グイノ・ジェラーラル神父の説教



C年 2018〜2019

待降節の主日



四旬節の主日





待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日
主の降誕 (夜中)
homelies


    待降節第1主日C年   2018122日    グイノ・ジェラール神父

            エレミヤ33,14-16  テサロニケ3,12-4,2  ルカ21,25-2834-36

   救い主を与えることによって、神は預言者エレミヤに約束した幸福の約束を実現しました。 この幸福は正義と平安、つまり平和と親密に結ばれています。 イエスは「平和の君」として全世界に正義と平安と幸福をもたらす人です。

  しかし福音を通してイエスは、苦難と不幸の時を宣言します。 太陽と月と星の中に現れる徴についてイエスは語ります。 この象徴的な話し方は、高慢と利己主義のうちに沈んでいる全人類に襲って来る不安をくつがえし、さらに不幸が私たちを襲って来る時の個人的な混乱を述べています。 ある徴は人々を恐ろしい苦悶に陥れ、他の人々は心の中に大きな希望を芽生えさせます。 私たちは、信頼を持って未来を見る人たちの数に、数えられますように。

   古代の人々は、太陽や月や星を生贄と供え物によって自分の味方にする神々だと考えています。 ですから、星が落ちるということは、異邦人の宗教の終わりを告げています。 イエスは、この偶像礼拝を終わらせるために来ました。 皆のためにご自分の命を捧げることによって、真の幸福はただ神のうちにあるということを啓示しました。 大切なことは、多くの物質的な物に偽りの安全さを保証することではなく、幸福の泉である神と強い繋がりを結ぶことです。

   キリストの教えは、希望の道を開きます。 現在の宇宙万物の終わりは、その破滅ではなく、むしろその完成です。 「身を起こして頭を上げなさい。 あなたがたの解放の時が近いからだ」とイエスは教えています。 もし、生活の煩いで私たちの心が鈍くならないなら、また、もし私たちが目覚めているなら、新たにされた命への希望を落ち着いた心で養い育てることができます。 もし絶えず祈ることができ、パウロが勧めているように、満ち溢れる愛のうちに豊かに生きる事ができれば、私たちは何も恐れる必要がありません。

   様々の困難と試練の中に置かれているとき、立っていることが難しくなります。 また容易に絶望の状態に陥ってしまいます。 その為に絶えず祈ることをイエスが願っています。 祈りのお陰で、起こって来る出来事を新たにされた眼差しで見ることが出来ます。 また、祈りは私たちを困難や試練の中にいる人々と一致させ心の中に希望を生み出し、そして赦す心と愛し続ける心を豊かに与えます。

   待降節第1の日曜日と共に新しい典礼的な年が始まりました。 この新しい年は、希望の扉を開き、そして私たちを支え変化させるために、イエスは私たちの間におられることを思い起させます。 イエスは私たちと共に宇宙万物を完成まで導きたいのです。 今日、イエスの御言葉と彼の御血と御体によって、私たちを養いながら私たちのうちにおられるイエスの現存を祝いましょう。 父なる神が私たちに与えたい終わりのない幸せと共にクリスマスの光を受けるために、私たちの心の準備をしましょう。 アーメン。


            待降節第2主日  C年  2018129日    グイノ・ジェラール神父

                     バルク 5,1-9  フィリピ 1,4-5,8-11  ルカ 3,1-6

   紀元 28年に皇帝ティベリウスと支配者たちは世界を統治していました。 エルサレムの大祭司たちが自分たちの権力を振るって、イスラエルの民を支配している時に、ヨハネと呼ばれている人が現れてきました。 彼は聖霊で満たされ、神の言葉を延べ伝えていました。

   皆に立ち向かって、洗礼者ヨハネは世界が逆転することを告げます。 「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。 曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになる」と。 世界の支配者たちが全く実現することができないことをヨハネは約束します。 確かに、皇帝であっても、支配者であっても、世界のおもてを変化させ、すべての谷と山と丘、曲がった道やでこぼこの道をなくすことはできません。 なぜなら、世界の地理を変化させ、新たにすることは神しかできないからです。 ですから、神の全能の前ですべての支配者の頭が下がらなければなりません。

