしるしは、聖書が啓示する神の言葉です。 従って、預言者ミカの預言(ミカ5,1)を注意深く聞いた占星術学者たちは、救い主に導く道を知るようになりました。 神を見つけることを可能とする第三のしるしは、幼いイエスご自身です。 ですから、驚きの目で占星術学者たちは幼いイエスの中に人間になった神の神秘を発見します。 そしてイエスを長く礼拝した占星術学者たちは、心の中に大きな喜びを抱きながら、自分たちの国に戻りました。

   異邦人は、イエスの本当の人格とその固有の性格をイスラエルの人々よりも早く発見し悟ったことを、自分の福音を通してマタイは強調します。 救い主の誕生を伝え知らせる為に、長い旅をして東から来た占星術学者たちを、ベツレヘムまで伴う人は誰もいませんでした。 エルサレムからベツレヘムまで4キロしかないにもかかわらず、ヘロデ王も、大祭司たちも、律法の専門家たちも一緒に行こうとしませんでした。 同じように、イエスの裁判の時、ユダヤ人たちが恨みの叫びでイエスの死を要求している時に、異邦人の女であるピラトの妻だけが、ただ一人だけイエスの味方になってイエスを守ろうとしました(マタイ27,19)。 また、十字架の足元で異邦人のローマの百人隊長と彼に従う兵隊たちは、一つの声になって「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27,54)と宣言します。 反対に、イエスをののしって嘲笑った人々は、自分たちの目の前で実現された贖いの神秘を理解できませんでした。

   占星術学者たちは、私たちに三つの事を教えています。 先ず、ご自分を探し求めるように神は私たちを誘います。 そして、探している私たちに神は伴われます。 特に私たちがさ迷っている時に。 最後に、私たちが見つけられるであろうと思っている所には神はいつもおられません。 占星術学者たちは、エルサレムのへロデ王の宮殿で救い主を見つけられると思っていましたが、彼らは名も知られていない小さな村でイエスを見つけました。

    神であり、王であり、人間であるイエスに、彼らは捧げるべき最も相応しい物を与えました。 乳香や黄金や没薬は、キリストの神性と王権と人間性を表しています。 占星術学者に倣って私たちも、イエス・キリストに私たちの祈りの乳香、私たちの愛徳の黄金、回心と分かち合いへの私たちの努力の没薬を捧げましょう。 恐れずにイエスを礼拝しましょう。 また毎日イエスのみ手に自分たちの存在を委ねましょう。

   救い主のみ手に自分の命と信頼を委ねているからと言っても、私たちが絶えずイエスを探し求める必要性を決して免除されません。 キリストに出会えば出会うほど、私たちの存在は新しい意味を受け、私たちも新たにされています。 これこそ「別の道を通って自分たちの住む場所へ帰っていく」ことです。 キリストとの出会いが私たちの心を充分に大きな喜びで満たします。 それは私たちがもう一度、そしてもっと熱心に、イエスを探し求める為です。 そのことを物理学者パスカルがうまく表現しています。「私たちは神を見つけるために神を捜し、見つければ、またもう一度、神を探し求めています」と。

   ですから、神がイエスを通して、私たちに注ぐ偉大な愛を発見し悟る為に、大自然の美しさと被造物の豊かさ、また聖書の朗読と神のみ言葉の黙想、更にイエスに委ねられた礼拝と信頼が具体的な助けとなりますように。 洗礼を受けることで私たちはキリストの神性に与かっているので(コロサイ2,6-10、2ペトロ1,4)、「霊と真理を持って」(ヨハネ4,24)イエスを礼拝すること、イエスの内に永遠の幸せを見出すことは容易になります。

   主の公現の祭日に当たって、皆さんが神との親しさを見つける事、そしてそれを深く味わう事が出来るように心から祈っております。 アーメン。



       主の洗礼  B年  2015111日  グイノ・ジェラール神父

            イザヤ55,1-11  1ヨハネ5,1-9  マルコ1,7-11

   30年の間イエスは隠れた生活を送りました。 普通のユダヤ人としてイエスは貧しく暮らした大工の息子で、生活の為に彼も大工の仕事をしていたと思われます。 熱心なユダヤ人たちと同じように、イエスは安息日には会堂に行って、聖書を聞いたり読んだりし、また詩編で祈ったりしていました。 しかしヨルダン川の洗礼の出来事の時に、神はイエスの本当のアイデンティティーを公に啓示します。 即ち、全人類を救い、神の約束を実現するイエスは、イスラエルの民が待ち望んでいるメシアであり、神の子であることを啓示されました。

