信仰をリフレッシュするためのカテキズム     (グイノ・ジェラール神父より)



                   この短い話を通して、必要なら、、自分の信仰を照らし、正しく育てましょう。

−1− 聖堂を出入りする人の祈り

  聖ベネディクトの戒律によると、院長から頼まれたことを果たすために、修道院の外に出る場合には、修道者はまず修道院の仲間たちへの祈りと神の祝福を願います。そして修道院に戻って来る時にも、仲間たちへの祈りと神の赦しを乞い求めます。その理由は、外にいた時に見てはいけないことを見たり、話してはいけないことを話してしまったり、不注意のせいで罪を犯したりして躓きとなったりするかも知れないからです。

  私たちもミサ祭儀が終わる時に、自分の家に戻る前にみんなの祈りの助けと神の祝福を受けます。そしてまた、次の日曜日に教会に戻って来た時、ミサの初めに私たちみんなが犯した罪と過ちのために神の赦しを願うと同時に信仰の兄弟姉妹に祈りの執り成しを願います。

  このやり方は、私たちの内に謙遜とお互いの信頼を生み出し、そして、私たちの信仰を強めます。信仰の兄弟姉妹が私たちのために祈るから、私たちは日常生活の出来事の中でキリストを発見し、聖徒の交わりの神秘を生きているのです。


−2− キリスト者は3回生まれる

  ご存知だと思いますが、私たちはキリスト者として、3回生まれます。最初はこの世に生まれた時、次はキリストを信じて洗礼を受けて神の子として生まれた時、最後に死を通して永遠の命に入る時。私たちが十字架を切る時に、この3つの誕生の意味をはっきりと示しています。

  父なる神は、私たちがお母さんの体内に居た時から、人間に必要な命を与えました。この世に生まれた私たちはこの命を大切にします。

  洗礼の水が私たちのに注がれた時に、キリストは信仰生活に必要である、ご自分の命を私たちに与えました。神の子として生まれ変わった私たちは、キリストの御体御血をいただくことによって、益々キリストと親密に結ばれ、彼と一体となります。

  永遠の命に生きるために,即ちキリストの復活が与える命に生きるために、聖霊は私たちを死から命へ移し、愛の完成まで導き、私たちを聖なる者へと変化させます。

  昔、洗礼を授けるとき、司祭は洗礼志願者を3度完全に水に浸しながら「父と子と聖霊のみ名を唱えました。現代では、司祭は洗礼志願者の3回水を注ぎながら、三位一体の神の名を唱えます。昔のやり方も、現代のやり方も、また自分に十字架のしるしを切るときも、私たちが3回生まれることを思い起こさせます。

−3− 聖体拝領の規則

  聖体拝領をすることは信仰の行いです。なぜなら、キリスト者はキリストと一致することを望むからです。従って、ご聖体をいただくために幾つかの大切な決まりがあります。キリスト者は、聖体に対する罪を犯さないために、それをきちんと守らなければなりません。

   第一の条件とは、カトリックの信仰の内に洗礼を受けること。次に、大罪を犯していない状態にいること。聖体拝領を受け続けるために、信者は少なくとも一年に一度、復活祭の頃に、罪の赦しを受け、司祭が与えた償いを果たしたのち、聖体を拝領するようにしなければなりません。もし、大罪を犯した状態でミサの前に重大な理由があって、赦しの秘跡を受けることが出来ないままミサに与かった場合、ミサ後すぐ、必ず赦しの秘跡を受けるという強い決意があれば、その日のミサ中に聖体拝領ができます。

  ミサに与る一時間前に(薬と水、意外に)口に食べ物も、飲み物も入れることは禁止しています。しかし、教会へ行けないような老齢者や病気で入院している人は、食後10分位てば、聖体拝領ができます。病人のお世話をする人もこれに該当します。離婚した信者は、同棲生活をしない限り聖体拝領ができます。しかし、離婚して再婚した信者、あるいは同棲生活をしている信者は聖体拝領はできません。

  信者は一日に一回しか聖体拝領はできません。しかし 特別な出来事の際に(結婚、葬儀、叙階式、教会記念)司祭の許可を受けるか、あるいはミサ中にもう一度受ける事ができるというお知らせがあれば、聖体拝領ができます。信者が手術を受ける前、あるいは臨終の枕辺にある時、罪の赦しとキリストの御体を受けるために司祭を呼ぶことは望ましいことです。


4−教会の中と典礼の中の沈黙について

  聖堂に入る時、最初にとる態度は何よりもまず、神の前に少しでも静かに祈ることです。教会は神の家です。ですから、もし自分が神の子だと認めるなら、神に「ただいま」を言うことは 当たり前のことです。それをしないキリスト者は、神を無視し、全く尊敬していません。ミサが始まる前に、沈黙を守ることも 神への愛と尊敬のしるしであると同時に、祈っている兄弟姉妹への尊敬の敬意を表す態度です。皆がここに来るのは、主と出会うためですので、沈黙がなければそれができません。なぜなら、沈黙を通して神は私たちの心に語るからです。もし私たちが、聖堂で他の人々と話しているなら、神はご自分の声を聞かせることができません。

  ミサ祭儀の中でも、典礼は沈黙の時を私たちに与えます。例えば、回心への招きの後に、あるいは各祈願の前に、そして詩篇を歌う前に、ミサ中で最も長い沈黙である聖体拝領が終わる時など。沈黙は祈りと等しいものであり、特に私たちの霊的な姿勢を示すものです。沈黙を通して私たちは神の声と聖霊の働きかけに敏感になり、キリストに倣って自分の計画や自分のしたいことを忘れて、ただ神のみ旨を行ないたい という決意をつかみとることができます。沈黙は神の神秘に対して奥深く考える、深い知識を豊かに与えるからです。

  神の教えと恵みを受けるためには、静かな心・注意深く傾ける耳・閉じた唇が必要です。それについて詩篇62編の言葉が助けになります。「私は静かに神を待つ、私の救いは神からくる」と。


5−責任を与えられたキリスト者のとるべき態度

  共同体のために責任を受けたキリスト者は、自分に委ねられた役割について度々考えることが不可欠です。なぜなら与えられた使命と選ばれた人の人格の間に、必ず緊張が現れるからです。つまりは共同体のために委ねられた責任のせいで、あるキリスト者は自分が無くてはならない者だと思い込み高慢になってしまいます。他のキリスト者は、自分は弱い物だと思い込み恐れを感じ責任から逃げるために色々と言い訳して逃げるのです。このようなキリスト者は神を無視しています。「神の力は弱さのなかでこそ十分に発揮されること」(2コリント12,9)を忘れています。

  高慢な態度や臆病に陥ることのないように、神により頼むことはとても大切です。神の助けがなければ私たちは何もできません。共同体のために責任を受けた人は、自分の心に忍耐と慈しみの道を整え、また霊的に成長するはずです。何でもできる自信のあるキリスト者は、神に絶えず感謝しなければなりません。同時に自分が弱く力が足りないと思っているキリスト者も神により頼み、神から力を取り見出すべきです。

  教会も、共同体も神だけに属するものですので、責任を受けたキリスト者はそれを適切に果たすために、神が必ず聖霊の力と智恵と豊かな恵みを与えることを忘れてはいけません。共同体のために責任のあるキリスト者は、謙遜な心で、信仰の兄弟姉妹に仕えるために召されていることをまず神に感謝しましょう。そして、委ねられた使命を終わりまで果たすことができるように、共同体の兄弟姉妹の祈りと理解が自分を強く支えるように切に願うはずです。

 「聖霊は弱いわたしたちを助けてくださいます…聖霊自らが、言葉に表せないうめきをもって私たちのために執り成してくださるからです。人の心を見抜く神は、聖霊の思いが何であるかを知っておられます。聖霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」(参照:ローマ8,26-27)と聖パウロは私たちに思い起こさせます。


6−上にあるものを探し求める

 「あなたがたは、キリスト共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」(コロサイ3,1)と聖パウロは勧めています。
土の中に根を深く下ろせば下ろすほど、木は上へ上へと伸びて高くなります。根のない木は、いつか必ず枯れてしまいます。普通の人間として生き、自分の信仰を養い、生かそうとしないキリスト者は枯れた木となっています。

  私たちはこの世に属すると同時に、天にも属する者です。地球人として日常生活の活動によって私たちは自分の人生の根を強くします。他の人に向って生きることで、その根は深く人類の良い土に入るので、知らないうちに私たちは思いやりと親切さを持ち、育てている人になります。

  キリスト者は、天と地の交わりの内に生きると、同時に人々と神に向かって生きていかなければなりません。「流れのほとりに植えられた木」(詩編1,3)のイメージを借りて聖書の詩編はこの状況を描きます。「流れのほとり」である私たちの隣人の世話をすることで私たちは神の栄光の内に引き寄せられています。詩編が教えている通り「その人は時がめぐりくれば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と。

  私たちは天にあるものを受け止めるために、地上の人々を大切にします。神が望まれる実を結ぶことによって、私たちも、他の人々も豊かになります。また、謙遜で、へりくだった生き方を保つことで、私たちは神のレベルまで高められています。ですから、謙遜に、隣人愛に根を深く下ろしながら、神の方へますますと成長しましょう。


−7−聖霊が与える一致

  聖霊はキリストの教会を様々な賜物で潤します。特に聖霊は教会に一致の恵みを与えます。それはキリストの体の部分である私たち一人ひとりの内に教会全体が親密に留まるためであり、そして教会が自分の普遍的な広さを保つためです。

 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているのです」(ローマ5,5)と聖パウロは教えました。キリスト者が、一人で祈れば秘跡的に、彼の心の中には、世界に広がっているキリストの教会が入り込みます。そいう訳で、一人で祈る人は、聖霊によって「わたし」ではなく「わたしたち」と言います。詩篇が教えている通り、たった一人で、誰も自分のそばにいなくてもダビデは「わたしと共に主をたたえよ。一つになって御名をあがめよう」と祈ります。司祭も、共同祈願を唱える人も、いつも、一人で皆の声になって祈ります。「主よ、私たちの祈りを聞き入れて下さい」と願います。孤独の中にいて、一人で「主の祈り」あるいは「アヴェ・マリアの祈り」を唱えるキリスト者は「天におられるわたしたちの父よ」あるいは「罪びとの私たちのためにお祈りください」と祈願します。この祈り方は秘跡的に、一人の人をすべてのキリスト者と一致させます。

  また大勢集まっている時、聖霊の交わりの内に、私たちはキリストの神秘的な一つの体となったので、一緒に祈る時に「わたしたち」ではなく「わたし」と言って祈ります。例えばミサの初め、罪の赦しを願う時、皆と一緒に「わたしは思い、ことば、行ない、怠りによってたびたび罪を犯しました」と告白します。信仰宣言を唱える時も「わたしは信じます」と宣言します。この祈り方は、私たちがキリストと一致していることを思い起こさせる目的を持っています。

  私たちはキリストと一致しているので、一人でも大勢でも聖霊が与える一致の恵みの内に生きています。一人であっても皆の代わりに一つの声になって祈り、執り成すことを勧めています。そして大勢のキリスト者は一つの体になり、ただ一人だけのためにも神に向かって祈ることもできます。一人ひとりに留まる聖霊の力が、すべてのキリスト者を包み一致させ、また大勢の人々を一つの体、一つの心、一つの魂とします。神に感謝して祈りながら、聖霊と共にこの神秘を少しずつ理解して深く探りましょう。


8− 神の言葉

  神の言葉は命であり、人を成長させ、導き、完成まで引きよせます。赤ちゃんが母の胎内に居る時から両親が待たずにその子に声をかけます。勿論、子どもは言葉の意味は分かりません。しかし、たくさんの言葉を聞くだけで自分の両親の愛と優しさを強く感じています。その雰囲気のうちで赤ちゃんは、既に、十分に育てられています。また子どもが生まれた時にも、両親がずっとその子と話をします。子供が言葉の意味を理解するまでには、2年位かかります。それから両親は子供の幸せと教育のために、もっと多くの言葉を子供に教えます。そうすることで両親は子どもが社会に入るための準備をしているのです。

