グイノ・ジェラール神父の説教

 

2024年 

B 年

年間の主日 

第2~第12まで



   

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          年間第2主日    B年  2024114日     グイノ・ジェラール神父

            サムエル記上3,3-1019   1コリント6,13-1517-20   ヨハネ1,35-42

  今日、典礼は私たちに神に出会う方法を教えています。最初の朗読では、若いサムエルの召命について語られています。サムエルは聞く心を持っていたので、神の言葉を聞くことや言われたことを理解することができました。聖パウロはコリント人への手紙の中で、私たちの命を神の命と結びつけ、私たちを神の栄光の住まい、聖なる神殿にしてくれる神秘的な絆について語っています。私たちは、具体的な生活を霊的な生き方と調和させることによってのみ、神に近づき神に出会うことができます。 最後に、イエスに質問し、そのみ言葉を聞き、イエスに従うことによってこそ、私たちはイエスが御父のうちに留まる場所を発見できることを聖ヨハネは今日の福音書を通して示しています。

 祭司エリヤは、サムエルに神と出会う道を示しました。洗礼者聖ヨハネは、アンデレとヨハネにイエスに従うように勧めました。聖ヨハネは、イエスの弟子になる方法を私たちに教えています。聖ヨハネは福音書の中で、信仰の旅路を表す多くの動詞を使用しています。私たちは「イエスに尋ね、従い、聞き、見て、共に歩き」、そして最終的には「共に留まらなければなりません」。しかし、これらすべての中で最も重要なことは、神に会いたいという私たち自身の願望です。イエスは私たちに教えています。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(参照:ルカ11,10)と。神に飢え渇くなら、私たちは満たされる、とイエスは保証します。

 若きサムエルはエリヤを信頼し、アンデレとヨハネは洗礼者聖ヨハネを信頼しました。ですから「来て見なさい」と言って自分に従うように私たちを招いてくださるイエスを信頼しましょう。イエスは私たち一人ひとりに、自分の命を分かち合い、共に留まるように勧めておられます。イエスはまた、ご自身と御父とのこの神秘的な結合を、私たちが自分自身の中に受け、歓迎するように勧めています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(参照:ヨハネ15.4参照)と。

 私たち自身よりも私たちにとって、もっと親密なイエスを外に求める必要はありません。聖アウグスティヌスは有名な「告白」の本の中で、このことを証言しています。「主よ、あなたはわたしのうちにおられたのに、私はあなたを外にさがしていました」。 確かに、イスは私たちの日常生活の中で私たちと共におられ、そこで私たちがイエスを探し、見つけることができるのです。

 しかし、それができるには、私たちは神の言葉に耳を傾け、それを心に留めておくことが必要です。 実際、今、私たちの心の奥深くに神が留まり、そこで神は私たちと出会っているのです。 神の言葉が私たちの心を満たすなら、イエスがペロに目を注がれたように私たちを優しく見て、私たちの人生全体を変えさせ、生き生きとしたものとするでしょう。そうすれば、イエスは私たちの内に留まり、私たちを自分の現存の聖なる神殿にしてくださいます。

 兄弟姉妹の皆さん、私たちはまさに神の住まいです、と同時に神のうちに住むように招かれています。 聖ペロは、私たちが「イエス・キリストを通して神に受け入れられる霊的な犠牲をささげるために、霊的な家、聖なる祭司職を形成するために建てられた、生きた石である」(参照:12,5)ことを私たちに確認しています。 したがって、増々強く一致することによって私たちが神から決して引き離されないように、お互い祈りいましょう。アーメン。

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            年間第3主日   B年    2024121    グイノ・ジェラール神父

             ヨナ書3,1-510      1コリント7,29-31     マルコ1,14-20

 今日の3つの朗読は回心への呼びかけであると同時に、神の足跡に従うことへの招きでもあります。回心は私たちの信仰を支え、福音に基づいた生活を築くのに非常に役立ちます。確かに、イエスを信じて従うことは、放棄なしには成り立ちません。ペロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは神の国の喜びに満ちた証人になるために、自分たちの仕事を捨てました。預言者ヨナは、神から託された使命を遂行するために自分が抱いていた不満や機嫌の悪さを忘れてしまいました。聖パウロは、絶えず移動を続けて、復活したキリストを信じた人々を励ますために色々な場所へ行きました。

