グイノ神父の説教




B 年 待降節 と 四旬節




待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日
主の降誕(夜半)

四旬節弟1主日
四旬節弟2主日
四旬節弟3主日
四旬節弟4主日
四旬節弟5主日
枝の主日
                    待降節第1主日(B年)   20081130

      イザヤ6316節〜647節 1コリントの信徒への手紙139節 マルコ133337

   「目を覚ましていなさい!」4回の勧告が今日の福音で繰り返されています。 「どうか、天を裂いて降ってください」とイザヤが言っているのに反して、聖パウロは「最後までしっかりと信仰に生きるように」私達を促しています。 この日の朗読は、私たちキリスト者にとって、目を覚ましているとは命に不可欠な事であって、私達が主の到来を待っている事を想起させます。 待降節に入るとは、目を大きく開いて、希望と光に向かって歩み始める事です。 イエスに導くこの道で、私たちは重要な3人の証人に出会います。 第一は預言者イザヤで、希望についての偉大な証人です。 イザヤは約30世紀以来、空想的とさえ思える世界を私たちに約束しています。 この平和な世界は一人の若い乙女がエンマヌエルと名付けられる男の子を生む時、可能になります。(イザヤ24節) 私たちにとって、正義と、平和と、愛のこの素晴しい世界はクリスマスと呼ばれます。

   しかし何と言うことでしょう。 私たちは日常生活の中で、神から差し向けられる呼びかけを見分ける事を知りません。 私たちは神の手の業だとイザヤは言います。 つまり壊れやすい被造物で、罪の暗闇によって印をつけられています。 しかしながら、この被造物には神との類似があります。 私たちはイザヤによってかつて約束された光に入りました。 この光は私たちを照らします。 なぜなら、キリストが私たちに救い主として与えられたからです。

    キリストを受けるために、私たちは第二の証人洗礼者ヨハネに出会います。 洗礼者ヨハネは指差して神の子、待ち焦がれた救い主、イエスを私たちに示します。 イエスを受け入れるために、一人ひとりがイエスの持って来られる光をより良く受けるために、心を改めなければなりません。 肉となられたみ言葉である神の神秘に、私たちの知恵と心を開かなければなりません。 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ330節)と言われているように、私たちは自分を消さなければなりません。 それはイエスが少しずつご自分を啓示してくださるためです。 この待降節中に、私たちの道を建て直すように学びましょう。  つまり良い選びをし、正しいものを識別しましょう。 そして、平和を築き、赦しと和解をもたらすものを捜し求めましょう。

    若いサムエルは次のように祈りました。 「主よ、お話ください。 しもべは聞いております」と話し、「主よ、聞いてください。 しもべは話します」とは言いませんでした。(サムエル上39節) 待降節の時は沈黙のうちに聴く時です。 イエスを受けるために、私たちは第3番目の証人が必要です。 それは私たちの傍らにおられる沈黙のマリアです。 神が私たちに下さるおん子をマリアと共に受けるために、マリアは御父のほうへ向くように私たちを手伝います。 マリアの目立たない現存は、私達にとって、イエスを良く受け取るのを学ぶのに必要で欠かせないものです。 イエスを与えるためにしかマリアは受けません。 私たちも同じようにしなければなりません。 救いを実現する愛の証人であるマリアは、神が救いたいと望まれる人皆の母です。 マリアはご自分を与えられる神の喜びに私たちを一致させます。 この待降節の道で、私たちは確かに、光と夜の時を通り過ぎるでしょう。 しかしマリアは喜びと希望のうちに私たちを支えるために、何時も私たちの傍にいます。  なぜならクリスマスは私たちにとって、神の命にむかって開かれた門とならなければならないからです。

   イザヤが告げた方はイエスです。 私たちがイエスのうちに希望を置くようにと。 洗礼者ヨハネが指差した方はイエスです。 私たちが自分の信仰をイエスに置くようにと。 マリアが私たちに与えられる方はイエスです。 私達がイエスのうちに、愛する力を見出すようにと。 キリストの光は 太陽のように私たちの人生の各瞬間にのぼります。 私たちはそれをしっかりと見分けるようにしましょう。 ですから、目覚めると言うことは、外面的な何事かを受け取る為に、内面的な注意深い態度を求めます。 神は私達のところに訪ねて来られ、御子イエスにおいてご自分を啓示されます。 神のところへ戻ってきた者に神は答えられ 神を待ち望んでいる者と出会いに来られる事を、待降節は私達に教えます。 神は私達の希望、私たちの未来です。 私たちは神を必要としています。 神が私たちを必要としておられるのではありません。 伝わりやすい、陽気な喜びをもって、世のための神の救いと命の計画に全力を尽くして参加しましょう。 アーメン。



                     待降節第2主日 B年) 2008127

 
  イザヤ4015911節  ペトロ第1の手紙3814節  マルコ118

   マルコの福音書は心をひきつける、素晴しい語りで始まります。 マルコは「始まり」が主題だとはっきり言います。 というのは、イエスを通して始まる歴史は、完成されるのはずっと先だからです。 マルコは自分の物語にギリシャ語の「エバンジェリオン」というタイトルをつけましたが、その意味は「良い知らせ」ということです。 この良いしらせとは、ナザレトのイエスが、本当に預言者たちの告げた救い主であるということです。 復活された彼は神の御子で、私達は世の終わりに、栄光のうちに彼が帰って来られるのを待ち望んでいるのです。 故に、私たちはイエスの直ぐの到来、つまり御降誕、非常に近いクリスマスを準備します。