  私たちが創造される前に、神も私たちをずっと愛し、命と愛の言葉を私たちに語りました。昔アブラハム、モーセ、そして大勢の預言者を通して語られた貴重な言葉を神は伝えました。ご自分の言葉であるイエスを通して預言者が語ったことを実現したので、その意味を悟らせました。現在では、神は教会を通して私たちに語り続けています。神の言葉は命であり、人を成長させ、教え、完成まで導きます。

 私たちはそれを理解してもなくても、神の言葉は、私たちを養い、かたち作り、自分に関して神秘を理解させ、神に対して、また世界と宇宙万物に対しても色々な悟りを与えます。私たちは神と一致するために、神の心を味わうために、聖書を開き、そこに語られている命と知恵の言葉に耳を傾けるのは肝心な務めです。父としての神を認めるには、子としての態度を見せるのは当然ではないでしょうか。


9−神を賛美することはとうとい大切な務めです

  詩編91番と92番は「いかに楽しい、主に感謝をささげることは」と歌っています。またミサの奉献文に先立つ叙唱も同じ教えをしています。「聖なる父よ、いつどこでも主・キリストによって賛美と感謝をささげることは、まことにとうとい大切な務めです」と。しかしラテン語の言葉を参照するなら「とても良い、利益のある正しい務めです」と翻訳されています。

  詩編が教えている通り、賛美と感謝をする人は神の親密な保護を引き寄せると同時に天使たちの仲間になります。私たちはいつも天のすべての天使と聖人と共に声を合わせて賛美の歌を歌い、終わりなく神の栄光をほめ歌います。賛美と感謝は人をあらゆる問題に敏感にし、賢くし、また神の名を効果的に呼ぶ恵みを与えます。言い換えれば、賛美と感謝は人を神の親しい友とします。そして賛美する人は「なつめやしのように茂り、レバノンの杉のように神の家にそびえます」。

  神は私たちの賛美と感謝をご自分の玉座とするので(詩編22,4)、詩編は一日7回(詩編119,164)、そして真夜中も起きて(詩編119,62)賛美を捧げるように私たちを誘っています。賛美と感謝は人の心を和らげ、神への揺ぎ無い信頼を与え、自分の上にも、他の人の上にも幸福を引き寄せます。いつどこでも主・キリストによって神に賛美と感謝をささげることは、利益のある正しい務めです。ですから、詩編3013節の願いを自分の望みにしましょう。「わたしの魂が神をほめうたい、沈黙することのないようにしてくださるように」と。


10−神のみ旨を行なうこと

  現代人の問題は、何かを決める事を恐れて、なかなか決める事ができないで、やっと決めても、結局決めたことを言い訳して実現しない怠惰を持っています。矛盾した望みや欲望が絶えず私たちを攻撃するので、私たちには何が必要か、何を選ぶかが、難しく簡単に選べないのが事実です。家庭の問題、あるいは社会の規定、更に自分の良心や信仰が要求することに縛られている限り、私たちが自由に考え・選び・決めるのは至難の技です。

 「あなたは自らの意志を避けなければならない」(シラ書18,30)とシラ書は忠告しています。同様に私たちも祈る時には、神のみ旨が行なわれるように願い求めています。ですから自分の意志を行ってはならないという教えを実践するのは当然なことです。まず、ダビデに習って私たちも「主よ、私の欲望はすべてみ前にあります」(詩篇38,10)と言いましょう。

  普通人間は自分を中心に置くので、起こる出来事は差し迫る危険になるか、あるいは楽しみの泉になります。その時に人は自分の智恵のはかりで、出来事のよさと悪さを決めがちです。このジレンマから人を救うために神は正しい方法を、ダビデを通して教えました。というのは望む希望や欲望を自分の前にではなく、神の前に置く賢明な方法です。ここから謙遜と信頼の恵みが豊かに与えられています。神のうちに自分のすべてを委ねるなら、神は必ず選んだものや決めたことを完成まで導くように救いと摂理の手を差し伸べられます


11- 神の摂理

  神の摂理は、宇宙のすべてを完全に支配されています。この中に、全体としての宇宙(詩篇103,19)、物質的世界(マタイ5,45)、各国の政治(詩篇66.7)、人間の生と運命(ガラテヤ1,15)、人間の成功と失敗(ルカ1,52)、そして神の民の守り(詩篇4,8)が含まれています。 神の摂理の目的は、神のみ旨を成し遂げることです。

 この事実を固く信じて、キリスト者は歴史の流れの中の神の働きかけを見つけるのです。神はまた自分の救いの計画を実現するために、人間の悪と罪を利用します。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために今日のようにしてくださったのです」(創世記50,20)とエジプトの管理人とされたヨセフは、自分を奴隷として外国人に売った兄弟たちに説明しました。

 神はすべてを支配します。しかし、人間はいつも自由に自分がしたいことを選ぶことができます。人間が間違った選択をしても、神は彼を見捨てられません。摂理を通してその過ちを変化させ、それを正しいものとし。そして、犯した失敗から良いものを取り出します。というのは、神はいつも悪に打ち勝つ方ですから。神の摂理は、人間の日常生活のあらゆる面で必ず成功と幸せを保証します。そのために試練のときに、私たちは盲目的に神の摂理により頼まなければなりません。神が人生の出来事の中に直接に関係しなくても、必ず傍にいて一緒に歩むのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28,20)とイエスは約束しました。

 愛する息子イサクを生贄(いけにえ)にしようとした時、捧げるべき羊がないと心配していたイサクに、アブラハムは「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(創世記22,8)と言いました。この信仰は、聖パウロの信仰であり、また私たちの信仰です。神は愛をもってすべてを完成します。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ8,31)、「神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8,39)と、私たちはよく知っています。私たちの助けであり、力と救いである神はお定めになったことを、摂理を通して成し遂げられます。神の摂理は、神のみ旨を成し遂げること、そしてすべてが私たちの救いと良い利益にすることをします。


-12- 罪を(つぐなう)こと

  赦しの秘跡を受けたのち、司祭は償いのを指定します。償いの業は、主の祈りやアヴェ・マリアの祈りなどの様な易しいものが多いです。勿論、本来的な意味での償いの業は、短い祈りだけで終わるものではありません。罪を償う決心とは「罪を招く危険な機会を避ける決意」を実際の行動として行う必要があります。また、罪を招く機会を自分の心の底からなくすよう、痛悔を続ける必要もあります。もちろん、良心の糾明、痛悔、告解、償いの決意をしてもなお、また同じ罪を犯してしまう人は、私も含めて、大勢いることでしょう。

  事実を言えば、自分の犯した罪について持っている恥しい気持ちは、償いではありません。行なった悪いことを認めても、神に自分の心を向き直さない限り、償いだとは言えません。罪を償う人は、無償で受けた神の赦しの力で回心できると信じています。また罪を償う人は、神に向かって生きたい、ただ神によってだけ生きたいという決意を表しています。同じ罪の赦しを受けても、また何度もその罪を犯していても、その人は少しずつですが神の愛に近づけるようになると信じて諦めずに何回も、何回も罪の赦しを受けます。なぜなら、神の慈しみは限りのない永遠の恵みだとその人は信じているからです。神の愛のためにだけ罪の償いを実践した時だけが完全な償いです。


-13- 神との出会い

  「感謝に満ちて教会の門をくぐり、賛美を歌って聖堂に入る、神に感謝をささげて、その名をたたえよう」と詩篇100編が誘います。しかし、残念なことにこの正しい方法で神と出会うキリスト者は非常に少ないです。大抵の人は教会の門をくぐってから、すぐに他の人とおしゃべりをします。また、聖水で自分の体に十字架のしるしをしても、自分が三位一体の神の名によって洗礼を受けたこと、愛される子として父なる神と出会うために教会にきていることを考えていません。まして、その十字架の切り方は丁寧に行なわずに、まるでハエを追い出すような動作で、大急ぎで崩れた形の十字架を切っているのではないでしょうか。更に、自分の席に座って静かに祈らずに、あるキリスト者はカトリック新聞や他のパンフレットを開いて読んだり、スマートフォンでメッセージを送ったり、隣の人と大きな声で話しをたりしているのが目立っています。

  私たちは神に賛美する心を失っていないでしょうか。神の名をたたえることは 自分の上にも、親戚や友だちの上にもたくさんの恵みを引き寄せることです。神に向かって賛美しながら、天の喜びで自分の心を満たすように私たちはこの教会に来ました。私たちは、ミサが始まる前に一人で数分間、神と顔と顔を合わせて、普段の生活から離れて、神の親密さを味わう準備が必要だと知っているはずです。もしそれを知らなかったのなら、または忘れていたなら、今度こそ覚えてください。

  「主は、神であると悟れ」と詩篇100編もはっきり勧めています。ですから、神の神秘性を汚さないように、静かな心で、お喋りを避け、自分の口から神への賛美と感謝をささげる態度を守るようにしましょう。これが出来るためにはお互いの助け合いが必要だと思います。神の名をたたえるために、この教会で、祈りの雰囲気をつくり、十字架のしるしを綺麗に自分の体に切りましょう。そして神の神聖について、また自分が受けた神の子の資格についても、良く考え、感謝して、神への賛美と感謝に対して最も明白なキリスト者になりましょう。そうすれば詩篇が勧めているように正しく「喜びのうちに神に仕えること」ができるのです。


-14- 神の慈しみ

 キリストが栄光の内に来られる時、世の終わりであると共に神の憐れみも終わります。なぜなら、キリストの「再臨」によって「救いの時」が完成されたからです。しかし神の愛と慈しみは永遠に続きます。と言うのは、神は愛と慈しみそのものですから。神の国で天使と聖人たちと一緒に、罪の赦しを受けた人々は一つの声になって、実現された救いを見て永遠に神の愛と慈しみを歌います。私たちはこの世に生きている限り、神の愛と慈しみに包まれて、犯した罪の赦しと弱い時の神の助けや憐れみを、いつでも受けることができます。死んでからでは、もうそれが出来ません。天国の報いや永遠の救いに私たちが相応しくなるように、母マリアは死を迎えている私たちの死の瞬間まで祈り、執り成すのです。

 神は私たちの惨めさの内にご自分の慈しみ深い心を置かれるので、私たちが救われるのです。また父なる神は、キリストの死と復活を通して、罪びとである私たちに対するご自分の憐れみと赦しを豊かに与えます(マタイ 26,28)。更に、「与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれました」(ローマ5,5)。神はご自分の愛で私たちを包み、イエスと一致させ、ご自分の愛する子となさいます。与えられている神の愛、慈しみと憐れみによって「私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロサイ3,3)。

  簡単に説明すれば、慈しみは神の栄光を私たちに与え、愛は私たちを神の神聖に与らせます。私たちが神と一致するために、神の慈しみは内面的に、神の愛は外面的に私たちの内に働きます。言い換えれば、神は愛と慈しみによって私たちの体と心と魂の内に効果的に働いています。それは私たちが聖霊によってキリストと共に一つの体、一つの心、一つの霊となるためです。そいう訳で「神が慈しみ深いように、私たちも慈しみ深い者とならなければなりません」(ルカ6:36)。そうすれば、詩編89編が教えている通り、私たちにとって「神の慈しみをとこしえに歌う」ことが可能となります。


-15- 神の赦し

 この世では、人間の法律は犯罪人を裁き、その犯罪人を軽んじ、軽蔑し、厳しく咎めます。犯罪人が許しを受けても、絶対に正しいと認められた者になりません。しかし、神の赦しは自分の過ちを真心から認める罪人を正しい者とします。なぜなら、神は決して罪人を裁かずに、彼の回心を望み、また赦すことによって神は罪人を救うからです。 ある意味で、具体的に示されている罪びとの償いは、受けた罰ではなく、神に対する感謝の心の現われです。

 神の似姿で創造された私たちは、神を真似るように召されています。「神が憐れみ深いように、私たちも憐れみ深い者とならなければなりません」(ルカ6,36)。また自分の敵を赦し、愛し、親切な祈りで包むべきです。なぜなら、他人に対して自分が行った赦しと慈しみので、神は私たちに赦しと慈しみをり与えられるからです(マルコ4,24)。

 神の赦しは絶えず与えられているので、私たちも絶えず人を赦さなければなりません(マタイ18,21)。キリスト者はイエスと同じように、愛と希望をもって赦し、神の名によって過ちを犯した人、自分を傷つけた人に救いの道を大きく開く人です。聖パウロはコロサイの信徒への手紙を通してこの赦し方を教えました。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」コロサイ3,13-14)と。