   それにもかかわらず、ヨルダン川で洗礼を受けることによって、イエスは私たちよりも偉い方になることを決して望みませんでした。 むしろ、謙遜に罪人たちのレベルにまで謙ったイエスは、私たちの罪と災いを背負う一人の人間として現れました。 生ける神の子であるイエスは、まず世のすべての罪を背負う為にいけにえとなるべき神の小羊です。 イエスは自分に委ねられた責任を果たす為に、神の意志を完全に行う人です。 この事実は、イエスの上に降る聖霊の現存と「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声によって確証されています。

    聖マルコによると、聖霊が私たちに特別な神秘を知らせる為に「天が裂けた」そうです。  もし、イエスが独り子であるなら、神は確かに彼の父です。 ここで父、子、聖霊としての三位一体の神の一致の神秘があります。 ご存じのように私たちが洗礼を受けた時に、この神秘はもっと深くなりました。 というのは、私たちも神の愛する子となり、そして三位一体の神は私たちの家族となります。 洗礼の秘跡が与える信仰によって、父なる神の子、イエスの兄弟、そして聖霊の神殿となった私たちは、もはや自分の為にだけ生きることが出来ません。 救い主キリストに結ばれた私たちが、イエスの名によって、またイエスと共に行うことはすべて世の救いに貢献します。

   私たちは神の似姿に創られているからこそ、神は私たちを愛してくださいます。 キリストにおいて私たちが贖われたからこそ、神は私たちを愛してくださいます。 私たちを深く愛してくださるから、神は私たちを聖霊の恵みで満たしました。 それは神がなさったことを私たちも同じように行うことが出来る為です。 愛する事、赦す事、助けの必要な人に手を差し伸べる事、これこそが神のなさることです。 私たちが神を愛することが出来、また神ご自身が愛するすべての物事を私たちも愛することができるように、神が私たちの心の内にご自分の愛の火を燃え上がらせました。

   結局、洗礼の恵みとは世を救う為の神の呼びかけです。 一人ひとりの信者は、神の愛する子として生きるように召されています。 洗礼を受けた人は、度々聖霊に祈ることによって、聖霊の親しい交わりの中に生きて行かなければなりません。 さらに、洗礼を受けた人は、日常生活のすべての出来事を通してイエスを探さなければなりません。 私たちは皆、神の家族ですから、もはや世の罪も自分の罪も無関心に無頓着に見ることは出来ません。 父なる神に向かって「アッバ、父よ」と言う可能性を受けたので、神の意志を忠実に行うように、私たちは全身全霊を尽くさなければなりません。

   洗礼は復活されたキリストと私たちを永遠に結びつけました。 受けた洗礼のお陰で私たちは死から命へ、罪から聖性へ、利己主義から愛へと絶えず移ることが出来ます。 ですから、受けた洗礼の恵みの為に、絶えず神に感謝しましょう。 私たちが信じることに大きな助けとなった人の為に、また洗礼を授けた司祭の為に、更に私たちを歓迎し支える武庫之荘の共同体の為に絶えず神に感謝しましょう。 この感謝の生活を毎日行うことによって、父なる神に愛されている兄弟姉妹として、私たちはお互いに歓迎し合うことが容易にできるでしょう。 アーメン。



聖母被昇天(年間第20主日)B年  2015816日  グイノ・ジェラール神父

            箴言9,1-6  エフェソ5,15-20  ヨハネ6,51-58

   知恵の道を進む為に、自分の愚かさを捨てるように、箴言の書が私たちを誘っています。 また、聖パウロも私たちが愚かな者としてではなく、知恵のある人として生きるように強く勧めています。 イエスの話を聞いた人々は、その言葉の意味が理解できないので、イエスを愚かな者だと思い込んでいました。 更に、私たちの信仰に与っていない人々も、マリアを祝い、彼女の無原罪と被昇天の恵みを信じている私たちは、愚かな者だと思っています。