   洗礼者ヨハネはイエスが誰であるかをはっきりと言います。 イエスは政治的な解放者ではなく、「聖霊のうちに洗礼を授ける方」です。 洗礼者ヨハネはヨルダン川の泥水の中で洗礼を授けましたが、イエス自身は神の命の涸れる事のない清らかな泉です。 洗礼者ヨハネは永続的な本当の回心によって、イエスを選ぶように勧めます。 自分自身とこの世が変わるという望みに結びつくイエスへの信仰が、神の国の到来を実現します。 なぜなら、このキリストこそが、すべての者が永遠に生きるようにと、自分の命を与えに来られたからです。

   既にイザヤ預言者は、主のために平らにされ、真っ直ぐな道を準備するように、私達に勧めています。というのはこの真っ直ぐな道は、傲慢と利己主義の妨げから開放された私達の心を通るからです。 私たちの真っ直ぐな心は、神の愛の力を受け入れます。 この愛は私たちを救い、聖化し、命を与える愛です。

   時には、神と出会わないと私達は嘆く時があります。 しかし神を捜すために私達は何をしたでしょうか? 神を見つけようと本当に望んだでしょうか? この待降節の時は、私達の道を立て直し、神のみ言葉と親密になるように、私たちを手伝うもっとも好都合な時です。 ただ神のみ言葉の真面目な瞑想だけが、私達の生き方にある危険なカーブを発見させ、神に向かう私たちを遅らせるすべての回り道を見つけさせる事ができます。 イエスの声を聞き、私たちに与えたいと望まれるすべての恵みを受ける事ができるように、聖霊のうちに新たにして下さることを願いましょう。 しかし、私たちの霊的怠惰がそれを受けるのを妨げないように・・・

   疑いもなく大勢の人が、自分の心のうちに、イエスのために惜しむことなく場所を整えるには、たくさんの待降節のときが必要でしょう。 また私達が過ごす一つ一つの待降節を活用しなければなりません。 もし私たちが利己主義と罪に留まっているなら、イエスは決して私たちの友として名乗りを上げて下さらないでしょう。 その時には、私達は彼がもたらして下さる大きな喜びや限りない希望を、決して知る事がないでしょう。 クリスマスに先立つこの3週間の間、一緒に、主に向かう道をよく準備するように急ぎましょう。 明日、私たちは無限罪の聖マリアの祭日を祝います。 罪から解放された心のうちに、神の喜びで飾られた魂のうちに、この美しい道が実現するために、マリア様が手伝って下さるように・・・アーメン。



                   待降節第3主日 B年) 20081214

 イザヤ
61121011節1テサロニケの信徒への手紙51624節ヨハネ1681928


   洗礼者ヨハネは独特な証人です。 なぜかと言えば、毎年、待降節第2と第3の日曜日は彼に当てられています。 マタイ、マルコ、ルカが洗礼者ヨハネを回心するように招く人として示すとすれば、ヨハネはメシアの第一の証人として紹介しています。 3人の福音史家は洗礼者ヨハネの厳しい性格、奇妙な衣服、変わった食べ物について長々と描いています。 また彼らは、彼の辛らつな説教の内容を細かい所まで述べています。 彼の親密な弟子であるにも拘らず、福音史家ヨハネはそんな事は何も言わず、彼の使命の目的を短くまとめます。

  洗礼者ヨハネは自分個人の上に人々の眼差しを引きつけず、むしろ先駆者として自分が紹介するキリストの上に引きつけます。 洗礼者ヨハネは、イエスが待ち望んでいる救い主、神の子、世の光、ほふられた過ぎ越しの子羊であると、すべての人が信じるように、証しする為に来ました。 洗礼者ヨハネが自分は救い主ではないと否定するのは、私達にイエスは誰か?と考える様に勧める為です。 一方、彼の福音全体で,ヨハネは少しずつイエスが誰であるかを明らかにしていきます。 ときにはヨハネはイエスの言われたこと、された事を語りますが、それはいつもイエスが肉となった神のみ言葉で、命の光である事を私たちに良く分からせる為です。

  それゆえ、洗礼者ヨハネは先ず、光について証言し、それから罪と死を砕くために生贄となられるイエスの使命について証言します。 「見よ。世の罪を除く神の子羊だ!」(ヨハネ129節) さらに今まで使われなかった曖昧な言葉で、洗礼者ヨハネはイエスが神であると説明します。 「私の後から一人の人が来られる。 その方は私よりも偉大である。 私より先に存在しておられたからである。 私はその方の履物の紐を解く値打ちもない!・・・この人こそ聖霊によって洗礼を授ける・・・私はそれを見た。 それで私は、この方こそ神の子であると証ししているのである。」(ヨハネ1章、2734節)

  今こそ、洗礼を受けた人は皆、洗礼者ヨハネの声に自分の声を重ねながら、キリストの証人となることができます。 というのはイエスの名を信じる者は、神の子となる恵を受けたからです。(ヨハネ112節) キリスト者は使徒、福音書著者、すべての信徒と共に証人となります。 この人達は何世紀にも渡って、世の救い主キリストを証言したからです。

  洗礼者ヨハネは光ではありませんが、光について証言しました。(ヨハネ178節参照) イエスに出会ってから洗礼者ヨハネは言いました。 「あの方は栄え、私は衰えなければならない」(ヨハネ330節)と。 洗礼者ヨハネの誕生を祝う日が624日である事に留意するなら、太陽の光が少なくなり始めるのが数日後であることと考え合わせて面白いです。 そしてイエスの誕生を祝う1225日は太陽の光が大きくなり始める数日後です。 洗礼者ヨハネは、私達に今もまだ証人であるとは証言する人の前で消えていく事だと教えています。 このような証人になるようにマリア様から学びましょう。 私たちの内に、また周りにイエスの光を広げる為に、そしてイエスに場所を惜しみなく引き渡す証人となる為に、神の美しさに完全に輝くマリア様が私たちに教えてくださるように。  アーメン。