 ですから、人々を咎め、裁き、軽蔑するよりも、神のように、惜しみなく、愛で満たされた赦しによって彼らを正しい者としましょう。赦すことによって、神の救いの協力者になりましょう。


16- 神の栄光

 「神の栄光」という表現は、神そのものを意味します。神は、その尊厳・力・聖の輝きを人間の生活全般の中の実在を通して自らを啓示するからです。したがって神の栄光は目に見えるものであり、いつもその現れと密接に結ばれています。旧約聖書では煙、火の柱,地震、雷、雲、らっぱの響き(参照:出エジプト19,16)などの様々な形で神の栄光を描写しています。創造のもまた、神の栄光を現しているので「神の栄光が全地に満ちている」と聖書は度々教えています。

  モーセは神の栄光を度々見たので、「彼の顔の肌は光を放っていました」(参照:出エジプト34,29)。神の栄光は契約の(ひつ)の上に留まり、エルサレムの神殿を満たしました。しかし神に反したイスラエルの民が追放された時に神の栄光もエルサレムの神殿から離れました(参照:エゼキエル11,23)。目に見える栄光を通して、神は自分の民を救い、聖化し、治め、民の間に現存することをはっきりと啓示します。

  預言者たちは、追放された神の民がイスラエルに戻ってのち、神がこれからはすべての人々にご自分の栄光を現すことを教えています。「わたしはすべての国々と種族とを集めに来る。彼らが来て、わたしの栄光を見る」(参照:イザイ66,18)と。特に神が遣わす「人の子」を通してご自分の栄光を現すと預言されています。「あなたは私の僕であり、わたしはあなたのうちに私の栄光を現す」(参照:イザヤ49,3)と神は預言者たちを通して約束しました。(「人の子」であるキリストのうちにどのようにその栄光が現れますか、次回の教えです。)


-17- キリストの栄光

  神の栄光はイエス・キリストの内に余すところなく現存していることを新約聖書ははっきり教えています。神の子であるイエスは「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れです」(参照:ヘブライ1,3)。神の栄光は、キリストの顔に輝き、そこから人間の上に反映しています。イエスはに「栄光の主」(参照:1コリント2,8)です。

  しかし、キリストが神としての栄光を完全に現すのは、再臨の時です。人の子は、父の栄光に包まれて、天使たち共に来ます。そして、ある人には罰を、他の人には救いを意味する自らの業を完成して、栄光を啓示するでしょう。新約聖書全体は、キリストにおける永遠の栄光の現れを待ち望むように勧めています。

  キリストは、生涯にわたって言葉と行いによって、神の栄光を現しました。そして、復活と昇天によって「世界が造られる前に、イエスがみもとで持っていた」(参照:ヨハネ17,5)神の栄光に入りました。この栄光は天国の清さ・聖性・光・力・命に包まれたものでから、復活したイエスは、この栄光が全身に輝いています。死にひんした聖ステファノは「神の栄光と神の右に立っておられるイエス」(参照:使徒7,55)を見ています。パウロもダマスコへの道でその輝きのために目が見えなくなりました(参照:使徒9,8)。キリストの栄光は私たちに対する神の永遠の愛と限りのない慈しみを現しています。

(結局キリストの栄光は信じる人々の内に完成されます。それについては次回の教えです。)


−18−教会の栄光

  キリストの栄光は信じる人々の内に完成されます。なぜなら神の栄光を認めて賛美することは、人間にとって義務ですから。信仰者は「キリストによって『アーメン』と言って神に栄光を与えます」(参照:1コリント1,20)。イエスと共に復活された私たちは、「国籍を天に持っている者として『世にあって星のように輝いています』」(参照:フィリピ2,15)。またキリスト者の良い行いを見る人が、天の父に栄光を帰することこそがキリスト者の名誉と光栄です。(参照:マタイ5,16)。

  教会がキリストによって(あがな)われたのは、神の栄光を賛美するためです。確かに「教会によって、そしてキリストによって、栄光が世々限りなく神に与えられています」(参照:エフェソ3,21)。キリストの花嫁である教会の栄光は、花婿であるキリスト自身の栄光です。キリストの愛こそ、この栄光の源泉です。なぜなら、キリストは「教会を愛し、教会のために自分をお与えになって、…教会を清めて聖なるものとし、シミややそのたぐいものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を自分の前に立たせました」(参照:エフェソ5,25-27)。

  神の栄光は、このように聖書の言葉を通して示されています。この神秘こそは、神の愛と慈しみの神秘の啓示であり、私たちに対する神の救いの素晴らしい、栄光に満ちている結果です。


―19― キリスト教的な希望

 希望は信仰と愛の支えであり、神の内にしか揺るぎない土台を見つけます。キリスト者は神に希望を置くものです。神の忠実さ、神の約束や契約は人の内に希望の芽生えを脱し、成長させ、育てます。希望なしに人は幸せに生きることが出来ません。「この希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のような者です」(参照:ヘウライ6,19

  人生の災いや試練や思いがけない出来事の聖で簡単に絶望する人々に、人となったイエスは全人類に大きな希望を与えました。しかし信仰によってのみこの希望に近づきうることができます。キリストはもたらす希望は霊的なものであり、特に、永遠の命と神の栄枯に満たされた救いに向けられているからです。

  世界を絶えず攻撃し、傷つける不幸と苦しみにも拘らず、教会の希望は喜びで満たされています。キリスト者はアブラハムの同様に「希望のないときにも、なお希望することが出来、信じる」(参照:ローマ4,18)人です。なぜなら、キリスト者は神の愛の契約とキリストの約束に依り頼み、神の忠実さは自分の信仰と愛と忠実さを支え、強めるからです。キリスト者はまた神と供に次のことを望みます。つまり「神の栄光のために、すべてがキリストの内にまとめられること」(参照:エフェソ1,10)や「すべての人の救いを望むこと」(参照:1テモテ 2.4).です。希望はどうしても神の愛とその救いの計画とぴったりしなければならないからです。

要するに、簡単に言えば、キリスト者の希望とは神の現存を求めてやまない愛の切願にほかならない貴重な恵みです。


20− 秘跡

  教会の教えによると秘跡とは、秘められた神のみの「目に見えるしるし」であり、それによって人は神の恵みを受け、また既に受けた恵みを強められます。 キリスト者は一生涯のあらゆる節目に、このような秘跡を通じて教会と共に歩んでいきます。

  カトリック教会は「救いの秘跡」とも呼ばれています。教会は7つの秘跡を授けています。それはご存知のように、洗礼、聖体、堅信、赦し、結婚、叙階、と病者の塗油です。これらの秘跡を授ける人を、秘跡ごとに詳しく述べます。

  洗礼を授ける人は、通常の場合は司教か司祭、助祭です。しかし、緊急の場合には誰でも(洗礼をまだ受けていない人であっても)洗礼を授けることができます。その場合、必要な意向を持って教会の定める洗礼の言葉を唱える必要があります。

  堅信の秘跡、赦しの秘跡、病者の秘跡を授ける人は、司教か司祭だけです。

  聖体の秘跡は、ミサの中で聖変化を行うのは司教・司祭です。しかし、聖体拝領の時に聖体を与えるのは助祭や聖体奉仕者でも出来ます。

  叙階の秘跡は、司教だけが授けることが出来る秘跡です。

  結婚の秘跡は、司教、司祭、助祭です。教会の2人の証人の前で司式され、結婚する信者同士が秘跡を授け合うとされます。

@ 洗礼: 聖霊の働きによって、受洗者の罪がすべて赦され、神の子として新たに生まれる秘跡。(しるしは水。)
Aご聖体 イエスの死と復活の記念を行うミサ聖祭の中で、パンとぶどう酒がイエスの御からだと御血になるという信仰にもとづいて、それを霊的な糧として分かち合う。ご聖体の秘跡によって、すべての人々がキリストのうちに1つに結ばれる。しるしは聖体)。
B堅信: 洗礼の恵みをより豊かに生きるために、洗礼を受けた人々に聖霊の賜物を与え、信仰を堅固たるものにする秘跡。右手4本の指を頭に乗せて、親指で額に十字を切って聖香油を塗油。堅信によって与えられる7つの賜物:敬畏・剛毅・孝愛・賢慮・知識・聡明・上智 しるしは按手と聖なる油)。
Cゆるし: 神の愛に立ち返り回心する(告解)ことによって与えられる「神との和解」(罪のゆるし)の恵みの秘跡。(しるしは罪の償いと司祭の祝福)。
D結婚: 互いに愛と忠実を尽くし、互いに自分を相手に与え合いながら、神の創造のわざにあずかり、生まれてくる子どもを信仰のうちに育てる夫婦共同体としての使命をよりよく果たす。同意を交わし神への誓約。(しるしは指輪の交換や署名など)。
E叙階: 貞潔・清貧・従順の3つの誓願を立てて生涯を奉献する男子修道者にあたえられる秘跡。祈りと按手によって立てられた使徒たちの後継者となる。(しるしは按手、聖なる油、典礼の福など)。
F病者の塗油: 病気で苦しんでいる人の癒し、また臨終の床にある病人の罪のゆるし。(しるしは聖体、赦し、聖なる油)。

  これらの秘跡は、それぞれに関係なく存在しているものではなく、有機的なつながりをもっているものです。その中でも、聖体の秘跡は「秘跡中の秘跡」と言われており、他の秘跡は、この聖体の秘跡を目的とし、これに秩序づけられているものです。


−21− 天使たち (その1)

  キリスト者は 全能の神が 天と地、見えるものと見えないものの造り主であることを固く信じます。 そして「天にあるものを捜し求めよう」と言うキリストの勧めに従おうと努力します。天にあるものとは、神の恵みだけではなく、天使と聖人の親しさと助けでもあります。特に、天にいて見えない世界の属し、霊である天使は 人々に与えられた神の特別な賜物です。

  神の世話とする天使には 私たちに対しても様々な役割があります。その中で最も大切なことは 人々が 真理と霊のうちに 神を礼拝するように教える事です。そして、神の望みにかなった生活をさせ、あらゆる面でわたしたちが神を喜ばせる聖霊の実を結び、救いの神秘を味わい、愛の完成にまで至るように天使たちは謙遜に、忠実に、私たちを導こうとします。詩編作家ダビデ王は「主よ、天使と共に私は歌います。あなたの神殿で礼拝し、あなたのみ名を讃えましょう」と言っています。ミサ祭儀の時、キリスト者も、ダビデと同じように「神を仰ぎ、神の権能を敬うすべての天使たちと共に喜び祝い、声を合わせて、神の栄光を終わりなく歌い、つつしんでたたえます」。

  人が生まれる時に、神は一人ひとりに伴い、守り、助ける永遠の保護者と仲間として一人の天使を遣わします。この天使は守護の天使と呼ばれています。神が人間につけた天使で、その守護する対象に対して善を勧め、悪を退けるようその心を導くとされます。また神の救いの計画の完成のために、各司祭、各教区と小教区、各国にはもう一人の天使が与えられています。ご存じのように日本の保護の天使は大天使ミカエルです。神からいただいた自分の守護の天使とよく話し、親しい関係を結び、また感謝することは当然なことで葉ないでしょうか。そうするように大勢の聖人の体験が私たちを誘っています。


−22−  天使たち (その2)

  神によって造られた天使たちは被造物であり、霊でもあります。神を仰ぎ見るものとして天使たちは聖なるものでり、知恵と力で優れています。教皇聖グレゴリウス1世教会博士はのおしえによると、天使には厳密な階級制度があり、9つの階級に分かれています。それぞれ3組ずつ3隊に分かれて神の使命を全うしているのです。

  上級3階隊 : セラフィム、ケルビム、玉座、この天使たちは天と神の世話係です。

  中級3階隊 : 天使・天使・天使 この天使は天と地の交わり係で、対立するものの調和の役目を担い、相対するものの均衡を保ちます。

  下級3階隊 : 天使・大天使・天使 この天使は人間の世界係で、人間ともっとも近い存在にある天使たちです。

  聖パウロと聖ペトロは手紙の中で天使の階級を語っています(参照:エフェソ1,21と1ペトロ3,22)ヴぁチカンの教会会議がなる前に 天使たちの階級のリストがミサ祭儀の奉献分を先立っていました。天使たちについて細かく知らなくてもいいです。しかし天使たちの助け、守り、教え導きを願いことは肝心なことです。待たずに、この世では既に与えられて、永遠の友である天使たちと親しい関係を結びましょう。