 預言者ヨナ、聖パウロ、イエスも、神の王国が到来しているので、それを邪魔するものを退ける急務があると私たちに納得させようとします。確かに、この王国を歓迎することが急務であり、私たちはこの呼びかけを真剣に受け止めなければなりません。実に、私たちが今と同じように生き続ける限り、イエスが約束した新しい世界を見、そこに入ることは決してありません。一体、 私たちの人生において、今日私たち一人ひとりにとって、最も重要なことは何でしょうか? という質問を自分自身に問いかけてみましょう。神が最初に指定されなければ、神の王国は依然として私たちから遠く離れています。 ニネベの住民のように、危険、病気、試練の脅威にさらされて、神に立ち返るのを待つのはやめましょう。

 ペロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、自分たちを呼び寄せたイエスに、「ちょっと、待って、まず自分たちの仕事を終わらせるようにさせてください」と言うことができたでしょう。しかし、彼らは仕事よりも大切なものがあると理解していたので、そういう願いを出しませんでした。実を言えば、イエスとの個人的な出会いは、彼らに自分たちの世界が近いうちに変わることを確信させました。彼らにとって最も重要なことは、神の王国と神の統治を歓迎し、宣言し、推進することでした。

 今日、主は私たち一人ひとりに同じ呼びかけを与えてくださるのです。イエスは私たちに、出来事や人々に対する自分の見方を変えるように求めています。神が私たちの近くにいて、私たちが住んでいる世界を変えるのを助けてくださっていることを発見するために自分たちの目を大きく開きましょう。回心するということは、有益で必要なものからも目を背けることです。 問題は、私たちが何を捨てるべきであるかと言うことは分かっていますが、神の選択が私たちに何をもたらすのかを全く知らないことです。そのため、私たちを呼んで誘ってくださる神に完全な信頼を持たなければなりません。結果として、回心が私たちの信仰を支え同時に私たちの希望を強めます。神を信頼するということは、実際には神に愛を示すことを意味します。

 神の王国に向かって、イエスの福音を信じることは、神との個人的な絆の世界を私たちにもたらします。この新しい世界で、神の愛によって仕事、家族、人間関係など、他のすべてが平和的によく組織されています。私たちが今日歌った詩編の言葉が、私たちの祈りと、キリストの証人としての使命をよりよく果たそうとする願いの導きとなりますように。「神よ、あなたの道を示し、その小道を教えてください。あなたの真理のうちに、私を導きさとしてください、あなたは私を救ってくださる神だからです」(参照:詩編25, 4-5)。アーメン。

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        年間第4主日  B年 2024128  グイノ・ジェラール神父

         申命記18,15-20        1コリン7,32-35      マルコ1,21-28

 聖書の預言者は、自分の口と声を神自身に貸す人です。もし彼が自分の名前で語れば、彼は死の危険を冒す偽預言者となってしまいます。したがって、真の預言者は、神の言葉以外のことを語ることが決定的に不可能な状態にあります。彼の人生は完全に神に依存しているからです。神ご自から離れると預言者は死ぬと神が忠告しました。

 
福音書の中で、イエスに直面した悪霊が叫び始めます。悪霊は、真実を語っているかのように見えますが、彼の発言は神の言葉とは程遠いものです。実際、悪霊はイエスが誰であるかを明らかにすることによって、イエスを操作しようとしています。 これが、イエスが悪魔に沈黙を課した理由です。イエスの言葉は真実であり、ご自身が言われることを実現し、権威をもって語られると聖マルコは述べています。イエスは当時の律法学者とは比較にならないでしょう。律法学者は自分の言葉と聖書の知識を利用して自分自身を宣伝し、立派に見せようとします。しかし、イエスは神だけを示し、人々を悪とあらゆる病気や災いから救い出すことで彼らを神のもとへ導きます。

 イエスの権威には謙虚さが染み出ています。彼の権威は自由をもたらし、人を成長させます。イエスには下心も妥協もありません。イエスの話を聞く人々はそれをよく分かっています。彼らはイエスが真実を語っていることを知っており、イエスが確かに神から自分たちに遣わされたのだと感じています。自分のような預言者の到来を神の名において約束したモーセの言葉を、きっと多くの人は、覚えているに違いありません。イエスは、まさに神の言葉を口にしたモーセに似た預言者です。さらに、イエスは神の言葉を宣べ伝えるだけではありません。イエスは受肉した神の言葉です。イエスは、ご自身を通して、すべての人に与えられる神の救いの良い知らせであることを明らかにできる唯一のお方です。