                   待降節第4主日 (B年)  20081221

     サムエル記下71-58-1214,16節  ローマの信徒への手紙1625-27節  ルカ126-38

   何世紀にもわたって、キリスト教美術はいつも大天使ガブリエルと聖マリアとの間の神秘的な対話を描こうと努めました。 聖霊の働きの象徴である大きな羽をつけている大天使ガブリエルは、マリアに話しかけようと家の中に入ります。 その家には二つの壁しかなく、戸もなく、大きく開いています。 家の直ぐそばに美しい庭があります。 この庭はエデンの園を思い出させ、この園は神への信頼の園、つまり原罪と不信が入る前の園です。 天使はマリアに、「主はあなたと共におられます」と挨拶します。 マリアは殆ど必ず、小さい本を持って現されます。 まるで聖書を読んでいる最中に天使に驚かされたかのようです。 マリアはいつも心のうちに、自分の民の聖なる歴史を瞑想する方として描かれています。

   マリアは天使の言葉「主はあなたと共におられます。」に心を騒がせます。 この言葉は神に選ばれた人に何時も言われました。 特に今、彼女が手に持っている本で、これを読んだばかりです。 これは神が始めて婦人に話しかけられた言葉です。 マリアは動揺しました。 なぜなら、彼女はこの言葉が神秘を含む言葉であると知っていたからです。 聖書の中で、この挨拶はいつも神と契約を結ぶように招く言葉です。 だからこそ天使はマリアに信頼するように勧めました。 「マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みを頂いた。」と。 そして直ぐに天使は、彼女と共に、彼女によって、彼女の内に神が行ないたい契約の内容をマリアに啓示します。 この約束は既に預言者ナタンによってダビデとの間に行われたもので、マリアはそれを手に持っている本の中で、度々読んでいました。

   そこでマリアは天使に、この約束はどんなふうに自分のうちに実現するのかと謙遜に訊ねます。 「私は処女で男の人を知りませんのに」と。 天使は出来るだけ答えようとします。 天使にとってもキリストの誕生はすべての知識を超える神秘ですから。 天使は「聖霊があなたに降り」、つまり、世の創造のために神がされたように、あなたになさると答えます。 「いと高き方の力があなたを包む」といい、それはかつてヘブライ人の解放とエジプト脱出の時に実現したように行なわれると答えます。 実際、大天使ガブリエルは神の言葉がどのように人間となるかを説明出来ません。 これらの説明の最後に彼は「だから・・」しか付け加えられません。 ガブリエルは何も説明しません。 しかし彼はあらゆるイメージや知識を超えた信仰を要求します。

   それにも拘らず、「私は主のはしためです。 お言葉どおり、この身になりますように。」とマリアは信仰をもって天使ガブリエルに答えます。 彼女が言った言葉は人間が神に呼びかけることの出来る最も美しい言葉の一つです。 意表を突く単純さで、マリアは神の素晴しいご計画が自分に行なわれるままに任せます。 彼女のうちに、神のみ言葉が肉となられるために、聖霊が自由に行なわれるようにマリアは承諾します。 彼女の心のうちで実現されようとする隠された神秘を、人間の言葉で説明する為に、マリアには「私は主のはしためです。 お言葉通り、この身になりますように」と言う言葉しかありません。 こう言いながら、マリアは神に自分の全存在、全生涯を引きわたしました。神のみ言葉が私達の心に深く浸透するにまかせながら、マリアを真似る事が出来ますように。   アーメン。



                      主の降誕(夜半)  20081224

         イザヤ91-35-6節  テトスへの手紙211-14節   ルカ21-14

   すべては 幼子の揺り篭に使われている飼い葉おけの中で始まりました。 イエスは 物質的貧しさのうちに生まれました。 しかし彼は強固な契約のくぼみに受けいれられました。 実際、ヨセフとの結婚によって、マリアは自分の夫と愛の契約を結びました。 そしてこの契約の真っ只中にイエスは神の贈り物として、受け止められました。 マリアとヨセフはまた信仰によっても自分たちだけでなく人々と一致しています。 この信仰とはイスラエルにおいて、神と結んだ契約に忠実に生き、この契約の結果である救い主を待ち望んでいる人々の信仰です。 このようにイエスが休んでいる飼い葉おけは、目に見える揺り篭だと言えます。 しかしイエスは約束の結果ですから、彼の本当の揺り篭は、何世紀にも渡って時にはひどく苦しみながら生きてきた、神ご自身とユダヤの人々との間で織り成された契約であると言えます。 これらの契約はイエスが、私たちの人生を分かち合うために、また、私たちの救い主となるために、イエスを受け止める事の出来る唯一つの揺り篭として形作られたものです。

   ユダヤというこの小さい国で新しく生まれたイエスは、世界の大きな部分を支配しているローマ皇帝の人口調査によって、全人類と結ばれています。 イエスはアウグスト皇帝の臣下として、その名で調査目録に入れられています。 当時、ローマは武力と社会的組織を持ってユダヤまで来ました。 しかし間もなく、聖霊に満たされた使徒たちの証言の力で、神の子であり、世の光であるイエス・キリストの福音はローマで宣言されるでしょう。 そして3世紀あとには、ローマ皇帝であるコンスタンティヌス自身がキリストへの信仰を告白し、キリスト信徒として登録されるでしょう。 母親、ヘレナ皇后と共に、ベツレヘムへ祈りに行き、イエスが生まれたところで跪くでしょう。 ちょうどイエスとその両親が人口登録をしたその場所で・・・