   皇帝ティベリウスの治世から2000年が過ぎたにも拘らず、洗礼者ヨハネの約束は地理の面ではまだ実現されていないと思われます。 しかし、神の言葉は私たちの内に実現されています。 洗礼者ヨハネが約束した、世界の逆転は人の心の中に行なわれています。 確かに神の言葉は私たちが持っている恐れと苦悶の谷を埋めます。 神の言葉は私たちの心にある高慢と虚栄の山、偽善の丘を低くします。 また神の救いが私たちの内に実現されるように、神の言葉は曲がった考えと行いを真っ直ぐにし、人を傷つけるでこぼこの悪い言葉を平らにします。

  日常生活のでこぼこの道に躓いている人々に、神の言葉は開放をもたらします。 解決のできない状態に足踏みする人々や、絶えず同じ問題とぶつかって行き詰まっている人々に、神の言葉は救いをもたらします。 試練の山が人生の地平線を隠し希望の光を奪う時、あるいは落ち込んだ状態の谷を歩む時、または無理解の山と無関心の丘が毎日の風景になっている時、私たちを助け強めるために神の言葉が与えられています。

   神の言葉は、洗礼者ヨハネと同じように私たちを砂漠に連れて行きます。 と言うのは、この砂漠で神は親しく私たちの心に語りますから(参照:ホセア 2,14)。 神の声を聞くことは肝心なことです。 神の言葉を聞き受け止めるのは、力を超える協力をすることではありません。 なぜなら、神は無理なことを願いませんから。 必要なことは、ただ回心することだけです。 言い換えれば自分から離れて、神に自分のすべてを向わせることです。 神への信頼は救いの入り口です。

   ですから、この待降節の間に神が親しく私たちを導くことを承諾しましょう。  命と自由である神の言葉によって私たちが形作られ、新たにされることを心から望みましょう。 「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と洗礼者ヨハネは宣言しました。 クリスマスの貴重な恵みがすべての人に与えられるように、切に祈りましょう。

   イエスはすべての人の救いのためにこの世にお生まれになります。 ですから預言者バルクと声を合わせて神に向かって絶えず祈り願いましょう。 つまり、「神がこの世界の悲しみと不幸の衣を脱ぎ、ご自分の栄光で飾り、そして永遠に正義と平和の衣で包めますように。 そうすれば、すべての人は神の栄光に包まれ、安全に歩むことができるでしょう」(参照:バルク5,1-7)。 アーメン。



             待降節第3主日   C年  20181216日   グイノ・ジェラール神父

                     ゼファニア 3,14-18  フィリピ 4,4-7  ルカ 3,10-14

   今日の第1朗読と第2朗読は、待降節の第3の日曜日の特徴である「喜び」を迎えるように私たちを誘っています。 「皆さん、主において常に喜びなさい」と聖パウロは勧めています。 預言者ゼファニアは全面的にその喜びを表すように私たちを招きます。 「シオンの娘よ、喜び叫べ。 歓呼の声をあげよ。 エルサレムの娘よ、心の底から喜び躍れ」と。

  「シオンの娘」、「エルサレムの娘」というのは、エルサレムの新しい地区であり、そこには紀元前7世紀に、サマリア地方の破滅を避けることができた、ほんの少しの人々が住んでいました。  彼らはとても貧しいので、預言者ゼファニアは神の内に信仰と希望を置くように誘います。 神は貧しい人の側に立つので、必ず彼らの助けになります。 神は貧しい人の喜びになりたいのだと預言者ゼファニアは保証します。 「イスラエルの王なる主はお前の中におられる。 主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のために喜びの叫びをもって楽しみ躍る」と。

  私たちも神の喜びの泉になるように招かれています。 聖パウロはフィリピの信徒への手紙を通して、聖霊の現存の印と共に、それらに伴う深い喜びを歓迎するように私たちを誘います。 「主において常に喜びなさい。 重ねて言います。 喜びなさい。 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。 主はすぐ近くにおられます」と。