―23― 陰府(よみ)の国」って何でしょうか

  「主は…十字架につけられて、死に葬られ、陰府に下り、三日目に死者のうちから復活し、…」と私たちは宣言します(参照:ペテロ3,18-20)。旧約聖書によれば、亡くなった人々が住んでいるところを「陰府」とか「シェオル」とか「ハデス」と言って,この場所は「すべての生き物の集まる家です」(参照:ヨブ30,23)。この住む場所とは大きな墓、あるいは深い淵のようなものです。他の多くの民族と同様にイスラエルの民も、死後の生き方は暗闇の中にあり、そこで何の価値も、喜びもないと思われていました。 神を見ることができない状態に置かれて、正しい人であるか、悪い人であるかを問わず、ここですべての死者が救い主、あがない主を待っていました。

  十字架上で亡くなったイエスは、すべての人に救いを与えるために、神としてのご自分のペルソナと結ばれた霊魂の状態で、ご自分より先にあらゆる時代の亡くなった人々のもとにりました。そして、実現された救いの業を説明し、それを受けたい人々と正しい人々の死の鎖をき、彼らを天国に連れて行きます。それによってイエスは罪と死に対するご自分の勝利を現します。その後、復活するイエスは「命の導き手」(参照:使徒3,15)として「天上のもの、地上のもの、地下のもの」すべてを支配し、救いに導きます。

 死に捕らわれていた者を開放するために、イエスは陰府の門を開きました。しかし、悪人のために陰府の門は永久に閉ざされ、地獄の門と変化し、そこから出ることはできません。永遠の滅びは「第二の死」(参照:黙示録20,6,21,8)と呼ばれています。命の導き手であるキリストから離れると命がないからです。


―24
 煉獄とは何でしょうか

  私たちが生きている間は、神の恵みを受け入れることも、拒否することも、私たちの自由意志に任されています。しかし、死がそれに終止符を打つのです。人は死ぬとすぐに、自分の人生でのキリストとのかかわりについて、審判を受けます。その結果、ある人はすぐに天の永遠の報いを受け、ある人は清めを経た後で天に入り、あるいは、永遠の苦しみを受けます。

  神との親しい交わりを保っていたとしても、完全に清められないままで死を迎えた人は、天国での喜びに入るために、ある浄化の苦しみを受けると教えています。教会は、この最終的浄化を「煉獄(れんごく)と呼んでいます。ジェノヴァーヌの聖カタリナの証しに寄れば、煉獄にいる人のすぐ傍にはその人を力付け、励まし、慰める個人の守護の天使がいます。煉獄にいる人は 神の愛と正しい正義をはっきり悟りながら,自分がその愛を受けるためにまだ相応しくない状態にいると理解しているので苦しんでいます。同時に神の愛がすべての罪の汚れからその人を清めます。

  初代教会は、死者の記念を重んじて、死者のために祈り、断食、犠牲を行い、特にミサを捧げていました。それは、死者が清められるため、彼らの魂の苦しみを和らげるため、また天の国に一日も早く入ることが許されるためです。教会は今も私たちに、死者のために、施し、免償、償いのをするように勧めています。煉獄から開放された人々は、自分のために祈った人に必ず天国から恩と必要な助けを返します。


−25− キリスト教的な祈り

  祈りは神への信頼と信仰の行いです。イエスは神に向かって祈るとき「アッバ・父よ」と言っていました。また私たちにも同じように神に向かって祈ることを教えました。イエスの祈り方の特徴は、神に対する信頼と親しさです。

  祈りとは、神の前に自分のありのままを差し出すこと、そして委ねることです。自分を忘れて、神の愛と慈しみ深い心を思い、生涯にわたって受けた恵みを思い巡らしながら、神に賛美と感謝をささげるのは祈りの第一歩です。神とずっと結ばれ続けるために一日の生活の中で、短くても必ず祈ることはとても大切です。キリスト者はすべての状況を祈りの場とします。(例えば、バス、電車、車、待合室、歩きながら、買い物をしながら、公園、自分の家、図書館など)

  伝統的に「祈りは神との対話である」と言われています。一方的に神に話すだけでは対話になりませんので、神が語りかけていることを心に思い巡らすことが大切です。そのために絶対に必要なことは「沈黙」です。

  内面的には個人的に一人で祈ることが大切です。しかし声を合わせて家族的に、共同体的に祈ることも大切です。 また、自分のためだけではなく、他の大勢の人のために祈ることも大切な務めです。祈りは時間と空間を超えて、神のもとで私たちをいでくれるものです。祈りは、親密に、神秘的に神の愛の内に、あらゆる時代の人と天使と聖人と自分を一致させます。ですから祈る心を育て続けましょう。


−26− 聖体訪問

  聖体は、ミサの中で配られ拝領するだけではありません。カトリック教会の聖堂の中心には、(せいひつ)という聖なる箱が置かれ、その中には聖体が安置されています。聖櫃のそばに置かれている赤いランプはキリストが、いつも私たちと共におられるという明確な生きたしるしです。ですから、ミサ以外に聖堂を訪れる人は、いつでもキリストと出会うことができるのです。

 聖体の前で祈り、礼拝することは、現存される主イエスとの霊と心の対話であり、交流、すなわちコミュニケーションです。イエスは祈る人に慈しみ深い眼差しを注ぎ、魂を養い、心の傷を癒し、そしてご自分の愛と救いの光でその人の人生を照らします。ちょうど浜辺で太陽の光を浴びて肌を焼く人々のように、聖体訪問をする人は神の愛の光を受け、美しくなります。そのために聖体顕示台(オステンソリウム)は太陽の形をしています。

  主イエスは、聖堂の聖櫃の中で、静かに私たちを待っておられます。しかし、最近は聖体訪問をする人が、あまりにも少なくなってしまいました。多忙で合理主義に支配された現代の日本社会において、単純な信仰の表明し、神との時間を優先する価値観が、失われてしまっています。

  イエスに挨拶せずに、小聖堂の前を通り過ぎてしまう兄弟姉妹があまりにも多いです。聖体訪問は、空虚で学問的な空想ではありません。生ける神の愛の現存への実践的な信仰の表明です。自分の教会で、また他の教会で、是非ご聖体を訪問する習慣を見につけてください。待っておられる主イエスにご挨拶して、心の思いや願い、悩みなどを話してみてください。 誰よりもあなたを理解し、あなたの全てを知っておられる主イエスは、あなたを信仰の火と愛で満たし、最善の道へとあなたを導いてくださいます。時間が無いのなら、挨拶するだけでも良いです。ずっと私たちを愛してくださるイエスを無視しないように務めましょう。


−27− 教会の目的は何でしょうか?

  聖ルカは教会の目的をはっきり教えています。キリスト者たちは「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(使徒2,42)と。教会の務めとは聖書の教えを理解させ、信者の交わりを支え、導き、信仰を強める主の晩餐を行い、秘跡を授け、絶えず神に感謝し、祈ることです。

  教会は私たちの信仰が生き生きとしたものであるように、聖書に基づいて神の言葉を正しく教え、説明します。キリストの名によって集まっている信者たちは、ミサ祭儀によって信仰と愛と希望の内に一つになり、神の神聖に与るキリストの神秘的な体となります(ローマ12,4-51コリント12,12

  教会は、神に感謝と賛美、そして信徒の共同体の祈りを神にささげます。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4,6-7)と聖パウロが教えたように、教会は祈りの場、つまリ神との親しい出会いの場です。

  教会に与えられたもうひとつの任務は、イエス・キリストを通しての救いの福音を宣言することです(マタイ28,18-20)。初代教会の時から、教会は言葉と行いによって福音を宣べ伝える使命を忠実に果たしています。どんな状況の中に置かれても、教会は人々を救い主イエス・キリストの方に向けるために証ししています。キリストの司祭職に与っている私たちキリスト者もその使命を果たすように召されています。

  最後に、福音を伝えるだけではなく、主のはしためとして、教会は必要がある人たちに仕える務めと義務をもっています。昔イエスがなさったように、教会は世界の不幸や災いに対して気を配り、思いやりの心で霊的にも、物質的にも困っている人々を助けます。教会は神の愛と慈しみ、神の赦しと憐れみの目に見えるです。そいう訳で、キリスト者たちは一人ひとりが、聖霊の教え導きによって神の愛の現れであるように召されています。


−28− 信徒の「司祭職」とは何でしょうか? 

  司祭が叙階の秘跡で「イエスの」と結ばれるのに対して、信徒は洗礼で「イエスの」に結ばれます。頭も体も同じイエス・キリストです。だから、どちらの働きもイエスの働きです。そして、イエスは生まれた時から「永遠の司祭」です。ギリシャ語で「キリストス」、ヘブライ語で「メシア」という呼び方は、「油を注がれた者」という意味です。信徒は洗礼の時に、また堅信の時に「聖香油」を額に塗っていただく事によって「油を注がれた者」つまり「キリスト」「メシア」となります。

  司祭は、神と人の間に立つ仲介者であり、秘跡と司牧活動を通して人々に神の恵みと救いを与えます。信徒は、司祭に出来ない形で、司祭職を果たしています。信徒は特に世間の中にいるので、家庭、職場、学校、病院など、地域者会の中で生活し働いています。信徒は自分が住んでいる地域社会の中で司祭職を行ないます。それは福音宣教をすることではなく、言葉と行いによってイエスに属することを示します。

  たとえば、神から授かった子どもを「神の子」として、神が望まれるように育てるとき、信徒は司祭職を果たしています。あるいはまた、職場で忠実に人に頼まれた仕事を果たすことは、神のために働き司祭職を行っています。人間関係でいやな人を赦すとき、人の悩みに耳を傾けるとき、イエスの平和と慰めを人々にもたらすとき、信徒は司祭職を果たしています。キリスト者は、イエスの手や足となって働き、生活し、その行いを通して神の愛が人々に伝わります。イエスに神秘的に繋がっているので、家庭的な生活や社会的な生活を通して、キリスト者はイエスの救いの神秘に合わせて「救いの協力者」となるので、確かに司祭職を行なっています。勿論、祈りがその働きを支えなければなりません。キリスト者であるあなたも、司祭です。


−29− 信徒の「王職」とは何でしょうか?

  洗礼を授ける時、司祭は次のように言います。「神の民に加えられたあなたは、神ご自身から救いの香油を注がれて、大祭司、預言者、王であるキリストに結ばれ、その使命に生きるものとなります」と。昔、神から選ばれたイスラエルの王たちは、神の前で民の代表者であり、その民を守り、正しく治め、平和の内に正義を行い、統治する使命を受けていました。

  キリストの王権に結ばれているキリスト者も、同じ責任を受けています。私たちはキリストと同様に謙遜に愛と真理の奉仕をする者です。キリスト者は世界の支配者ではありません。世界に平和と救いをもたらす責任を持っています。聖パウロが教えている通りキリスト者は「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです」(1テモテ2,1-3)と。キリスト者は世界の平和と自分の国の安定のために祈り、正義を求め、行ない、働く人です。またキリストは大自然を尊重し、守り、祈りの力で人々から災いと疫病を遠ざけ、すべての人が元気で、安全に生きるように工夫し、祈り、社会活動などによってキリスト者は神に協力します

  ご存知のように、神は造られた者をすべて支配するよう、全世界を人の手にお委ねになりました(ミサ奉献文4番)。王職を受けて私たちは、全人類の代表として、キリスと共に絶えずこの世界の上に神の豊かな祝福と恵みが注がれるよう、祈りをささげ具体的に行動しましょう。


30− 信徒の「預言職」とは何でしょうか?