   天使たちの賛美の歌によると、イエスの誕生は天と地による平和の表明です。 イエスはかつてアブラハムやその子孫たちにされた約束の結果で、彼はまた預言者イザヤが告げた平和の君です。 そういうわけで、地上でのあらゆる暴力の中止を待つことなく、神は私達との平和の契約を結ばれます。 キリストの誕生は和解を招きます。 イエスは先ず神との信頼に基づく対話のうちに生きるのを私たちに学ばせに来られましたが、私たちの周囲にいる親戚、友人、または敵、キリスト教的共同体の仲間たち、または職場の仲間たちすべてにもそれを学ばせに来られました。 神はご自分の平和を私たちに与えるために人間になられました。 この良いおとずれを知らせるために、主の天使は羊飼いたちに呼びかけました。 彼らがどうしてベツレヘムの住民に何も宣言しなかったのかと訊くことができます。 答えは簡単です。 ベトレヘムの住民はマリアの胎内にあって彼らに示されたイエスを捨てたからです。 「彼らのために場所はなかった」とルカは書いています。 ヨハネは同じ事を「言葉は自分の民の所へ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ111節)と言っています。

   羊飼いたちは天使のメッセージを受け入れます。 そのとき神の栄光は彼らを光で包みます。 あたかも一人の人が自分の妻を腕で守るように、一人の婦人がありったけの優しさで子供を包み込むように、神の光は羊飼いたちを平和で包み込み、照らします。 この光は彼らの知恵を照らし、彼らの心を暖めます。 「今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。」羊飼いたちは天使の言葉を信じ、私たちの神であり、私達の救い主であるイエスが休む飼い葉おけまで行きました。 羊飼いたちは、イスラエルの牧者、すべての人の牧者となられる方を礼拝します。

 クリスマスに神はすべての人と合流し、皆に、自分の現存を差し出します。 クリスマス、それは受け入れるべき平和の契約であり、発見すべき神の現存です。 イエスの誕生以来、この平和はベツレヘムの揺り篭から泉のように溢れ出ます。 この平和は世界を潤し、何世紀にも渡って、今晩私たち皆にたどり着きます。 世の終わりまで私たちと共におられる神の現存を発見するように、この平和は私たちを助けます。 しかし神は人々にご自分を一人の子供として啓示されます。 この奇妙な神の現存は、終わりなく私たちを驚かせます。 なぜなら神は優しさと憐れみを持って来られて、私達の一人となられながら、今度は私たちの番として、神の子となるように教えてくださるのです。 さて今晩、神と契約を結ぶのを断らないようにしましょう。 神を眺め、神が私達を眺められるままにしましょう。 神の栄光の光が私たちを包みますように・・まるで昔、その光が羊飼いたちを包んだように! アーメン。

            

                        四旬節第1主日   2009年3月1

          創世記9815節  1ペトロの手紙31822節  マルコ11215

  洗礼の後、イエスは聖霊に送り出されて荒れ野へ行かれました。 荒れ野は神に近づく場所ですが、同時に沈黙, 飢え、渇き、孤独、野獣、怖れのある場所であり、人が神を信頼しているかどうかをテストするところです。

  イエスに誘惑者は近づきます。 その時、イエスは父の愛する子であると断言されるみ言葉を心に抱いています。 サタンがイエスに挑むのはこの問題点についてです。 イエスの心に語りかける聖霊は彼に「君は私の息子・・・」と囁きかけます。 そして誘惑者はこだまのように「もし、君が神の子ならあれをしなさい、これをしなさい!・・・」と彼に繰り返します。 マルコはイエスの試練を二つの節でまとめています。 もっとよく知るにはマタイかルカの福音書を読む必要があります。

  3つの誘惑を通して(石をパンに変える事、神殿の高いところから飛び降りる事、サタンを拝んで、権力者になる事)誘惑者はたった一つの事しか繰り返しません。 「もし君が神の子なら、人を引きつける為に、君の奇蹟の力を有効に使いなさい。 人々が君を喝采で迎えざるを得ないように、君一人のために、君が神から受け継いだ賜物を君の栄光の為に役立たせなさい」と。 こんな風に話しながら、悪魔は(ディアボロス−ギリシャ語)「分割者」を意味する自分の名前を暴露します。 御父からイエスを離そうと試みながら、サタンは彼がずっと嘘つき、殺人者であることを明かします。 嘘つきなのは、彼の言葉が空しい偽りの力をちらつかせるからです。 殺人者であるのは、御父から御子を離そうと望むからで、イエスを生かせる方から切り離すことで、実際に、彼の死を望むからです。

  しかしながら、イエスは直ぐにサタンとその誘惑を押し返します。 御父の愛する息子、彼は人間を支配するのではなく、人間に仕えるという使命を受けました。 彼は権力を得るため、またご自分の神性を表明し、イスラエルの民の政治的期待に答える為に、世に来られたのではありません。 イエスは地上に一時的な王国を設立するために来られたのではなく、私達を神の永遠の王国に導きいれ、そして特に私達の心にそれを打ち立てる為に来られました。

  ご自分の使命を果たされる間中、イエスは同じような誘惑を経験されるでしょう。 パンの増加の後、人びとは彼を王にする為に、独占しようとします。 イエスは世の終わりまで、群衆を養います。 一人の青年から借りたパンによってではなく、石から魔法的に作り出されたパンによってでもなく、彼ご自身の肉によって形作られたパンによってです。 命のパンとなったイエスの体こそ、私達の体に永遠の命を与えます。