 イエスの言葉が私たちの心に受け入れられれば、私たちは「ひたすら主につかえる」ことができると、聖パウロは今日私たちに保証します。イエスの権威は神の無限の慈しみと神の愛の強さを表しています。愛はまた、私たちを解放し救うためにイエスが用いられる唯一の力でもあります。したがって、人々が驚いて、「これは権威ある新しい教えだ」と言うのは当然です。

 
イエスが肉となった神の言葉であることを信じるなら、私たちはイエスに導かれることを受け入れなければなりません。イエスの権威の下に身を置くということは、他のすべての力から徐々に自由になることを意味し、「神の子の自由」を享受(ちゅうじゅ)し、その体験をすることになります。イエスは私たちにご自分に従うことを決して強制しません。イエスはただ、私たちが完全な信頼を持ってご自分に服従することに同意することを望んでいるだけです。そうすることでイエスは私たちを癒し、解放し、救うことができるからです。イエス望みに答える知恵と決意が私たちに与えられるように聖霊に切に祈りましょう。アーメン。

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      年間第5主日 B年  202424日  グイノ・ジェラール神父

            ヨブ記 7,1-7    1コリント9,16-23     マルコ1,29-39

  世界の始まり以来、どれほど多くの男女がヨブのように苦しみに直面して絶望の声を上げてきたことでしょう。彼らはみな、なぜ神は自分たちが試練に直面していても、沈黙し、耳が聞こえないのか疑問に思いました。神のこの無関心は彼らに衝撃を与え、しばしば信仰から遠ざけてしまいました。

  しかし、神は苦しんでいる人々に対して無関心ではいられないということを、イエスは私たちに示し、証明してくださいました。それどころか、神は苦しんでいる人を癒し、彼らの苦しみを自ら引き受けます。傷ついた羊や弱った羊を肩に負う良い羊飼いのように、神は私たちを肩に担ってくださいます。「慈しみの年」のロゴはこれを明確にしました。人々を癒すとき、イエスは語るのではなく、行動します。イエスはペトロの姑の手を取り、彼女を立ち直らせ、癒されました。イエスは一言も言わずにヤイロの娘とナインの未亡人の息子に触れ、彼らに命を与え、よみがえらせました。神の愛と慈しみを表現するのに言葉は必要ありません。神は耳が聞こえず、口がきけないわけではありませんが、人々の苦しみを見て言葉を失います。神には人々の苦しみの叫びが、ご自分の心の奥深くまで届きます。

 イエスにおいて、神はこれまで以上に人間に近づいたのです。イエスの唯一の目標は、人類を癒し、慰め、希望と命を与え、救うことです。イエスが夜に長く祈るのは、朝が来たときに、ご自分の元に来るすべての人に対して愛の力と慈しみをもって行動できるようにするためです。こうしてイエスは私たちが従うべき模範となりました。救い主キリストと真に結ばれているすべてのキリスト者は、美しい言葉だけではなく、具体的な行動を通して、困難に直面している人々を助け、慰める義務があります。残念なことに、多くの場合、私たちはそれを行う勇気がなく、神が私たちに代わってこの働きをしてくれるのを何もせずにじっと待っています。

  充分な時間をかけて祈らなければ、自分の周りで苦しんでいる人たちを助ける正しい決断を下すことはできません。祈りの時は、私たちの存在が神と深く触れ合う貴重な瞬間です。その時に、神は私たちに何をすると役立つかを教えてくださいます。この親密な交わりを聖パウロは「信仰による従順」(参照:ローマ人への手紙 1.5)、聖ヨハネは「父との交わり」(参照:ヨハネの手紙一 1.3 )と呼びました。信仰の従順とは、命じられたことを行うことではなく、単に神が望んでいることを望み、実行することです。 これは祈りを通して神と個人的に出会うことによってのみ達成できます。この出会いは私たちの言葉や行動を豊かにし、苦しみを変容させ、癒してくれます。

  イエスと聖パウロの模範に倣い、私たちも「最も多くの人を癒し、救うためにすべての人の僕」(参照Ⅰコリント919)となりましょう。私たちがこの救いの使命を忠実に果たすことができるために聖霊が助けてくださいますように。アーメン。