  洗礼者ヨハネは、すべての人の喜びの泉となる救い主の到来を告げます。 というのは、洗礼者ヨハネは自分の方へ来る人々を喜びの道に導く使命を受けているからです。 天から降ってくる子の喜びを受け止めるために、それぞれの人が自分の心の準備をするように招かれています。 神が与える喜びは「完全であり、 誰もそれを奪うこともできない」(参照:ヨハネ16,2422)、そしてこの喜びは私たちのために神を躍らせます。

  キリストの喜びは、人が普通に感じる喜びとまったく違うものです。神の喜びはとても深いものであり、「自分の内に神がおられる」(参照:ゼファニア)あるいは「キリストが直ぐ近くにおられる」(参照:パウロ)ことに気付くキリスト者は、それを味わいます。 キリスト者は酷い状態の中に置かれても、心の中に自分を支え、強める深い平和と喜びを保っています。 ですから、恐れずに喜びましょう。 主は来られます。 主はすぐ近くにおられます。 アーメン。



          待降節第4主日 C年  20181223日   グイノ・ジェラール神父

                   ミカ5,1-4   ヘブライ10,5-10   ルカ1,39-45

  ご自分の子イエスがいつ、何処で生まれるかを決めるために神は長い間思考しました。しかし、キリストの誕生の場所と歴史的な状況が私たちを惑わせます。なぜ、神はもっと良い場所や安全な時を選ぶことができなかったのでしょうか。

  キリストの生まれる場所は、エルサレムの都でなく、金持ちの別荘でもなく、むしろ小さな村の飼い葉桶の方が良いと神は決めました。ベツレヘムの羊飼いたちだけが生まれたばかりの救い主を仰ぎ見て拝むことができました。なぜでしょうか。そして、貧しい大工ヨゼフがイエスを守り、育て、教育する責任を受けました。なぜ有名な律法学者ではなかったのでしょうか。イエスの誕生のために選ばれた貧しさと貧困の状態は、永遠の昔から選ばれて、私たちに対する神が持つ愛を表しています。このようにして人生の困難の中にいる人々と、乏しさを味わっている人々に対して、神はご自分への信頼を示しておられます。なぜなら、貧しさはいつも神の愛の豊かさを引き寄せるからです。

  長い救いの歴史の中で、貧しい人や謙遜な人は、全人類が贖われるための歩みの段階を定めました(例:ノア、アブラハム、モーゼ、ダビデ、預言者たちなど)。神は彼らに対するご自分の信頼を示したのです。明日、そして来るべき2週間を通して私たちの救い主、私たちの贖い主であるイエスの誕生を歓迎して、祝うことで私たちも同じ信頼を持ち、表すように召されています。  神が約束したことを不思議なやり方で行うことを大いに喜ぶように、今日、マリアとエリザベトは私たちを誘っています。

 マリアとエリザベトの心を満たした聖霊は、私たちの心も完全な喜びで満たしたいのです。なぜなら、明日私たちはイエスとその家族を訪問するからです。マリアのエリザベト訪問は、クリスマスの夜にどんな素晴らしい喜びが与えられているかを私たちに教えています。

 神の愛は主を畏れる者におよびます。私たち一人ひとりに神から愛される特権が与えられています。ところで、私たちはこの良い知らせを宣べ伝えるために、知り合いの人々や神を知らない人々を、クリスマスのミサ祭儀に参加するように誘ってみてはどうでしょうか。明日、クリスマスの夜。必ず友だちや知り合いの人々が私たちと共に神を礼拝し、賛美するように、信頼と勇気を出して、また工夫して一緒に主の誕生日の喜びを味わいましょう。そうであれば、きっと「あなたがたが私たちのところに来てくださるとは、なんという幸せなことでしょう」とイエスもマリアもヨゼフも言うに違いありません。