  しばらくしてから、イエスがご自分の死を告げられる時、ペトロはサタンの考えを取り戻します。 「あなたが死ぬなんて不可能です。 そんな事は起こりません。」と言います。 イエスは「サタン、引き下がれ!あなたは私の邪魔をする者。」と激しく反論します。 このようにペトロのサタン的な言葉に反論しながら、イエスは最後までご自分の選びを繰り返し言われます。 それは、謙遜で苦しむ僕であると言う予言的な生き方です。

  最後に、十字架上で「十字架から降りるがよい。そうすれば、信じてやろう。」という叫びをイエスは聞かれます。 これは神殿の頂上で、「ここから飛び降りろ。 神はお前を死なせはしない!」とイエスにささやきながら、サタンが彼に提案した同じ罠でした。 イエスは最後の力を込めながら、人々が彼を信じるように強制する奇跡を拒絶するでしょう。 イエスは人々から自由に愛されるのを望まれるのです。

  イエス個人のうちに、神は本当に私達のすべてを取り、あらゆる形の誘惑も含めて、すべてを引き受けられました。 神がこれほど私達に似たものとなられたのは、私達が彼に似たものとなるためです。 神が私達の傷つきやすく,壊れやすい肉体を取られたのは、ご自分の固有の聖性で光り輝くものとするためです。 神は誘惑、罪、悪のあらゆる力に対するご自分の勝利が、私達のものとなるように望まれます。 地上に於ける私達の人生は、何時も悪に対する戦いと、回心への絶え間のない努力です。 そういうわけで、あらゆる種類の誘惑に立ち向かって、キリストにしっかりと結ばれなければなりません。

  それは、イエスの御父への尽きる事のない力、忠実、信頼を私達に与えるためです。 私達は、試練から抜け出した時、「キリストなしには、私達は何も出来ない」ことを確かめる事が出来、聖パウロの誇りをもって、「キリストによって、私達は偉大な勝利者です」と宣言出来るでしょう。 だから回心しましょう、そして救いの善いしらせを信じましょう!  アーメン

            

                          四旬節第2主日     2009年3月8日

     創世記2212910131518節 ローマの信徒への手紙83134節 マルコ9210

   今日の3つの朗読は山の頂上へ私達を導きます。 まず、アブラハムが生贄を捧げた場所、モリヤ地方の山、ついで、イエスが十字架に付けられた場所、カルワリオの丘、最後に、イエスが変容された場所、タボールの山です。 朗読の中で、二人の父(神とアブラハム)と、死に直面する二人の息子(イエスとイザク)の事を私達に語ります。 また、高いところから送られる、命を望まれる神の愛を啓示する二つの言葉もあります。

   モリヤの山では、神は「父である」とはどんな意味かを私達に言われます。 「父である」とは、子供の自由を願って、子供の命を望むことです。 それは子供に自分の選びを強制しない事です。 両親が自分の子供の最も正当な希望と期待を無視して、強制的に自分たちの意思を押し付ける事を、神は賛成されません。 神はイザクとご自分の息子イエスが生きる事を望まれ、私達の父である神はまた、すべてのご自分の子供があふれる命を持つように望まれます。 完全に自由にする為に、イザクを縛った綱をほどくアブラハムの振る舞いは、死の結びをほどかれたイエスの復活を思い出させます。

   タボールの山で、神は子であるとはどういう意味かを私達に教えます。 子であるとは、父である神のようにすることです。 それは命を与えること、つまり、何一つ余す所なく、無償で自分の命を与えることです。 そしてこの自己奉献こそ、100倍の命を与えます。 息子であるとは、父の愛を決して疑わない事です。 イエスは死ぬ為にエルサレムに上る事を自由に決められました。 しかしその前に彼は父の2人の友のアドバイスを望まれました。

   モーセは教え、エリヤは病人を癒しました。 イエスは癒し、イエスは教えます。 モーセとエリヤはイエスに自分の命を捧げる為に準備するように、父の愛についてイエスに何を言えるでしょうか。 どんな風にモーセとエリヤは死んだでしょうか?  モーセは「神の唇にあわせて」(申命記34章5節b) 死にました。 何故なら、神は「顔と顔を合わせてモーセを知られ」(申命記3410b)彼と共に「人がその友と語るように」(出エジプト3311節)話されました。 エリヤについては、彼は火の車に運ばれて死にました。(列王記下211)  二人とも約束の完全な実現を見る前に立ち去りました。 モーセは約束の地に入らなかったし、エリヤは回心した民を見ませんでした。 しかし二人とも立ち去る前に、一つの重大な事をしました。それは、モーセはヨシュアに、エリヤはエリシャに、彼らが受けた聖霊を伝えた事です。 イエスご自身もまた私達にご自分の霊を与えられるでしょう。 モーセとエリヤは彼らの命を民に与えました。 イエスはご自分の命を多くの人に与えるでしょう。

   イエスはご自分の使徒のうち、3人の前で2回、変容するのを望まれました。 タボールの山で、ペトロ、ヤコブ、ヨハネはイエスが光り輝く顔と衣服で神の栄光を身にまとわれるのを見ました。 オリーブ山では彼らは、血の汗で覆われた御顔と衣服で、世の罪をまとわれたイエスを見ました。 カルワリオの頂上では、イエスは裸で、お顔はいばらの冠で形が変わってしまい、御体は鞭打たれて裂け、手と足を十字架に釘付けられるでしょう。 しかし、彼はご自分を父の愛する子として啓示されるでしょう。 ユダヤ人の侮辱とあざけりに耐えながら、一人のローマ軍人はこの絶対的な真理「本当にこの人は神の子であった」(マルコ1539節)を宣言します。