 
 預言者たちは神の言葉と教えを忠実に宣べ伝える使命をもっていました。また試練と出会う人々に、神の慰めと苦しい状況を耐え忍ぶために生きる希望をもたらしました。預言者は絶えず神の前で人々のために祈り、執り成す人です。今も、神の前で全人類のために執り成すイエスは、預言者として救いのよい知らせを宣言し、困っている人々に希望と慰めをもたらします。生涯にってイエスは昔の預言者たちと同じように神の神秘を啓示しました。つまり神はすべての人の救いと幸せを望んでいます。遣わされた「メシア」救い主を通して、神は必ず罪とあらゆる悪の力(死を含めて)に打ち勝ちます。

  預言職に与っている私たちも、神の言葉を伝えるために、先ず、第一にその言葉に耳を傾けること、聖書の教えと親しくなることが必要です。救いの神秘を理解し、それに自分の心と意志を一致させることによって、キリスト者は自分の預言職を果たしています。また、困っている人々に希望と慰めをもたらすことや彼らの試練の辛さに与り、分かち合うことによって、キリスト者は救いの道を整えています。

  昔の預言者たちとイエス・キリスに倣って、キリスト者は谷間にいる人々のために神の前に執り成す使命の責任をもっています。神の名によって、慰めや励ましの言葉と救いを与える具体的な行いによって、私たちが預言職を果たすことができるように聖霊が必ず助けと知恵を豊かに与えます。キリストに結ばれて、私たちの生き方が信仰を宣言し、人を救う喜ばしい証しとなるように努めましょう。


−31− 聖書的な蛇

  およそ6000年前に書かれたメソポタミアのギルガメッシュという物語によれば、人間が苦労して命がけでやっと手に入れた永遠の命の実をある蛇が簡単に奪いました。創世記のアダムとエバの物語はギルガメッシュ物語を利用していることが明らかです。聖書全体は蛇を人間の敵として示しています。この蛇は、人間の幸福を妬み、人々の死を望んで賢く嘘と偽りを利用します。知恵の書がこの蛇に与えた名前は「悪魔」でした。(知恵2,24

  エジプトとファラオもどちらも支配の象徴はコブラであり、ファラオは王冠の飾りとして2匹のコブラの冠を頭にかぶっていました。イスラエル人が奴隷にされた時に、まことの神の力と全能を示すために蛇に変化したモーセの杖は、エジプトの魔法使いが作った蛇の杖を飲み込みました。それは神がファラオの支配から圧迫していたイスラエルの人々を救うという印でした。神はイスラエルの人々をファラオの支配から解放された後、彼らを約束された地に導こうとしました。しかし、砂漠の生活を我慢できずイスラエルの民はずっと神に不平や不満を言いました。「エジプトに戻りたい」「天から下るマナよりもエジプトのおいしい食べ物を食べたい」とわめいて苦情を言いました。奴隷であったファラオの支配下に戻りたいと叫び続けたので、神は彼らに目に見える印として死をもたらすエジプトのシンボルであった毒蛇をおくりました。彼らにファラオの支配ではなく、神の保護の方が安全であり命の保障があることを悟らせるために、モーセは神の勧めに従って青銅の蛇を作りました。高く上げられた蛇を見た人は、毒蛇にかまれても死にませんでした。

  安息日を毎週土曜日に祝うイスラエルの人々は、今でもこの蛇の支配から解放された出来事を記念しています。このようにして、自然に蛇は神に反抗をしている者のシンボルとなったので、イスラエルの民は蛇をサタンと一致させてしまいました。またレビアタンという名でも知られています。洗礼者ヨハネをはじめ(ルカ3,7)、イエスも(マタイ12,34)神に逆らう者たちを「(まむし)の子ら」と言う名で彼らを指しました。世の終りにイエスはサタンと彼に従う者を永遠に火の池に投げ込まれるそうです(黙示20,10)。


−32− 悪の問題

  神だけが悪の神秘を説明し、解決することができます。しかし、この神秘について少しだけ説明しましょう。神が造られた被造物は、天使も人間も含めてすべて完璧でした。しかし人間に対する神の救いの計画を聞いて、それに反対した優れた天使であったサタンと彼に同意した天使たちがあっと言う間に神と人類の敵になりました。「初めから人殺し、偽り者である(ヨハネ8,44)サタンは、神の救いと愛の計画を妨げようとします。神に対してサタンは何もできないので、人々が神に反抗するように人間に対して誘惑の力を尽くします。

  聖書によるとサタンと悪霊は、けがれた霊であり、彼らの特徴は高慢と淫乱(いんらん)です。悪霊は人間を苦しめ、悪に誘います。人間が犯し罪は、大自然に害と災いをもたらし、人間に病気と死をもたらします。人間は悪と誘惑に対して戦いますが、悪に打ち勝っても、悪を完全に無くすことはできません。悪は神だけが解決できる暗闇の神秘です。神は悪から善を取り出す憐れみ深い全能の神です。

  人間は善を望むことはできても、それを実行する力は持ちません。人間は自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっています(ローマ7,19)。ただ人間になった、罪のないイエス・キリストだけが悪の根源に触れ、人々の心そのものの中で悪に打ち勝つことができます。十字架の神秘によってイエスは、悪と罪と死に完全に打ち勝ちました。洗礼によってキリストに結ばれた人は、キリストの勝利に与っています。特に罪の赦しを度々受けることによって、信者はますます罪と死に対する神の勝利を現し、サタンと悪霊たちの力は弱くなります。神は悪から善を取り出すので、キリスト者は「善をもって悪に勝ちます」(ローマ12,21)。


―33− 信仰生活の試練

  試み(試練)を起こす3人の役者(神、人間、サタン)がいます。先ず、第1の役者は神です。神は人間の心のうちを知り(申命記8,2)、かつ人間に命を与えるために(ヤコブ1,12)、神は人間を試みます。次に第2の役者は人間です。人間も自分が神のような者であることを証明しようと試みます。しかしこの試みは、誘惑によって引き起こされたものであり死をもたらします(創世記3章、ローマ7,14)。最後の第3の役者は、誘惑者であるサタンです。

  試み(試練)は命へ導き、誘惑は死をもたらします。言い換えれば、試みは神の恵みの賜物であるのに対して、誘惑はサタンの罪への招きです。結局、試みを受ける人間は神とサタンの前で、自分の自由意志で生きることか、死ぬことかを選ばなければなりません。この試練と試みは、神の言葉を宣べ伝える人々に必ず訪れます(1テサロニケ2,4))。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(2テモテ3,12)。試みはキリストと親密に生きる恵みをもたらします。

  実に試みは、信仰生活の成長のための条件の一つと言えます。キリスト者にとって試練を受けるとは、聖霊を体験することにほかなりません。試練によって、聖霊の賜物がいっそう豊かに注がれるようになります。なぜなら、聖霊は既に試練のさなかで開放の働きを行っているからです。試練は、人間が神に近づくために意味深いものであることを聖書は教えています。試練と試みによって、神に対する信仰、忠実、希望、人間の自由などが強められ確かなものとなる重要な要素を構成しています。またこれらはすべてイエスが受けた大きな試練の中に結びついています。試練はこのように私たちをキリストの受難と一致させ、キリスト者を復活に導くのです。


―34− 光

  光は確かに他の被造物と同じく、神の現存を象徴的に現し、神の栄光を反映するものです。光は、神が身を覆う衣です(詩篇104,2)。知恵の書は初めて「神は光である」と宣言しました。「神は光であり、救いです」(詩篇27,1)ので、神の光、神の掟、神の言葉と教えは人間の歩みを照らします。

 イエス・キリストが人間になったのは「イスラエルの民にも異邦人にも光を宣べ伝える」(使徒26,23)ためでした。ご自分の言葉と行いによって、自分が「世の光」であることをイエスは証し、啓示しました。特に、復活の出来事によって、イエスは神の栄光であることを弟子たちに示しました。「神は光であり、神には闇が全くありません」(1ヨハネ1,5)と、聖ヨハネは証ししました。イエスは神の子として「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れです」(ヘブライ1,3)。

 キリストを信じ洗礼を受けた人々は、「神の子」・「光の子」、つまりキリスト者も神の栄光の反映を現す使命を受けました。私たちは「光の子として生きていかなければなりません」(エフェソ5.8)。光なる神と一致して留まるには、光の中を歩むことが肝心です(1ヨハネ1,5-7)。よい行いを実現することで(マタイ5,14-16)キリスト者は自分自身も世の光となって、イエスから委ねられた使命に応えるのです。


35― 従順

  従順とは強制的な行いや盲目的な態度ではありません。従順は神の計画に対する自発的な同意と行いです。人間は従順によって自分の生涯を神への奉仕に変え、神の喜びの中に入ることになります。従順と言う日本語の言葉は、聖書が意味していることをあまり上手に伝えていません。他の通訳をすれば、従順とは「言われた言葉に耳を傾けること」です。聖パウロがイエスについて「彼は、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2,8)と書いた時、彼は決して「イエスは強制的に、盲目的に神の命令に従った」などと書きませんでした。むしろ、イエスは、苦しみを通して死ぬ日まで神の言葉に忠実に耳を傾けて、言われたことに同意して、自由に、謙遜に言われたことを実現しました、と言いたいのです。

  従順と信仰が結ばれていることを聖書全体が教えています。「わたしの声を聞くなら、心を閉じてはならない」(詩篇95,7)と神は度々願います。「耳のある人は聞きなさい」(マタイ11,15)とイエスも繰り返します。神を信じる人はどうしても神の言葉に耳を傾けて、言われたことは幸福をもたらすことができると理解した上、自由に、また謙遜にそれを行う人でなければなりません。言い換えれば、従順は自由を与え、神の終わりのない幸せに導き、さらに従う人を義とします(参照:創世記15,6)。キリスト者は、神に忠実に仕えるために従順である以外のなに者でもないことをよく理解しましょう。神の言葉に従うことは、神に栄光を与え、世界の人に救いをもたらす信仰の行いです。

  そういう訳でキリスト者は、特に迫害の時、人間に従うことよりも神に忠実に従うことを選ばなければなりません。キリストに倣って、キリスト者は苦しみを通して死に至るまで従順であるように召されているのです。神が私たちに従順を要求するのは、神には実現すべき救いの計画、建設すべき宇宙があり、そのためには、人間が信仰によってこれに同意し、神に協力する必要があるからです。従順は信仰の行いと信仰の実です。


36− 聖伝、伝統、伝承

  どの人間社会にも、昔から伝えられた生き方や教えや礼儀の作法などがあります。時代によってこれらの言い伝えの行ない方が変わったり消えたりします。しかし、神が教え啓示されたことに対して、時の流れがそれを変えることはできません。神の教えは永遠ですから。イスラエルの民もキリストの教えに従う人も、神が啓示されたことをきちんと守り、また自分の子孫に伝える義務と責任を持っています。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(申命記:6,6-7)と、神が私たち一人ひとりに願っています。

  聖伝、伝統とは、様々の典礼的な儀式をどのようにするのかと教えることではなく、ただ神の永遠の言葉と自分の信仰を伝えることです。更にキリストが記念として残したミサ祭儀に毎日曜日に与かることです。他の伝統的な印や行いは、私たちの信仰を支えるものです。大切なことは自分の信仰を守り、洗礼の秘跡を子供たちに与え、教えを伝えることです。

  聖パウロは手紙の中で次のことをたびたび願っています。「わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」(2テサロニケ2,15)。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(1コリント15,3)。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(1コリント11,23)と。聖パウロに倣って私たちも教会と共に、神が啓示されたことやキリストが教えられたこと、そしてこれに対する信仰を、聖伝あるいは伝統として正しく伝えるために、どうしても聖霊の助けにより頼むことが肝心です。


37― 隣人愛

  隣人愛の行いを実行することはとても難しいです。私たちは長年にわって、ある人に対して怒りと恨みを抱くことができるからです。隣人愛について二つの態度があります。第一の態度とは、自分の世界に入り込んで、自分に合う人間関係を選び、人生の問題を避けて無関心になって、自分と会わない人を無視するという態度です。第二の態度とは、自分に起こる問題に直面して、我慢しながらその人を大切にする方法を探して、その人に表面的な挨拶と微笑をわしますが、本人も気が付かないうちに自分が心理学者のような態度をとり偽善者となる態度です。この二つの態度の根本的な土台は利己主義、自己中心主義であり、言い換えれば自己愛です。

  隣人愛を実現するためにまず私たちは正直に「愛すことを知らない」と認めなければいけません。いくら人々に対して良いことをしても、その人たちの過ちを赦しても、自分の自己愛のせいで自分のように人を愛することはできません。そのことが分かれば、問題は他人の欠点や短所、言い方や態度ではなく、自分自身だと知るようになります。これこそイエスの弟子たちの発見でした。受難の時、イエスを愛していた弟子たちは彼を捨てて逃げました。ペトロはイエスや自分の仲間たちと全く関係がないと誓い、ユダは自分は赦されないと思って自殺しました。