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      年間第6主日   B年  2024211日   グイノ・ジェラール神父

           創世記3,16-19    1コリン10,33-11,1    マルコ1,40-45

 「私はキリストを見倣っています」と聖パウロは宣言します。これはキリスト教の独創性であり、イエス自身成功した人間の生き方として理想とすることです。信じる人々を「キリスト者」と呼ぶのはこのためです。イエスは人間の間で差別をせず、誰も排除しませんでした。すべての人に、イエスがもたらす救い、そしてイエスの励まし、慰め、赦し、そして時には咎めや非難の言葉を受ける可能性を与えられています。

 聖パウロは自分自身について話したときに、キリストが完全に達成したことを明確に定義しました。そういう理由で、聖パウロはイエスを見倣おうとするのです。「実は、私も多くの人々が救われるために、自分の利益ではなくその人の利益を求めながら、すべてのことについてすべての人を喜ばせるために努めています」と。現代私たちの世界ではあらゆる種類の差別がおこなわれ続けています。それらは経済的、文化的、社会的、地理的、宗教的、政治的、道徳的、医学的などすべてにわたってです。この状況において、キリスト者である私たちにとって、寛容の雰囲気を示すことは難しくなり、それが誤解され、悪く解釈される危険もあります。

 私たちがイエスを模範とすることができるのは、イエスのいつくしと憐れみのまなざしです。今日の福音は「イエスは、憐れにおもっていた」と語ります。ご自分の内に働いている愛の力のおかげで、イエスを動揺させたり、怖がらせたり、嫌悪感を抱かせるものは何もありません。

 律法が健康な人に近づくことを禁じている人や不潔な者とみなしている人たちにさえ、イエスは手で触れます。「私はそれを望む。清くなれ」とイエスは言いました。これらの言葉の単純さの背後に、神の命と聖性をすべての人に伝えたいと願うイエスの完全な慈悲と慈しみを私たちは感じます。

 受肉の神秘を通して人間になったイエスは神の命の担い手となります。ある意味、イエスは神と人間との出会いの偉大な秘跡であり、確かに他のすべての秘跡はそこから有効性を引き出します。イエスは私たちに語りかけ、触れ、清め、癒し、救ってくださいます。イエスは真理への道であり、神がすべての人に与えたいと望んでおられる命です。 ですから私たちは、イエスの愛が力強く聖性をもって私たちの内に働くように、父なる神に切に願いましょう。また、私たちがイエスに倣い、イエスが私たちを愛してくださるように愛することができるように、神に熱心に求めたいと思います。

 福音の宣言は、騒音や誇示によってではなく、思いやりと相互扶助の単純な行為によって行われます。「キリストに倣う」という書物は、キリスト教文学の中で重要な位置を占める本です。15 世紀前半に修道士トーマス・ア・ケンピスによって書かれたこの小さな本は、霊的な生活を深めたいと願うキリスト者たちによって何世代にもわたって読み継がれ、思索されてきました。この本はこんにちでも私たちの多くに、とても役に立つ本です。ですから、キリストを見倣いながら、私たちが謙遜に、癒し、救い、命を与える神の手とな、また神の慈しみに満ちた眼差しとなるように教えてくださる聖霊の助けを絶えず求めましょう。アーメン。

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       年間第10主日 B年  202469日    グイノ・ジェラール神父

         創世記 3, 9-15    2 コリント 13 5,1    マルコ 3, 20-35

 今日の福音は三つの部分から構成されています。 マルコは、続く最初の章と三番目の章の間に、律法学者たちとの議論を導入しました。 イエスと弟子たちが集まっている家は群衆でいっぱいになっていますが、イエスの親戚の人たちと律法学者たちは家の外に立っています。

 イエスの親戚の人たちと律法学者たちは、イエスがどんな人なのか全く理解していません。 親戚の人たちにとっては「イエスは気が変になって」、正気を失い気が狂っています。律法学者たちにとっては「イエスは悪魔に取り憑かれています」。 この無理解の状況の中で、イエスは、自分に従う者たちが彼の真の家族であると断言し、自分の使命達成を妨げる者たちは聖霊に敵対していると宣言します。

 律法学者たちはイエスの教えと行いに当惑して、わざと頑固な無理解に陥ります。 この無理解により、彼らは知恵を照らすことができるイエスの教えを受け入れることができなくなります。律法学者たちはイエスを悪霊だと決め、つまり悪を行う者とし、非難することによって、イエスの行動と言葉に命を与える聖霊を侮辱しています。 律法学者たちは聖霊と彼らの間に壁を築き、神の赦しと救いが彼らに届かないようにしてしまいます。