   ペトロ、ヤコブ、ヨハネは何も分からず、沈黙で御変容の山から下ってきました。 後でかれらがカルワリオの山から下りてくる時、皆はまた沈黙で、物分りの悪い、鈍い心のままでしょう。  しかし最後にようやく彼らが悟る時、復活の証人となり、もはや彼らを黙らせている事は出来ません。 鞭打たれ、虐待されて、彼らは「私達は、見たことや聞いた事を、話さないではいられないのです。」(使徒言行録420節)と言うでしょう。

   この四旬節の時期に、キリストの十字架が私達の命であり、栄光である事をよく理解しましょう。 神の愛から私達を離すものは何もありません。 しかし、怖れることなく、死から命へと通り過ぎるために、神が私達に与えられた忠告を良く聞きましょう。「これは私の愛する子、これの言う事を聞きなさい!」  アーメン

      これはヘブライ語からの訳です。
   
モーセは神とキスすることで、永遠の命に入ります。
 雅歌 「どうかあの方が、その口のくちづけをもって、わたしにくちづけしてくださるように。」(12節参照)




                     四旬節第3主日     2009315

     出エジプト 20117節   1コリントの信徒への手紙12225節   ヨハネ21325

   イエスはユダヤ教の信徒です。 聖ヨハネは彼が巡礼の大きな祭りに参加していると、7回教えています。 神殿の広場には、供え物を捧げに来た人々のために、動物の商人がいます。 ある人は、心から神に感謝を捧げる為、また、他の人は神に赦しを願う為にここに来ました。 また両替屋もいます。 それは、エルサレムの神殿では、ローマのお金は受け取られず、イスラエルの人民のお金が使われたからです。 大抵の巡礼者は、世界中の色々な国から来ていました。

   この騒音の中で、イエスは鞭を準備し、お金を地面に放り投げ、台をひっくり返し、動物も、人々も含めて皆を追い出しました。 鳩の商人に対しては、イエスはもっと優しく扱った事に気付きます・・・ 羊を捧げられない貧しい人々にとっては、鳩が捧げ物です。 イエスは疑いもなく、かつて、マリアとヨセフが鳩を捧げて幼な子であった自分を買い戻した事も思いだしました。 このように、何時ものとおり、イエスは貧しい人に対するご自分の偏愛を示します。

   神殿を「商売の家」にした人すべてに非難を浴びせながら、イエスはゼカリヤとイザヤの預言を成就します。 「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。」(ゼカリヤ1421節)、「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ567節)と書いてあります。 最後に、イエスの荒々しさは、ある日、神殿を清めるために現れる厳しい人の突然の到来を告げている、マラキの預言(マラキ31節)を実現しています。

  しかし、誰もイエスの振る舞いも言葉も理解しませんでした。 人々はイエスに弁明する事を求め、イエスは謎をかけるような言い方で答えます。 「この神殿を壊してみよ。 3日で建て直してみせる」と。 ユダヤ人たちは「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは3日で建て直すのか?」と反論します。 イエスの言う神殿、それはイエスの体で、イエスご自身だと、ヨハネは説明します。 この神殿とは、自由に差し出されたご自分の体で、そこから、神に向かって捧げる言葉が昇っていきます。 「あなたは生贄も、献げ物を望まず、むしろ私の為に、体を備えてくださいました。 あなたは焼き尽くす献げ物や、罪を贖うための生贄を好まれませんでした、そこで私は言いました。『ご覧下さい。 私は来ました。聖書の巻物に私について書いてあるとおり、神よ、御心を行なう為に。』」(ヘブライ人への手紙10章5,6、7)と。

  しかし、今日神に向かって捧げる祈りがきこえてくる神殿は、キリストの目に見える体になるための、私達皆がここに集まっている共同体です。 使徒パウロと共に、次のように肯定することが出来ます。 つまり、神の現存の場所はキリストの体である教会で、キリストはその頭であると言うことです。(1コリント1227節参照) イエス・キリストを信じる一人ひとりのうちに神は現存しておられます。 聖パウロは「知らないのですか。 あなた方の体は、神から頂いた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。 なぜなら主があなた方の代価を払って買い取られたのです。 だから、自分の体で神の栄光を現しなさい、」とこのことを肯定しました。(1コリント61920節) 一つ一つのミサで、イエスの体とみ言葉を受けて、私達は神の住まいであるキリストの御体となります。 イエスは本当に「エンマヌエル」です。 つまり、私達の間におられる神、私達のうちに、また、私達と共におられる神です!

  キリストに続いて、教会と共に、私達は絶えず、世の不正義をあばきます。 しかし先ず私達は、神の現存の場所でなければなりません。 たしかに、私達の生き方は、救いのよい知らせを宣言するものです。 今日、私達が繰り返す間違えを直す努力をするために、また神の子としての真実性を私達が取り戻すために、これほどの怒りを示されたイエスをよく見ましょう。 私達の人生で、私達の家で、私達の体で、第一の場所を神に差し出すように努力しましょう。 「私は主、あなたの神・・・あなたには私をおいて他に神があってはならない」(出エ2023節) 主の復活に向かう私達の歩みの中で、私達の生き方、私達の心をよく掃除しましょう。 さもなければ、神は私達に「この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。 空しく私を崇めている」(マタイ158.9節)と厳しく言われるでしょう。 アーメン。

                  


                       四旬節第4主日      2009322

     歴代誌下361423節    エフェソの信徒への手紙2410節    ヨハネ31421

    ニコデモは、イエスに質問する為に、夜,秘かに訪れた著名なユダヤ人です。 イエスは真理について、新しく生まれる事について、永遠の命について、王国について、光と闇について話しながら、彼の数々の質問に答えます。 特に神がどのように人々を愛し、救う事を選ばれたかを説明しました。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 世を裁く為ではなく,御子によって世が救われる為に」と書かれています。 明らかにニコデモは、全然分かりませんでした。 特に、イエスが彼に、荒野において、モーセが上げた青銅の蛇についての話しを思い出させた時、全く分かりませんでした。 ニコデモは聖金曜日の夜になってから、カルワリオで十字架に上げられたイエスを見るために、彼自身が目を上げた時、ようやく理解するでしょう。 そしてイエスを墓に葬るときに、イエスの刑罰を受けた体を敬って、香料100リトラばかりを急いで持ってこようとしていました。(ヨハネ1939節参照)