  聖霊が私たちの心に信仰や希望や喜びを注ぐように神に願いましょう。イエスは私たちを救うために明日お生まれになります。神の愛と慈しみが全世界を包むので、私たちがその出来事の証人となり、喜びで輝いている人となりましょう。アーメン。



          主の降誕(夜半のミサ)  20181224日   グイノ・ジェラール神父

                   イザヤ 9,1-35-6  テトス 2,11-14  ルカ 2,1-14
 
  今から2000年前に一人の子供が生まれたので、私たちは今夜クリスマスを祝っています。紀元1世紀に不思議な現象が起こりました。人々は神に愛されていることを信じました。この発見が全人類を古代から現代に、また神々を恐れていた異教から父なる神を愛するキリスト教へ移しました。「人が個人的に神から愛されている」ことを信じ、確信をもって宣言する宗教はキリスト教だけです。更に、恐れずに神の命に親しく生きることができることを知っている人は、キリスト者だけです。今夜、私たちは神に愛されていることと、神を愛することを喜びのうちに祝っています。

 クリスマスは、神に愛されていることを再発見することです。私たちは神の似姿に作られているので、神は私たちと同じ姿になることを望んで、マリアから生まれ、罪の他はすべてにおいて私たちと同じように生活しました。そういう訳で、人間の命は神の命に等しいのです。ベツレヘムに生まれたイエスは私たち一人ひとりに「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛しています」(イザヤ43,4)と打ち明けます。イエスの誕生の時から、ご自分の永遠の愛に私たちを引き寄せるために、神は親密に、また目に見える姿で、人間の歴史の中に入りました。

  キリスト教の信仰の第1の柱は、神が私たちを愛していることを知ってそれを宣言することです。「人間が神になるように、神は人間になりました」と、司教アタナジオは教えています。人間と神の間に、キリストの存在に結ばれた愛の契約があります。神によって私たちが生きるように、キリストはご自分の命を献げました。イエスの誕生と死は神の親密さの内に全人類を引き寄せ、神の神聖に与らせます。

  キリスト教の信仰の第2の柱は、キリストの復活です。復活したイエスは神が私たちの内に生きていることを教えています。キリストを信じる私たちは聖霊の神殿となって、神の現存が私たちの内に絶えず成長するように霊的な食べ物として、キリストの御体と御血をいただきます。インマヌエルとして、神は私たちと共に、私たちの内におられます。イエスはそれをはっきりと教えました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17,21と。確かに神は私たちの内におられます。私たちの心の奥深くで神は私たちを待っています。ですから、永遠の昔から全人類を愛してくださる神を私たちの心の奥深くに探しましょう。今夜、神は天の平和と喜びで私たち一人ひとりを満たしたいからです。

  昔預言者イザヤは、神の愛を告げました。「ひとりのみどり子がわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた…万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザヤ9,5-6)と。ベツレヘムの夜にイザヤの預言が実現されました。母マリアは約束された子に命を与え、天使たちは声を合わせて歌います。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。ベツレヘムの羊飼いたちは幼きイエスと出会って後、もとの羊の群れの傍に戻りましたが、彼らの心の中の何かが変わりました。救い主を発見するために天使によって誘われた羊飼いたちは、神が自分たちを愛していることと同時にそれを最初に知るのは自分たちだと発見して、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。

  イエスを礼拝しながら、今夜私たちも自分の内に注がれている神の愛を発見しましょう。この愛は私たちを悪から守り、救い、また罪の赦しをもたらします。イエスに倣って(マタイ11,9)私たちも心の謙遜な人、心の柔和な人となりましょう。そして平和と喜びが与える神の愛に永遠に生きるように召されているから、絶えず賛美の歌で神に感謝しましょう。アーメン。