 私たちは正しく愛することを知りませんが、神の憐れみに希望して決して絶望しないことが肝心です。聖ヨハネが教えている通り「ここに愛があります。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛したのです。」(参照:1ヨハネ4,10)。神の愛が私たちに先立っているからこそ、私たちの弱さにも拘らず、いつか必ず愛の完成まで導かれます。つたなくても隣人愛を実現しようとすることによって、私たちはその愛を望み、目指していることを証ししています。


38― 神に対する畏敬と恐怖

  大自然の災い、神の神聖と権能、自分を越えるものに直面して人は畏敬と恐怖を感じます。神への畏れにはこのように様々の種類があり、それぞれ差違はありますが、いずれも人間をより深い信仰に導く助けとなっています。

 アブラハム、ヤコブ、モーセ、イザヤ、ダニエル、キリストの弟子たちなどは、神の神聖やイエスの権威と行なわれた奇跡に直面して、初めて恐怖を感じました。しかし、段々この恐怖が神への信頼に変化しました。「恐れることはない」と聖書全体にわたって神とイエスは繰り返しています。このように、神への信仰は人間に安心感を与える源であり、人間的な恐怖を取り除く強い力です。まことの信仰者は、神への信頼に支えられて心の中からすべての恐れを追い払います(参照:詩篇23,427,191,5-13)。この揺るぎない信頼の現われは、「神の畏敬」と呼ばれています。

 しかしながら、神が人間に益となる恐れを与えることもあります。たとえば神の怒りと裁き、あるいは地獄の永遠の苦しみを思い出すと人間は恐怖を強く感じます。イスラエルの民の歴史は神の怒りがどのような恐ろしい罰をもたらすかをよく示しています。しかし、この恐れと恐怖は、罪人が改心できる可能性を必ずもたらします。

 旧約聖書の律法は、神の怒りに対して恐怖を持つように私たちに教えました。新約聖書の教えとイエスの愛の掟は、神を恐れ敬う心を私たちの内に形作ります。と言うのは神を愛する者は、たとえ良心に攻められるようなことがあっても、もはや厳しい罰を恐れません。実に、自分の罪に自覚めながらも、人間を義とする神の恵みに信頼するキリスト者に対して、新しい生き方を開始させます。それは、もはや奴隷的な恐れではなく、神の子とする霊による生き方です(参照:ローマ8,15)。 恐怖は神から人を遠ざけますが、神への畏敬は人を神に近寄らせます。ですから、神と隣人を愛することによって神への畏敬を育てましょう。


−39−
 キリストの体

  イエスは母マリアから生まれることによって、すべての人を救うために、人間の体を受けました。肉となった神の言葉であるイエスは私たちと共に住み、罪の他は私たちと同じように生活しました。私たちの間に宿られたイエスは、友情と裏切り、喜びと寂しさ、涙と怒り、飢えと渇き、疲れと悩み、侮辱されることとほめたたえることを体験しました。死刑の宣告を受けたイエスはまた十字架上で死に、墓に葬られ、三日目に復活しました。

  栄光の内に上げられ、神の右のに座っているイエスは全人類の初穂としてすべてを新たにし、永遠の命の道を整え、天の門を開いてくださいました。復活したイエスの体はもはや肉の体ではなく、霊的な体であり、栄光の体です。この体は神の神殿であり、特にミサの時に聖変化するパンとぶどう酒の姿、即ち聖体の姿です。キリストの体は私たちに神の現存のしるしとなっています。キリストは今から後、私たちと共にいるだけではなく、私たちの内にとどまるのです。キリストの体は私たちを新たにし、養い、強め、成長させ、聖とします。と言うのは、キリストの体である聖体を拝領することによって、私たちはキリストと一致して一つの体、一つの心、一つの霊となります。言い換えれば、私たちはキリストの神秘的な体となります。その事実について聖パウロは上手に説明しました。「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」(1コリント12,27)。これによってイエスは本当に私たちと同じ肉の体をとられたことをはっきりと示されています。私たちはキリストと共に一つとなっています。そのために私たちも聖パウロが言ったことを宣言します。「わたしにとって、生きるとはキリストです」(フィリピ1,21)。

  キリストの体は全人類の一致を実現しますので、すべてはキリストの内に集められています(参照:エフェソ1,10)。ここにキリストの体である教会の神秘があります。キリストに結ばれている私たちもイエスのようにいつか復活し、神の栄光に包まれるでしょう。その時「わたしたちの卑しい体を、キリストの栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3,21)。


―40− 神に叫ぶこと

 聖書と教会の典礼の中で次の叫びが聞こえます。「主よ、わたしを力づけ、急いで助けに来てください」。この呼びかけは信じる人の祈りを完成します。この叫びの中には全人類の悲劇と苦しみ、希望と信仰があります。

 神の助けを願う人は 自分の弱さと惨めさを認めながら、自分が限られていること、逃げられない状況によって圧迫され閉じ込められていることを宣言します。神の助けが一日でも早く与えられるように願うことは謙遜から湧き出る叫びです。神の助けがなければ、私たちは何も出来ないからです(参照:ヨハネ15,5)。しかしバビロンの王であったネブカドネツァルのように、多くの人々は神の助けなしに自分で何でも上手にできると自慢します。「なんとバビロンは偉大ではないのか。これこそ、このわたしが都として建て、わたしの権力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示すものだ」(ダニエル4,27)と。しかし、神なしに働く人々の労苦と作られたものはすべてむなしく消えます」(参照:エレミヤ51,58、詩篇127,1)と。

 神の前で自分の弱さを認めることは、福音的な貧しさの表現であります。決して自分を責めることや、自分を軽蔑し、自分をけなすことではありません。「神よ、急いで、わたしを助けに来てください」と叫ぶことは、神への信頼と信仰の叫びですから、司祭と修道者の毎日の祈り(教会の祈り…朝、昼、晩と夜の祈り)は、この願いから始まります。謙遜と信仰で満たされているこの叫びが私たち一人ひとりの口から出るように神は待っておられます。そして次の願いも待っておられます。「神よ、わたしの口を開いてください、わたしはあなたに賛美をささげます」(参照:教会の祈り、詩篇51,1)。



―40− 神に叫ぶこと

  聖書と教会の典礼の中で次の叫びが聞こえます。「主よ、わたしを力づけ、急いで助けに来てください」。この呼びかけは信じる人の祈りを完成します。この叫びの中には全人類の悲劇と苦しみ、希望と信仰があります。

 神の助けを願う人は 自分の弱さと惨めさを認めながら、自分が限られていること、逃げられない状況によって圧迫され閉じ込められていることを宣言します。神の助けが一日でも早く与えられるように願うことは謙遜から湧き出る叫びです。神の助けがなければ、私たちは何も出来ないからです(参照:ヨハネ15,5)。しかしバビロンの王であったネブカドネツァルのように、多くの人々は神の助けなしに自分で何でも上手にできると自慢します。「なんとバビロンは偉大ではないのか。これこそ、このわたしが都として建て、わたしの権力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示すものだ」(ダニエル4,27)と。しかし、神なしに働く人々の労苦と作られたものはすべてむなしく消えます」(参照:エレミヤ51,58、詩篇127,1)と。

 神の前で自分の弱さを認めることは、福音的な貧しさの表現であります。決して自分を責めることや、自分を軽蔑し、自分をけなすことではありません。「神よ、急いで、わたしを助けに来てください」と叫ぶことは、神への信頼と信仰の叫びですから、司祭と修道者の毎日の祈り(教会の祈り…朝、昼、晩と夜の祈り)は、この願いから始まります。謙遜と信仰で満たされているこの叫びが私たち一人ひとりの口から出るように神は待っておられます。そして次の願いも待っておられます。「神よ、わたしの口を開いてください、わたしはあなたに賛美をささげます」(参照:教会の祈り


−41−   笑うこと

  笑いは健康を保証すると言われています。私たちを笑わせるのは、馬鹿げた考えや物事を茶化した状況、人をはずかしめる状態などです。しかし、自分が笑いものになる時、私たちは恥ずかしくなり人々の笑い声を避けるために急いで自分を隠します。笑うことによって、自分の気持ちは自然に表れます。笑うことが良いか悪いか、それはその人の内面にかかっているのです。人の笑い方は、必ずその人のこころの中にある事実を表すからです(参照:シラ書19,30)。

  聖書は色々な笑い方を教えています。信じない人や人を傷付けるためにその人を馬鹿にしてあざける人の笑い、神を信じ、人々を尊敬する正しい人の笑いや神により頼み、神の業を見る人の笑いなど(参照:シラ書27,13)…。自分をコントロールする人は大声で笑うよりも静かに微笑みます。それが出来るためには、謙遜な態度が必要です。自分の欠点や過ち、こっけいな癖や愚かさについて笑うことができる人は、必ず人をあざ笑うよりも、その人の心傷付けないために、心から微笑む人となるのです。(参照:シラ書21,20)。

  謙遜な人は、自分の愚かさについて笑い、他の人の愚かさに対しては寛容な態度をみせます。なぜなら、神が自分も他人も恥ずかしい状態から救うことを信じているからです。謙遜な人は神と共に笑うことを学ぶので、その笑い方は「永遠の喜び」と呼ばれています。霊的また身体的な健康を保証するために、この永遠の喜びに生きていきましょう。


−42−
   夜明けの祈り

  人々が眠っているうちにベネディクト会、トラピスト会、カルメル会の修道者たちは夜明けに先立って、まだ暗い内に全人類の救いのために神に祈っています。彼らの最初の言葉は「神よ、私の口を開いてください。わたしはあなたに賛美をささげます」という願いです。夜の帳の中で叫ばれたこの祈願は、創世記の話を思い起こさせます。確かに、混沌の暗闇の中に神が叫んだ「光があれ」からすべてが始まりました(参照:創世記1,3)。

  夜の暗闇に祈る修道者たちは、全人類が日常の混沌から出て、神の光に入るように願っています。この祈りは聖霊の力が全てを新たにすることを可能にします。朝早くまだ暗い内に、神を賛美することは世界の人を目覚めさせ、光への道を整えます。修道者たちが、神にささげる夜明けに先立つ祈りは、「全ての人が暗闇を捨て、光の方に歩むように召されている」ことを、私たちに思い起こさせます。「あなたがたは光の子、昼の子です。夜にも暗闇にも属していません」(参照:1テサロニケ5,5)。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(参照:エフェソ5,8)と聖パウロも私たちに思い起こさせるので、可能性があれば私たちも夜明けに先立って、修道者たちと声を合わせて、世の救いを願い、神を賛美しましょう。なぜなら「神は、わたしたちの心の内に輝いている」(参照:2コリント4,6)からです。

−43−  絶えず祈ること

  神は昼も夜も、絶えずイスラエルの民の世話をすると旧約聖書は教えています。「世の終りまで私たちと共に留まること」(参照:マタイ7,20)、また、聖霊が永遠に私たちと一緒にいること」(参照:ヨハネ4,16)をイエスは約束しました。そいう訳で「絶えず祈りなさい」(参照:1テサロニケ5,7)と聖パウロは私たちに勧めています。しかし、私たちは天使ではないので絶えず祈ることは到底無理です。同じように神について絶えず考えることも難しいです。人は日常生活の中でとても忙しく、働くことや食べること、寝ることも必要です。

  祈りの泉は聖霊と神の愛です。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれていますから」(参照:ローマ5,5)神が私たちの内にご自身の存在を保証しています。神の愛は私たちの考えを遥かに越えています。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせました」(参照:マタイ25,35)と神は宣言しました。彼は神のことは考えませんでしたが、困っていた人々の世話をしていました。彼らへの世話は、彼と神を神秘的に結びつけました。「人々を愛する人、人々をいつくしむ人は絶えず祈っている人です」とアトスの山の有名な修道者シロアヌは教えました。