   「このように人の子が上げられたのは、すべての人が、彼によって永遠の命を得ると信じるためです。」 こんなわけで、十字架に付けられたイエスを眺めて、完全な命を得るか、それともイエスを眺めるのを拒否して、その命を断るかです。 これは恵の神秘であると同時に私達の自由の神秘です。 聖パウロは「事実あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。 このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。・・・私達の行いによるのではありません」とはっきり認めています。(エフェゾ289節)

    すべては神から私達に来て、神が私達を愛していることを納得しなければなりません。 私達を愛そうと主導権を取られたのは、神、つまり神お独りです。 なぜでしょうか? 昔、ダヴィデは「あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう?」(詩8)と、既にこの質問をしました。 あまりにも偉大な愛の故に、神は絶えず私達の事を思われ、特に私達一人ひとりを心に留められます。 その事を知っているにもかかわらず、私達は神からなんと遠く離れていることでしょう!!! 然しながら、偶然、誰かが私達を心に留めていると知った時とか、または、確かに誰かが私達の事を考えていると知った時、私達は幸福になります・・・ どうして私達は同じ幸福を感じないのでしょうか! 神がもっともっと強く私達を愛してくださり、それも永遠の愛で愛してくださると言うのに・・・

   この救うという愛を信じるために、福音史家聖ヨハネが、十字架を眺めるように、しかも特に十字架につけられたイエスを眺めるように私達を招きます。 イエスが罪から私達を癒し、死から私達を引き離す為に、地上から引き上げられた時、マリアと幾人かの婦人とともに、十字架の足許に、ヨハネは唯一人いました。 彼らがその時見ているものに、皆ぞっとしていました。 この日から21世紀が過ぎました。 そして私達は十字架を装飾品としてとか、首にかける宝石として眺めるように習慣づけられました。  多分、私達が信仰、愛、感謝、礼拝の眼差しを持つためには、この眼差しを変える事が緊急の必要事ではないでしょうか? また、疑いもなく、私達の心を込めて、力と精神を込めて、神を愛するという望みを生き生きさせる為に、十字架の道行きの信心を、四旬節の間だけではなく、もっと度々行なう必要があるのではないでしょうか!

    今日、聖ヨハネは私達がイエスを愛し、礼拝する事を学ぶ為に、十字架上のイエスを眺めるように、招いています。 この救い主キリストに対する眼差しは、信仰の眼差し、私達の過ちに対する赦し、癒しと命を受ける事が出来ることから生じる愛の眼差しです。 イエスを眺めながら、私達の神は泣かれる神、苦しまれる神、私達一人ひとりの為に愛によって死なれる神である事を、更に非常によく分かることでしょう。 それは私達が神と共に永遠に生きるためです。

    このように、イエスの人生の頂点は十字架にあげられたことです。 しかし、この恐ろしい死によって、神の命は私達のところまで輝く光を放ち、私達の考え方、やり方の中にまで浸透します。 聖パウロが「私達は神の作品であり、私達が歩むべき道として、神があらかじめ用意してくださった善い行いをするようにと、キリスト・イエスのうちに造られたのです。」(エフェソ210節、フランシスコ会訳) この道は、私達をイエスにおける栄光へ連れて行き、この道は私達の復活と完全な命と充実した幸福です。   アーメン

  ちょうど聖体奉挙の時、ミサで聖変化したパンと葡萄酒を司祭が高く上げる事で、これを示します。



                       四旬節第5主日    2009329

   エレミヤ313134節   ヘブライ人への手紙579節   ヨハネ122033

    第1の朗読で聞いた回心についてのエレミヤの教えは、聖書の中で最も美しいものの一つです。 エレミヤはそれを行動の単なる変化として紹介するのではなく、心の深いところでの変化として紹介しています。 回心する人は、神ご自身が望まれる事をすべて自発的に望みます。 しかしこの心の回心を得るために、先ず、従順を学ぶ必要があります。 これはキリストご自身が御父のみ旨を成就する為に用いられた道です。 イエスは御父に完全に自分を委ねて従い、全く御父に依り頼んでいました。 彼の人生は完全に父を表明するものでした。 こういう理由から、御父がご自分の愛の確認の為に、または御父がキリストを見捨てる事がないと保障される為に、時々公にキリストに答えられました。

    ヘブライ人への手紙は、私達のために実際にキリストが生きられた託身、受難、復活を思い出させます。 私達を父のところへ連れて行くために、イエスは「激しい叫び声を上げ、涙を流しながら」 長い間祈られました。 イエスは「受難の苦しみによって、従順を学ばれ」ましたし、「ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源」となられました。 私達がまた、神の御手の内に、自分達の存在すべてを余す所なく委ねるために、一つの模範としてイエスが与えられました。