            聖家族 C年   20181230日  グイノ・ジェラール神父

            サムエル上1,20-2224-28  1ヨハネ3,1-221-24  ルカ2,41-52

  イエスとマリアの保護者であるヨセフは沈黙の人です。 彼の口から出た言葉は一つも知られていません。 ヨセフという人は敏感な感性を持ち、精力的であり、積極的に決断する人です。 ヨセフはユダの部族に属し、ダビデ王の子孫です。 「その子をイエスと名付けなさい。 この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1,21)という天使の勧めに従い、イエスに名前を与えることによって、ヨセフはイエスをダビデの系図に入れました。 ヨセフはナザレに住み、大工として働き、後に自分の仕事をイエスに教えました。 ナザレの人々はイエスについて話すとき「この人は大工の息子ではないか」(マタイ13,55)、または「この人は、大工ではないか。 マリアの息子です」(参照:マルコ6,3)と言っています。 ヨセフは天使の忠告を受けて「夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」(参照:マタイ2,14)イエスの命を守りました。 「天と地に対する『父性の源』と呼ばれる」(参照:エフェソ3,15)イエスの前で、ヨセフはいつも謙遜で目立たず忠実な父親でした。 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(参照:ルカ2,49)とイエスが自分は神の子であることをはっきり言ったので、父親ヨセフは神から委ねられた使命を全うして静かに退きました。

  イエスの母マリアも沈黙の方です。 私たちは彼女の数少ない言葉を知っています。 マリアは心でよく聞くので、自分の人生の中で「代々に限りなく、主を畏れる者に注がれる神の愛」(参照:ルカ1,50)を発見することができました。 私たちのためにイエスを産んだ後、マリアは「その子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせました」(参照:ルカ2,7)。 イエスが生まれたベツレヘムの村の名は「パンの家」を意味します。 ユダヤの伝統に従って布にくるまれたイエスは、まるで生きたパンのようです。 そして、イエスは飼い葉桶に置かれると既に私たちを養うパンとして示されています。 母としてマリアは日常生活のすべての出来事を思い巡らします。 謙遜で貧しいマリアは、産んだ自分の子の運命を邪魔しないことを承諾しました。 ちょうど昔、幼いサムエルに対して母であるアンナが行なったように、マリアもイエスが「生涯にわたって主に委ねられた者」(参照:サムエル上1,28)となることに同意しました。 聖霊で満たされたマリアは十字架の下で「剣で自分の心を刺し貫かれるときに自分の母性が完成することを悟りました」(参照:ルカ2,35)。 マリアはいつか全人類を自分の子どもとして受け入れることを予感しました。 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19,26)と。 イエスの母マリアは、私たちの母でもあります。

  イエスはヨセフから自分の名を受けました(参照:ルカ1,31)。 ナザレで過ごした子ども時代にイエスは家族の親密さを味わいながら、父なる神を「アッバ」と呼ぶ親しい関係を結ぶことを少しずつ学びました。 イエスは両親の教育を受けますが、神の救いの計画を実現するために、即ち「多くの兄弟の中で長子となるために」(参照:ローマ8,29)イエスは両親に対して自由な態度をとりました。 エルサレムの過越祭のときに12歳になったイエスは自立を宣言します。 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(参照:ルカ2,49)。 また、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4,34)と。

  今、イエスの家族について語りました。 なぜ、この家族は聖家族と言われているのでしょうか。 ヨセフは愛と慈しみをもって、まずマリアのうちに、次にキリストのうちに実現されている神の神秘を認め、謙遜に尊敬し、どのように実現されるかを見守りました。 マリアはヨセフを愛しながら、謙遜に彼の保護のもとで生きることを承諾しました。 ヨセフの愛に支えられ、マリアは神の救いの計画を理解し、受け入れてイエスを大切に育てました。 イエスはヨセフとマリアの愛に支えられ、自分のうちに神が置かれた召命と使命の恵みを発見しました。 神の前に生き、そのみ旨を行なったヨセフ・マリア・イエスは模範的な聖家族です。 信仰のうちに「わたしたちは、既に神の子である」(参照:1ヨハネ3,2)ことを再発見しましょう。 私たちもまた神の前に生き、そのみ旨を行うことによって聖なる家族となりましょう。 私たち一人ひとりが、ヨセフ・マリア・イエスの家族から助けと執り成しを受けるように祈りましょう。 アーメン。





               トップページに戻る