  考えることが愛することの助けになったとしても、絶えず祈らせるものは愛と聖霊だけです。たとえ眠っていても愛は人の心を神に向わせます。「眠っていてもわたしの心は目覚めています」(参照:雅歌5,5)。と言うのは、祈りたいという望みは先ず神ご自信の望みですから。心から神を望み探し求める人は、神の望みに応え、自分の内に絶えることのない祈りの泉を湧き出させます。この人は詩編の言葉を借りて、神に向って「わたしの望みは全て御前にあります」(参照:詩編38,10)と告白します。聖アウグスティヌスは勧めています「あなたの望みはあなたの祈りです。 望みが継続的であれば、祈りは継続的です。もしあなたは絶えず祈りたいなら、神に絶えずあなたの望みを叫びなさい」と。


−44−  神の眼差し

  「生涯、神の眼差しの前に清く、正しく歩むことは」(参照:ルカ1,75)信じる人の唯一の望みです。「心を探り、そのはらわたを極めるのは主なるわたしである」(参照:エレミヤ17,10)と神は打ち明けました。全てを見、すべてを知り、全てを極める神の眼差しを避けることはできません。しかし神は人を咎め、罰するために人をずっと見張る神ではありません。教会の教父たちにとって、父なる神の眼差しはイエス・キリストご自信の眼差しです。勿論、偽善者に対する神の眼差しは特に怒りで満ちていますが、罪びとや病人や弱い者、貧しい者に対する慈しみと憐れみが神の眼差しから溢れています。神の眼差しは開放する眼差しです。人は、神の咎めに相応しい者であっても、恐れずに、ありのままに、助けと赦しを願うことができるのです。罪ひとは詩篇の言葉を揺るぎない信頼をもって叫びます。「深い淵のそこから、主よ、あなたを叫びます…わたしの魂は主を待ち望みます」(参照:詩篇130)と。

  福音がよく記している通りイエスの眼差しは人を立ち上がらせ、癒し、憩いをもたらす眼差しです。イエスの見方が厳しくなり色々と要求する時は、人を盲目の状態から救いその人を新たにするためです。ラザロの死を知り、エルサレムの未来を預言する時にイエスの眼差しは涙でいっぱいになります。父なる神とイエスの眼差しは永遠の愛に輝いています。以上のような理由で信じる人は、生涯に亘って、自分の罪を認め、告白し、神の前で生きること、神の眼差しの前で清く正しく歩むことを望み、絶えず叫び続けます。「あなたに、主よ、わたしはずっとあなたにより頼みましたので、わたしの期待は必ず叶えられるでしょう。」(参照:Te Deumテ・デウムの最後の言葉)

-45- 聖水

  昔からユダヤ教は人や物を清めるために水をよく使っています(マルコ7,3-4)。初代教会の信者はこの習慣を守りました。しかし、彼らはだんだん司祭が祝福した水を使うようになりました。まず、水に祝福された塩を入れます。それは預言者エリシャがあるところの水を死と不毛から守るために、その水に塩を入れたことを思い起こさせます(列王記2,21)。そして司祭は聖霊の賜物(たまもの)を願いながら水を祝福します。

  清める水である聖水は、特に物を祝福するため、悪を追い出すため、災いから人を守るために使っています。自分の家でも使うことを勧めています。キリスト者は教会に出入りするたびに聖水で十字の印を切ります。それは自分が洗礼の秘跡を受けたことを思い起こすため、そして三位一体の神と親しく出会うために教会に来たことをも思い起こすためです。勿論、教会を出る時、キリスト者は神の名によって福音宣教をするために遣わされていることや神から受けた恵みを他の人々に分かち合うことをはっきり自覚するために聖水で改めて十字の印を切ります。

 聖水を大きな貝殻に入れることによって、二つのことを示しています。まず、中世時代に幼い子供に洗礼を授ける際に貝殻を使っていたこと、次に聖アウグスティヌスの体験を思い起こすためです。彼が三位一体の謎を黙想していると、浜辺で若い男の子(天使あるいは子どものイエス)と出会い、その子どもは貝殻を使って砂に掘られた小さな穴に海全体を入れようとしていました。アウグスティヌスが驚いたので、その子どもは彼に「あなた(人間)の頭に三位一体の神秘の深さを入れ込むよりも、この小さな穴に海の水を全部入れることの方がよほど易しいです」と説明しました。そういう理由で、十字架の印を切るときには聖水を少ししか使いません。一滴の聖水によって、三位一体の神秘にゆっくり入ることが望ましいからです。


-46- 祭壇のろうそく

  「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ5,14-16)とイエスは願いました。昔、家を照らすためにろうそくや油のランプが必要でした。今は明るくするために他のもっと便利なものを使います。祭壇の上に置かれている4本のろうそくは、北南西東(つまり色んな所)から来て、いま教会でキリストを囲んでいる私たちを表しています。司教様が来られた時に7本のろうそくを置くのは、彼が聖霊の賜物に恵まれた人であることを表します。

  しかし、私たち皆がキリストから光を受けて、光り輝く者となったことを決して隠してはなりません。ですから、ろうそくは祭壇の上に、よく見えるように置かれています。言い換えればキリストの教えに照らされ、キリストの体で養われた私たちはキリストに属している者として、自分の信仰の証しをはっきり見せなければなりません。しかし、強い光は眩しくて目をくらませるので、私たちはろうそくの炎ように優しく人々の暗闇を照らしましょう。

  最後に、祭壇のろうそくを見るたびに私たちが「光の中に光を見る」(参照:詩編36,9)ように招かれていることを絶対に忘れてはいけません。

-47- 行列の十字架

 十字架はもちろんキリストの受難と復活の出来事を思い起こさせます。そういう訳で、教会の壁にも、祭壇の上にも十字架が置かれています。司祭、司教、教皇の入祭の行列の先頭の十字架は、具体的にキリストご自身がご自分の神殿に入り、ご自分の愛に私たちを集めようとするキリストご自身の存在を示します。司祭はイエスの似姿であり、侍者たちはキリストを囲む天使たちです。ミサの時、ずっと父なる神に向い、天使や聖人たちの声に合わせて天国の雰囲気の中で司祭を通して、私たちはイエス・キリストの十字架上の生贄(いけにえ)を父なる神に捧げます。

  また聖書の朗読の時、行列の十字架は聖書朗読者の歩みに伴い、朗読者のすぐ傍に置かれています。それはこの朗読者はキリストと一致して、キリストの声で神のみ言葉を宣言していることを、私たちに思い起こさせるためです。

  さらにミサが終わる時、行列の十字架司祭、司教、教皇の退出に伴うのは、キリストが父のもとに戻ることを示します。また特に、私たちが教会でキリストによって受けた様々の恵みを外の世界の人々に伝えなければならないことを思い起こさせます。聖水で十字を切ること、行列の十字架を見ること、いずれであっても私たちキリスト者は 人生のあらゆる面で「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに」生きる使命を受けていることを忘れないようにしましょう。なぜなら「私たちの命は キリストと共に神のうちに隠されている」(参照:コロサイ3,3)からです。

-48- 婦人たちのベール

 昔からユダヤ教の男性は、礼拝の時や聖書の個所を読むときに頭に「タリット」という長いベールを被る習慣があります。個人的に祈る時には、彼らは司教たちが頭にのせる「キツパ」を被っています。聖パウロは、女性がベールを身に着けていることを正当化していました。女性のベールは、以前は一部の地域の風習で、西部と東部の両方の地中海周辺の都市に位置する異教の起源の衣服でした。

 初代教会の女性は、男性と同じように聖書を読み、預言することがあったので、聖パウロは礼拝の時に典礼に対して責任を受けた女性もタリットのべールを被るように願いました(参照:1コリント11,5)。やがて時の流れと共に修道会のシスターたちだけがベールを被るようになりました。しかし、第二ヴァチカン公会議のあとから大勢の修道会のシスターたちがベールを被るのをやめました。

 修道会のシスターたちがベールを被らなくなったにもかかわらず、日本人の女性はミサの時にまだベールを被っている人もいます。その理由はきっと明治時代の神父たちがルルドの聖母の出現の出来事を模範として説明したからです。ルルドの巡礼をした信者が、お土産として地方の女性が被る綺麗なレースのベールをお土産として人々に差し上げることが慣習になったからです。このベールは「マンティーラ」と呼ばれ、フランスの南とスペインの婦人が用いていた頭と肩を覆うスカーフでした。長崎や五島列島の神父たちは、ルルドの洞窟を作って、そこにルルドの水を入れ、さらに婦人たちにフランスの西南のレースのベールを与えた結果、今でもミサへ行く度にこのベールを被るようになりました。ベールは受けた洗礼を思い起こさせるものであっても、それは決して信者と未信者を区別する物ではありません。

No.49 祭壇

 いくら祭壇でキリストの晩餐を記念することがあったとしても、祭壇は大勢の人が感じとっている通りテーブルではありません。

 昔から祭壇は動物のいけにえをささげる場所、そして果物や食物の初物を供える台です。キリスト教の初期の数世紀の間、祭壇は一般にエルサレムの方角、即ち東に向けられていました。なぜかというと、教会の祭壇は特別な意味を持っているからです。まず、十字架上での「キリストのいけにえ」を思い起こします。次にキリストの墓を現しています。祭壇の上に置かれている三枚の麻の布は、イエスが三日間墓の中に納められていたことを示しています。さらに、時代と国によって祭壇の下に安置されている腐敗をれた聖人や殉教者の体は祭壇が墓であることを現わしています。同様に祭壇の上に差し込んだ聖石の五つの箇所に入れてある聖人や殉教者の聖遺物はキリストの五つの傷を思い起こし、祭壇は本当にキリストの墓であることを保証します。ですから教会の祭壇はキリストと私たち自身の復活を宣言します。

 確かに、司祭は祭壇でミサ祭儀を行うたびに「死に対する復活の勝利を」祝っています。祭壇でいつも「信仰の神秘」が行われています。それはキリストが再臨するまで行われます。しかしキリスト者たちは祭壇を囲んで、キリストの御体御血をいただくので、祭壇は分かち合いのテーブルとして受け入れられています。第二バチカン会議は、キリスト者たちは「神の言葉とキリストの体の食卓から生命の糧を取る」(神の啓示に関する教義憲章21番)と教えたので祭壇はこの頃テーブルとして見られています。

No.50 ステンドグラス

 光り輝くステンドグラスは、キリストの生涯、天使たち、聖母マリア、聖人たち、イスラエルの歴史などを絵画の雰囲気で教会に与えようとします。太陽の光を受けると、ステンドグラスはとても美しく見えます。この発見から次の教えが浮かび上がって来ます。実に、教会の中に集まっているキリスト者たちも神の光を受けて、光り輝く者、天の栄光で包まれている者と変容されています。ステンドグラスはそのことを具体的に教えています。もちろん、美しく輝いている色によって、ステンドグラスは聖書と福音の出来事や聖人と殉教者の生涯を語っています。それはまた、私たちが彼らを真似ることで、聖なる者になるためです。

 誰でもステンドグラスの光を浴びて、人は天国の雰囲気を味わいそれを捜し求めるように誘われています。ステンドグラスは、霊性への具体な招きです。信じる人も、信じない人もステンドグラスの魅力を強く感じながら、心の穏やかな人になり、神の平和をほんの少し味わいます。また、ステンドグラスが与える光は心を癒し、静かな安らぎを伝えます。

-51- 復活のロウソク

復活祭の前夜に行われる徹夜復活祭の「光の祭儀」で用いられる大きなロウソクには、十字架、西暦年号、ギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字にあたるAΩ(始まりと終わりを表す)、が記されています。

ロウソクの祝福の言葉は次のようです。「キリストは、昨日と今日。始めと終わり、アルファとオメガ、時も、永遠も、彼のもの、栄光と支配は彼に、世よとこしえに。アーメン。」司祭は描かれている十字架に5つの釘の形を入れると、次のように言います「その聖なる、栄光ある傷によって、私たちを支え、守ってくださる、主キリスト。アーメン。」と。

聖土曜日の徹夜ミサの時、ロウソクは祝福されてから、新しい火の炎で灯されます。次に司祭は復活のロウソクを高く上げ、3回「キリストの光」と唱えます。会衆は「神に感謝」と答えます。その後、司祭はロウソクに献香してから、美しい「復活賛歌」を歌います。

その年の復活のロウソクは50日間、聖霊降臨の日まで使われます。普通その他の時は、洗礼式や結婚式、叙階式や葬儀の際にも灯されます。しかし日曜日のミサはキリストの死と復活を祝いますので、私は四旬節の聖週間以外は復活のろうそくに火を灯してしています。