 イエスの身内の人たちも同じ状況に自分たちを置いています。 彼らはイエスのいる場所の外に留まり、群衆の中の誰かがイエスを呼ぶように願います。 身内の人々はイエスがどうしても一緒にナザレに戻ることを強く望んで、イエスを連れて行きたいと考えています。 そうすることによって、身内の人たちはイエスが神から受けた使命を妨害しています。 普通、家は家族全員が集まるはずの場所です。ところがこの場面は奇妙な逆転で、イエスの親戚たちは皆外にいますが、イエスと家族的なつながりのない人たちはみな家の中にいます。 イエスにとって、これらの人々は自分の本当の家族です。なぜなら、イエスご自身が神の意志を行っているのと同じように彼らもそれを実行するからです。

「聖霊を冒涜するものは永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」とイエスは断言しました。聖霊はすべての人々の間での一致と兄弟愛の源です。 神はご自分の子供たち全員が一致することを望んでおられます。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(参照:ローマ8,14)。 「イエスを受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与ました」(参照:ヨハネ 1,12)。イエスを歓迎せず、イエスに従うことを拒否することは、聖霊を拒否することと同じです。 それはまた神の子になることも拒否することです。 聖霊は人々を統一させ、和解させ、義とし、赦しを与える神の力であるからです。そういう訳で、聖霊を拒否することは赦しを不可能にすることです。

  聖パウロは私たちに、「聖霊の火を消さないように」(参照:1テサロニケ5,19)、「悲しませないように」(参照:エフェソ4,30)、「逆に聖霊に満たされるように、聖霊の導きに従うように」求めています(参照:エフェソ5,18、ガラテヤ 5,16) 。イエスが世界を救ってくださるよう助け、互いに愛し合うことで一致を保ちたいのであれば、そのたびに聖霊が私たちを導き、照らしてくださるように、頻繁に聖霊に祈りましょう。神無限の愛で私たちに与えてくださった聖霊に(参照:ローマ人5,5)私たちが、ますます従順になるために、聖母マリア取次、助けてくださいますように。アーメン

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      年間第11主日  B年  2024616日   グイノ・ジェラール神父

        エゼキエル17,22-24      2コリント5,6-10     マルコ4,26-34

 今週の日曜日の典礼が私たちに提供するすべての朗読を理解する鍵は、聖パウロの手紙の中で見つかります。聖パウロは私たちに次のように言います。「私たちはいつも心強いのですが、・・・知っています・・・目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」と。

 しかし、どうすれば心強い、つまりゆるぎない信頼を持って生きられるのでしょうか。預言者エゼキエルは私たちにこの信頼を持って生きる方法を教えています。預言者エゼキエルは神の行動を説明しました。神は、小さな枝を切り取ってそれを地面に植え、それは鳥が避難する立派な杉になるようにするためでした。したがって、信頼には時間と忍耐が必要です。今歌ったばかりの詩編も同じことを教えています。「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえる」と。

 私たちが自信を持てるのは、働いておられるのは神であることを知り、また、率先して私たちを成長させてくださるのは神であることを知っているからです。ですから、不安を抱えて生きる必要はありません。明日を恐れてはいけません。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(参照:マタイ6,34)とイエスは私たちに言いました。

 イエスは、種のたとえを通して、私たちに自信と信頼を持つように上手に勧めています。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と。種を蒔く人が、気にするしないかかわらず、蒔かれた種は勝手に芽生え、段々と成長していきます。このように、神は私たちの内や私たちの周囲で、目に見えない形で働いておられるので、私たちは神を完全に信頼し、忍耐強い人にならなければなりません。

 ですから、忙しくしたり、物事を急がないように、冷静さを保つことを学びましょう。私たちは神のために何かをする必要はありません。代わりに、神が私たちの内に、また私たちを通して働き続けられるように、私たちは落ち着いて自信と信頼を持つことが大切です。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(参照:1コリント3,6)と聖パウロはコリントの人々に書いています。行動されるのは神であり、私たちの信頼と忍耐のお陰で神がその働きを完全にするということを、私たちは決して忘れてはなりません。