    福音のなかで、ギリシャ人がイエスに出会いたいと頼みます。 彼らはイエスと出会いますが、彼らが想像したのとは全く違った形で出会います。 なぜならイエスは彼らに十字架について教えを与えるからです。 神の限りない愛は十字架によってすべての人々に啓示されるでしょう。 イエスと本当に出会うために、皆、ギリシャ人もユダヤ人も、イエスが命を失うという、ものすごい心の動転を見なければなりません。 「今、私は心騒ぐ。 何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。」(ヨ1227節) 彼らは、命の泉である方の死、十字架に釘付けられて、すべての上に高く上げられた人を見るでしょう。 しかし、犯罪者として死んだイエスは、復活し、神の栄光のうちに挙げられるでしょう。 彼の許へすべての眼差しとすべての人類が引き寄せられるために・・・このように、神がご自分の住まいを建てようと選ばれたエルサレムの山の上に打ち込まれた十字架は、イエスが本当に神から遣わされ、預言者によって告げられた救い主であると啓示しています。

    私達、皆は命の最も重要な物事は苦しみと従順を通して理解するという体験をいつかするでしょうし、既にそれをしたかも知れません。 なぜなら私達もまた、イエスを見たいからです。 しかし残念ながら、私達が彼を見つけると考えた所で彼に出会いません。 イエスによって考え方は全くひっくり返ります。 例えば、屈辱は崇高さとなり、失敗は勝利となり、ローマ人の恐ろしい拷問の道具は救い、癒す愛の栄光の印となります。 そういうわけで、使徒パウロは「十字架に付けられたイエス以外の福音はありません」と宣言します。(1コリント1章23節、2章2節参照)

    しかし、イエスを見るだけで充分ではありません。 彼の受難は私達をイエスに従い、模倣するように招きます。 この呼びかけは度々福音の中から来ます。 十字架を背負って主の後に続いて歩まなければなりません。 キリストの道は下りがあってから後に高く昇って行く道です。 人類を救う為に、イエスは肉の内に下って、しもべとなり、私達の間に謙遜に来られ、最後の人となられました。 このようにして、主の復活に与る為に、主の死にまで従うように私達を招かれるのです。 それは刈り入れられるために、死んだ麦の粒になることです。

   実際、神の王国に入る唯一の方法は、地に落ちる麦の粒のように死ぬことです。 私達の人生を形作るものすべての種は、私達の死によって実を結びます。 それはまた、すべての喜びとなる満ち溢れる収穫の約束です。 私達の命と死を神の手の間に置きながら、ご自分の死によって、死に打ち勝たれたキリストと共に、私達は愛の完成に入りましょう。 これが今日、キリストが私達に思い出させる事です。 アーメン。



                受難の主日(枝の主日)   200945

    イザヤ5047節   フィリピの信徒への手紙2611節    マルコ15139

    私達はマルコ福音史家の証を聞いたばかりです。 伝統にしたがってマルコはゲッセマニの園にいます。 この人はイエスについてきて、自分が着ていた亜麻布を残して、イエスを捕らえにきた人たちから逃れるために裸で逃げていった青年です。 マルコはまた使徒ペトロの打ち明け話を受けた人で、彼らは長い間、一緒に福音宣教をしました。

     マルコは 他の福音史家たちが見落としている沢山の事を、細かい所まで覚えている証人です。 例えば、彼の話の中で、キレネのシモンの息子であるアレクサンドルやルフュスという、少ししか知られていない人物の名前が見受けられます。 マルコはまたバラバや彼の仲間とか、牢獄での彼らの監禁についてとかを、詳しく説明しています。

     マルコにおいては、イエスの裁判は、非常識な暴力の連鎖の中にイエスを巻き込んでいく、庶民的な裁判と変わりがありません。 しかし、マルコの話の中で心を打つことは、まず、イエスのなかにある孤独が、段々と深くなって、場所を占めていく事です。 苦悩が御父に向かう叫びとなっていく時、イエスの3人の友は深く眠り込んでいましたし、ユダの裏切り、ペトロの否認という打ち捨て、そしてすべての他の弟子たちの逃亡などが続きました。 最後に十字架上での最も残酷な孤独となります。 すべての人に捨てられ、イエスの苦悩の時にまさに不在のように思われる御父ご自身からも捨てられた時、イエスは「わが父よ、わが父よ、どうして私をお見捨てになるのですか?」と叫ぶほかありませんでした。

    この孤独に、イエスご自身の沈黙が加わります。 神のみ言葉であるイエスは黙られます。 イエスは聞こうとしない人々に何も言うことができません。 彼はユダに一言も言われません。 カイヤファの前で沈黙を守ります。 そしてピラトの面前で黙っています。 しかしながら、この孤独と沈黙は、イエスが絶え間なく愛のうちに御父と一致している事を示しています。 イエスはゲッセマニにおいて、「私が願う事ではなく、、御心に適うことが行なわれますように・・・」と言われました。 思いがけない二つの事は、それを証言しています。

   第一に、神殿の入り口の垂れ幕が上から下まで裂けたことです。 これは愛する御子の死を前にする、御父の苦しみの印です。 しかしそれはまた、神殿の真近い崩壊の印であり、特に、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁の破壊、 そして誰にでも神に近づく自由が与えられる印です。 このことは、第二の印である、ローマの百人隊長の「本当にこの人は神の子だ」と言う信仰宣言の中に、既に、具体的に実現しています。 十字架上で死に直面してあげられたイエスの叫びは、イエスが神の子であり、すべての人に与えられた救いの泉であることの啓示です。

   最後に、マルコはまた、とことんキリストの使徒である事の難しさを示します。 受難の話の間ずっと、マルコは私達に次の質問を遠まわしに投げかけます。 「君は、イエスの受難の出来事を聞いて、彼と一緒に歩む勇気があるか? 最後まで、彼の傍に留まる勇気があるか?」「この聖週間が君の生涯で最後の聖週間だとしたら、どんな風に過ごすつもりだろうか? 君は悲鳴を上げ、死を恐れるだろうか? または、世の救いの為に、イエスに一致して、君の命を捧げたいだろうか?」 アーメン。

           

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