   神の知恵は、愚かなものだと昔から思われています。 この神の愚かさについて、聖パウロはコリントの教会への手紙の中で長い説明をしました(参照:1コリント1,172,16)。 イエスご自身も神のなさることを「知恵のある者や賢い者は理解できないが、幼子のような者や小さい者たちが簡単に理解できる」(参照:マタイ11,25)と断言しました。 ミサ祭儀の神秘はおとめマリアの神秘と親密に結ばれているので、人々はそれを中々理解できません。 確かに、キリストの体がマリアの体とただ一つである神秘に一致しています。 なぜなら、キリストが受ける対立と敵対は、いつも母マリアの心を深く刺し貫くからです(参照:ルカ2,34-35)。 今日、私たちが祝い、記念するこの神秘こそ神の知恵です。

   すべてを理解できなかったマリアは、いつも神の内にだけ自分の信頼をおきました。 彼女はすべてを理解できない、その上にすべてを説明することはできませんが、それを信仰の内に承諾し、思い巡らします。 現にお告げの日に、マリアは天使の言葉を理解できませんでした。 また苦しみの3日間の後、エルサレムの神殿で自分の息子をようやく見つけた時、イエスが自分の弁明をする為に言った言葉を、マリアは全く理解できませんでした。 人々に対して、いつも深い憐みと慈しみを示した自分の子が、どうして恐ろしい暴力と憎悪の犠牲者にならなければならないのか、十字架の足元でマリアは全く理解できませんでした。 しかし、このような人間の愚かさについて嘆くよりも、信仰を持って、母マリアは自分の心の静けさの内に避難所を見出し、そして神の知恵の内に自分の信仰をおきました。

   マリアはいつも理解できなかったことを信仰の内に受け止め、思い巡らせました。 「神の考えは人間の考えではない」(参照:イザヤ55,8-9)ということをマリアはよく知っています。 見た事や聞いた事について静かな心で黙想する事によって、マリアは自分に啓示されている神の神秘に深く入ります。 神のはしためのマリアはすべてを理解できませんが、神が自分の為に自分の内に偉大な業を行っている事を認め、承諾し、信じます。 神の考えと希望が自分を超える事をマリアは承諾します。 神の前で謙遜なマリアは、取るに足りないでしたから、神は彼女をご自分の栄光にまで高く上げました。

   信仰がなければ、神の神秘を受け理解する事は不可能だとマリアは私たちに教えています。  信仰によって自分が神の母となる事をマリアは理解しました。 十字架の足元でマリアはすべての人の母となる事も理解しました。 自分の愛する息子の遺体を抱きしめながら、マリアはキリストの復活を信じます。 弟子たちと共に祈りながら、マリアは近いうちに聖霊が皆にくだる事を信じます。 人生の旅路を歩み続ける為に、マリアはいつも神の言葉を自分の支えとします。 その為に、エリサベトはマリアに次のように宣言しました。 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたあなたは、なんと幸いでしょう」(ルカ1,45)と。

   神のみ言葉に導かれて、マリアと共に歩む人は何と幸いでしょう。 なぜなら、その人の前に人間の知恵では理解できない、見知らぬ神秘的な空間が開かれます。 残念なことですが、人生の問題や試練を乗り越える為に、私たちは自分の持っている知恵だけに判断を委ねる事を好みます。 神と共に愛の偉大な冒険を生きる事を恐れているので、私たちはマリアが深く味わった喜びと幸せを全く体験できません。 「被昇天」という単語が「上にある永遠に残る物事を探し求める」(参照:コロサイ3,2)ことに私たちを誘います。 自分が持っている人間的な知恵と知識を超えるように、これこそ、被昇天の神秘を通して神の知恵が私たちに提案していることです。

   私たちの母マリアと共に親密に信仰に生きていきましょう。 マリアの母性的な祈りに支えられ、マリアの傍で歩みながら、神の知恵の深さと神の愛の言い表せない神秘の内に一段一段高く昇りましょう。 神が私たちの為に行った不思議な業を、信仰を持って真心からマリアと共に味わい、たたえ、喜び踊りましょう。 アーメン。