 私たちが忍耐強くなり、自分たちの内と私たちの周囲に広がる神の国の神秘を謙遜に発見するようにイエスのたとえ話が、私たちに勧めています。結局、預言者エゼキエルの説明するレバノン杉の小さな若枝や小さなからし種が大きな木になります。地に蒔かれた一粒の小麦は、豊かな種子を生み出します。このように、私たち一人ひとりの中に、洗礼の際に蒔かれた聖性の芽が、数多くの実を生むはずです。

 確かに、神は私たちの中に聖性の種を蒔いて、発芽させて美しい実を結ぶように細心の注意を払ってくださっているのです。神への信頼と忍耐を示すことによって、神のことばであり、私たちの救い主であるイエスを受け入れ、そして聖霊を通して、神が私たちの心に注いで下さる愛と慈しみに感謝しましょう。アーメン。

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      年間第12主日  B 年  2024623日   グイノ・ジェラール神父

         ヨブ記38,18-11    2コリント5,14-17      マルコ4,35-41

 自分のために生きるのではなく、私たちのために死んで復活したキリストのために生きることは、聖パウロのコリント人への手紙のテーマです。これを実現するために聖霊が私たちに与えられていることをミサ第4奉献文が私たちに思い起させています。

 これを信じるなら、福音は私たちの心と人生に永遠の命の泉を湧き出させる本当の良い知らせとなります。私たちがイエスのために生きるなら、絶えず私たちを襲うすべての嵐や悪の勢力をイエスが静めてくださることを確信します。神が預言者イザヤと預言者エレミヤにすでに約束したことを、イエスは私たちにも約束します。「恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」(参照:イザヤ41,1013 ; エレミヤ1,8, 30,11)と。

 「インマヌエル」は「神は私たちと共にいます」という意味です。確かにイエスは毎日、世界の終わりまでわたしたちと共におられます。イエスは私たちのために精一杯生きておられるので、私たちも聖霊の力によってイエスのために精一杯熱心に生きていかなければなりません。 復活されたイエスがずっと私たちと共にいるのは、ご自身の人生の勝利とご自分の愛の確信を豊かに私たちに与えるためです。私たちの信仰は弱くもろいので、イエスに頼ることを逃避するのです。ですから、私たちの心の中に恐れと疑いが入り、自分自身に避難して、閉じこもるのです。

 だからこそ、私たちはイエスのために生き、イエスを見つめ、イエスの言葉に耳を傾け、彼に話しかけ、懇願しなければなりません。聖パウロは、私たちは洗礼を受けたので、キリストを着た者だと言いました(参照:ガラテ3:27)。また、私たちはキリストと一つになります(参照:ローマ12:5)と宣言しました。これを信じれば、恐れや疑いは私たちに近づくことができなくなります。 それどころか、神からもたらされる平和と喜びは、私たちに力と確信を与え、私たちを覆うのです。その結果、私たちの人生は自然に、キリストが私たちの内に生きておられ、私たちもキリストの内に生きているという事実をはっきりと証しすることになるでしょう。

 私たちは人生のあらゆる出来事がイエスに出会う機会であることを常に確認しなければなりません。間違いなく、自然災害、戦争、あらゆる種類の不正義に直面すると、私たちはこう叫びたくなります。「主よ、人々が滅ぼされてもかまわないのですか」と。キリストは反逆の叫びではなく、自制に満ちた祈りのような言葉で神に向かって叫ぶように私たちに教えました。

 マルコの話によると「イエスは船の艫のほうで枕をして眠っておられました」。私たちが神は眠っている、私たちの願いを聞かないままと考えるときにこそ、それは私たちが今よりも更に毎日神ともっと親密に生きるために、神が私たちの内に信仰と喜びを目覚めさせるためだと信じましょう。実を言えば、眠っているのは、神ではありません、むしろ、霊的に信仰の小さな船の中で眠っているのは私たちなのです。その結果私たちを無気力状態から救い出そうとされる神からの励ましの言葉は残念ながら聞こえません。

私たちが弱くもろい人であり、自分ではどうすることもできない出来事の攻撃を絶えず受けるので、イエスは「向こう岸に渡るように」私たちに勧めています。私たちがどんなことがあっても心を静め、ご自分を信頼することをイエスは望んでいます。それはおそらく、私たちがイエスに自分たちの愛と感謝を示す最良の方法であるに違いありません。アーメン。
                            


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