復活のロウソクは「キリストが世の光」(ヨハネ8,12)であることを思い起こさせます。そうして、私たちが「光の内に光を見る」(詩編36,9)から、毎週の日曜日に復活のロウソクを灯す意味があると思います。いつか神が終わりのない光の内に私たちを迎えるという信仰の希望を復活のロウソクは具体的に現しています。ですから一年中(四旬節の聖週間以外)使っても、復活のロウソクはまだたくさん残っています。このロウソクは高価な品ですので、使わないで残したりしないで上手に使えばいいと私は思います。

-52- 朗読台

2バチカン会議以前は、司祭は会衆に背を向けて、朗読はラテン語で読んでいました。その間信者たちは自分の本でその朗読の訳を読んでいました。司祭は祭壇の右側で旧約聖書か新約聖書の手紙を読みその後、福音の朗読を左側に移動してラテン語で読むか歌っていました。当時の朗読は二つだけでした。言い換えれば福音書以外すべての朗読は、会衆が見ている祭壇の右側で読み、福音書は左側で読まれました。

2バチカン会議後、神の言葉を聞く大切さが再発見されたと同時に会衆が自分の国の言葉で、ミサの時に、公に朗読を読む許可が出たので、教会では朗読台は二つおかれました。祭壇が会衆に向いていたので、代表の信徒が旧約聖書と新約聖書の手紙を会衆が見ている祭壇の左側にある朗読台で読み、司祭は福音書を右側にある朗読台で読みました。

時の流れと共に現在では、朗読台は結局一台になり,会衆から見て祭壇の左側に置かれています。従って、右側で当番の信者はミサ中に必要な説明や歌の番号やお知らせを知らせるのです。教会によっては、立派な朗読台があれば、素朴な台の朗読台もあり、また、全く置かれていないこともあります。

大切なことはみ言葉を聞き、心に留め、心の中で思い巡らすことです。言い換えれば、自分自身が朗読の支えとなるはずです。

-53- 神の示現 (神を啓示する現象)

古代文明の人々は自分の理解と知恵を超えるものを神とする習慣がありました。特に大自然の力と恐ろしい現象である雷、稲光、色の濃い黒雲、強風や地震などを神々としました。

イスラエル人の信仰は、大自然の現象を神とするのではなく神の神聖と力を具体的に表すものだと理解していました。旧約聖書の出エジプト記は特にこの現象で満たされています(出エジプト19,16-19)。この現象は神の神聖を啓示すると同時に神の神秘性を隠していました。なぜなら、神を見ると人は生きていることはできないからです(出エジプト33,20。イスラエルの民の信仰を揺るぎないものにしようと、神はご自分の存在と神聖を濃い雲、雷、稲光、騒がしい音を通して現わしました。このような自然現象を通して神は偶像と違い、生きておられることをイスラエルの民に見せました。砂漠の中のイスラルの民を神は、昼は雲の柱で、夜は火の柱(出エジプト13,21-22)でご自分の民の歩みを導きました。神の十戒を納めた聖櫃と出会いの幕屋の上にいつも神の濃い雲が留まっていました。それを見ることでイスラエルの民は神が一緒に近くにおられることを理解し、信じることが出来ました。時の流れと共にイスラエルの民の信仰が確かなものになっていったので、神の存在を現していた不思議な現象はやがて消えました。その後は不思議な現象を見ずに信じることが必要でした。

そういう訳で新約聖書には不思議な現象は非常に少ないのです。キリストの洗礼の時、神の声を聞き、またキリストの変容と昇天の時には濃い雲が神としてのイエスの神秘を隠しています。聖霊降臨では強い風と音がありました。しかしそれを見る人や聞く人はとても少ないです。

-54- 香とその煙

モーセの時代に、神はご自分の前に絶えず香が捧げられるように願いました。「代々にわたって主のみ前に香りの捧げ物を絶やさぬようにする」(出エジプト30,7-8)と。大祭司アロンは朝から晩まで、神の崇拝と祈りを具体的に示すために香をたきました。神の存在のしるしとしてイスラエルの民の出会いの幕屋に濃い雲がずっと留まっていたので、香の煙はおそらく雲の役割を果たして神の存在と神聖を示すようになったと思われます。もしかしたら、教会で神への礼拝として捧げられている香のは、ある意味で神の存在と神聖を示した旧約聖書の濃い雲を思い起こさせます。

香は勿論、神への尊敬と礼拝の捧げものであり、そのしるしでもあります。香は、神を象徴するすべてのもの、神に触れるすべてのものに捧げられます。そういう訳で、ミサの時に司祭は聖書、祭壇、十字架、供え物、そして司祭やキリスト者たちに向けて香炉を振ることより、イエスの名によって集まっている人々の間に神がおられることを思い起こさせます。また香の煙は、神に昇ってくる共同体の祈りと賛美を現しています。

「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を夕べの供え物としてお受けください」(詩篇141,2)。

55 侍者が振っている鈴(振鈴)

鐘はモーセの時代から神の賛美の道具でした。出エジプト記の中で、神はモーセに、アロンのようなイスラエルの大祭司の服を小さな鐘で飾る縫い方を説明しています。「アロンの上着の裾の回りには、青、紫、および緋色の毛糸で作ったざくろの飾りを付け、その間に金の鈴を付ける。金の鈴の次にざくろの飾り、金の鈴の次にざくろの飾りと、上着の裾の回りに付ける。アロンが聖所で務めをするとき、この上着を着ける。それは彼が中に入って、主の御前に出るときにも、立ち去るときにも、鈴の音が聞こえるようにして、死を招くことがないためである(参照:出エジプト28,33-35)。東方教会では、現在でも旧約聖書の時代のように香炉や司祭服や聖具を飾るために鐘が使われています。

鐘は喜びを現わす音で主を祝うだけでなく、悪霊を追い払うために神の賛美に不可欠なものでした。鐘を使い司祭が「この音を聞いたときに悪霊が逃げますように」と言うとき、彼らを祝福するというローマの儀式にも常に存在します。キリスト教の発展に伴い、特に信者の注目を集めるために、鐘はさまざまな方法で典礼を徐々に統合してきました。最初は教会の隣に建てられた塔に釣られ、次にたとえば聖パトリックは手で振ることが出来る小さな鐘を持っていたと言われています。伝説によると、彼はアイルランドの領土に新しい教区を設立するたびに、弟子の一人を選んで主導権を握らせ、信徒たちに祈りとさまざまな祝賀会に参加するよう呼びかける小さな鐘をその弟子に提供しました。

 信徒たちにキリストの御体と御血を見せ、忠実さを示し尊敬と崇拝を起こすため、ミサの時に鈴を振る習慣がフランスで13世紀に始まりました。1220年に聖変化の時に鐘を振ることを勧めたのは、パリ教区の元司教であるギヨーム・ド・セイニュレイ(Mgr Guillaume de Seignelay)でした。ローマ典礼では、聖体の重要な瞬間を示すために鐘が使用されました。実際、ミサがラテン語で祝われたとき、ラテン語を理解していない人々がミサの司式の進行状況を追うことは困難でした。そのため、適切な時にひざまずたりお辞儀をしたりするタイミングを忠実に思い出させるために、鐘を鳴らしていました。第2バチカン公会議からラテン語の代わりに各国の言葉を使うようになったので、鈴の使用はミサ典礼の進化とともに徐々に削除され、減少し、抑制さえされました。しかし、ローマ・ミサ典礼書の一般的な説明では、鈴の使用は言及されています。「奉献の少し前に、司祭は、適切な場合、信者に鐘で警告します。それから、彼はまた、パンとワインを上げるたびに鈴を鳴らします、それぞれの場所の習慣に従って」(N°150)。

 鐘は精神的に重要な力を持っており、目の前で展開しているものに私たちの感覚を目覚めさせることができます。鈴が私たちの注意を喚起するだけでなく、主がパンとワインに聖変化するために天から降るミサの重要な瞬間に特別な音として鳴らされます。したがって、鐘は気を散らすものではなく、神を賛美し、ミサの司式の進行状態に注意を引く手段であるべきです。詩篇には次のように書かれています。「大きなシンバルで彼を賛美し、勝利のシンバルで彼を賛美しなさい!そして、すべての生き物が主を賛美しますように!アレルヤ!」(詩篇150,5-6)と。

56−櫃(せいひつ)の歴史と意味

 16世紀からカトリック教会は聖櫃の中で聖体を納めています。聖櫃、ラテン語で≪ tabernaculum ≫,「幕屋」を意味します。この言葉は「神は留まる場所」即ち、砂漠の中でモーセとイスラエルの民が神と出会った幕屋を思い起させます。(出エジプト33、7)聖櫃は私たちと共にキリストが留まる場所です。モーセは作った幕屋の奥には、神の現存の目に印であった契約の櫃が置かれていました。その中に神の十戎の板がおかれていました。この幕屋は「神が留まる場所」でした。キリストの体である聖体が安置された教会の聖櫃は「キリストの血によって結ばれた新しい契約のしるし」であり、「私たちと共にキリストが留まる場所」です。

 櫃の上に、あるいはそばにキリストの現存を示します赤いランプの光は輝かしています。出エジプト記によると神の前に「絶えず灯を燃やし続ける」ランプが置くことを要求するからです。(出エジプト27,20-21)。ランプの赤色は私たちに対するキリストの永遠の愛と彼の受難を思い起こさせます。ランプの光は聖体の秘跡的な形で復活されたキリストの現存をあらわします。聖櫃が聖体を納めない時に、ランプは消えています。

 初大教会のころから、病人や囚人のために保存された聖体は、教会だけではなく、家庭でも布地に包んで保存されていました。しかし、迫害の後、聖体はピクシッドの中で教会にのみ保存されるようになりました。ピクシッドは貴重な象牙や貴金属で作られた小箱です。ピクシッドの中に入れる前に、聖体はキリストの墓の布のシンボルであった亜麻布で包まれていました。

 長い間、聖櫃を使う前に、聖体が「ピクシッド」の中に納めてから、祭壇の近くにあった壁の小さなニッチに置かれていました。または祭壇の上にピクシッドを掛ける習慣もありました。取り外して、運ぶことのできないピクシッドは象牙や貴金属で作られた貴重な宝石箱で、特に司祭が病者に運ばれる聖体を収めるために使っていました。ピクシッドの中に入れる前に聖体は、キリストの墓の布のシンボルであったリネンの布で包まれていました。4世紀から聖霊の象徴であった鳩の形をしていたピクシッドを使いました。鎖でこの州類のピクシッドは祭壇の上に掛けられていたので、聖体拝領の時に直接に祭壇に降ろされていました。しかし教会の外で運ぶことができなかったので、聖体を病者に簡単に運ぶためにシボリウムは必要な便利な器となりました。そして、ピクシッドはシボリウムを納めるために大きな聖櫃に変化しました。

 スイレンの花の形をしていたのでシボリウムはギリシャ語の「キボリオン」から名付けられました。いつも絹のベールはシボリウムを覆うのです。シボリウムは聖櫃の中に納められています。昔直接に祭壇の上に置かれた聖櫃は現在、祭壇の離れた所で信者にはっきりと見える場所で置かれています。(ローマミサ典礼書の一般的な指示 No315

ローマミサ典礼書の新総則 第315

 御聖体を保存している聖櫃をミサが執り行われる祭壇に置かないようにすることは、しるしとしての意味とよく調和する。さらに、教区司教の判断に基づいて、聖櫃は以下のところに置くようにする。

1.司祭席内。この場合、祭儀を行う祭壇から離れたところに、よりふさわしい形と場所を選ぶ。ただし、もはや祭儀のために使用されない古い祭壇の上を妨げるものではない。

2.あるいは、他の礼拝堂内。この場合、信者の個人的な礼拝と祈りに適しており、教会堂と有機的につながった、信者の目にとまる場所にする。

ローマ・ミサ典礼書の新総則」 第314

聖体は、固定されたけんごで ただ一つの聖櫃に保存されます。

聖櫃はふとうめいで、おきよしの 危険がさいだいげん 遠ざけ られるよう 閉じられていなければなりません。聖櫃は 神が私たちと共に住み、留まる聖なる場所です。(黙示録21,3





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