     諸聖人の祝日  B年  2015111  グイノ・ジェラール神父

        黙示録 7,2-4,9-14  1ヨハネ 3,1-3  マタイ 5,1-12

     ある聖人の生き方の物語を読んで、皆さんも「わたしも聖人になろう」という夢を抱いたことがあると思います。 しかし、日常生活の忙しさが私たちに現実的な感覚を持たせるので、聖性は私たちの為ではないと思いがちです。 そのうえ、聖人たちと私たちの間に深い淵があると感じています。 模範的な人物である聖人たちは、愛で燃えていて、素晴らしい徳をもっています。 ところがこの聖人たちと比べると私たちはなまぬるい人間で、無能な人間だと思い込んでいます。

     山の頂上からイエスは、ご自分に従っている群衆をご覧になります。 この人々は素朴な人であり、貧しい人、あるいは病人や罪びとです。 皆、心に大きな希望を抱きながらイエスを仰いでいます。 彼らは私たちによく似ています。 そして、イエスが彼らに語る言葉は私たちにも言われています。 イエスは永遠の幸せと聖性について分かり易い言葉で語ります。 「あなたがたは幸いである。 天の国はあなたがたのものですから」とイエスは宣言します。

     イエスは命令をせず、特別に何も願いません。ただ私たちを見ることだけで、どれほど私たちが美しく聖なる者であるかを発見し驚くのです。 「人間であるあなたがたは幸いです。 あなたがたの涙、苦しみ、清さ、正義、飢えと渇きを通して神の聖性があなたがたを輝かせます」と、私たちを見ながらイエスは私たちに教えています。 そうすることで、特に私たち一人ひとりに語っていることをイエスは理解させたいのです。

     「ご覧なさい、集まっているあなたがたの中で、不正のせいで非常に傷ついている人がいます。 また、自分の家族、あるいは世界の人々のために平和の恵みを願っている人がいます。 集まっているあなたがたの間で、助けを願い苦しんでいる人がいます。 彼らは自分の国から逃げる必要がありました。 今、彼らは移民となって貧しく飢えて泣いています。 また、あなたがたの間で他の人々は、柔和、平和、清さ、慰めと慈しみの泉となっています。 本当にあなたがたは幸いである」と、イエスは教えています。

    誰も神の聖性と信仰が与える美しさの輝きから逃れることができないことを、イエスは理解させるために色々な人の状態を語ります。 「神があなたがたに与えた聖性の美しさを自分たちの内に発見してください。 はっきり言っておくあなたがたは私の神秘的な体の部分ですから、聖なる者です。 本当に『あなたがたの命は私と共に神の内に隠されています』(参照コロサイ3,3)、『わたしを信じる者は永遠の命』(ヨハネ6,47)永遠の幸福を得ています。 喜びなさい、神があなたがた一人ひとりのうちに信仰の賜物と共に聖性の芽生えを植えて下さったからです。 私があなたがたを見ているように、自分自身をよく見なさい。 自分たちの醜さと恥を忘れて、むしろ神の聖性の内にあなたがたは成長するように召されていることを喜びなさい」と、イエスは強く勧めます。 そう言う訳で、諸聖人の祝日は私たちの祝い日です。 キリストの命、死と復活によって私たちが義とされ、聖なる者とされ、咎めるところのない者とされました(参照1コリント 6:11)。 私たちは「もはや自分自身のものではないのです」(1コリント6,19-20)。 私たちは聖人と同じように生きるように召されています。 言い換えれば、私たちはキリストのように考え、話し、行い、愛さなければなりません。

    イエスの言葉がよく響き、深く感動させる場所が私たち一人ひとりの内にあります。 この場所で、神が与えて下さった聖性の芽生えが成長し、強くなります。 私たちを見て、教えているイエスは特にその芽生えをよくご覧になります。 「きょう、神の声を聴くなら、神に心を閉じてはならない」と、詩編958節は私たちに勧告します。 ですから、私たちが信仰の忠実さに留まる恵みを神とすべての聖人に願いましょう。 神を深く慕う恵みが私たちの内に益々強くなるように、また神の言葉に対する私たちの飢えと渇きが益々深くなるように、諸聖人の働きかけと執り成しを願いましょう。 更に、諸聖人の模範に従って、私たちも平和、清さ、憐れみと喜びの泉となりましょう。 アーメン。


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