グイノ神父の説教

 


C 年

復活節から

キリストの聖体の祭日まで


   
復活祭
復活説第2主日
復活説第3主日
復活説第4主日
復活説第5主日
復活説第6主日
主の昇天の主日
聖霊降臨の主日
三位一体の祭日
キリストの聖体の祭日


          復活祭   C年  20224月17日  グイノ・ジェラール神父

     使徒10, 34, 37-41   コロサイ3, 1-4  また  1コリント5,6-8  ヨハネ 20,1-9

 朝のまだ暗いうちにマグダラのマリアと数人の婦人たちは、死者への尊敬の意を表す世話をするために墓に来ました。ところが二人の天使が彼女たちに「イエスは生きている、復活なさった」(ルカ24, 5-6)と告げました。「私たちは消えた死者を探しに来たのだろうか」と思い、とても混乱したマクダラのマリアは墓の中を見ました。するとイエスの亡骸(なきがら)は無く、墓から取り去られていたのでそのことを教えるために弟子たちがいる場所に走りました。それを聞いたペトロとヨハネは走って墓に着き、墓は空(から)であることを確かめました。彼らが見ると墓には亜麻布とイエスの頭を包んでいた覆いだけが残っていました。

 ヨハネにとっては、空っぽの墓よりも残されていた亜麻布と頭の覆いの方が、目に見えない新しい事実のしるしでした。というのは、ちょうど一週間前に、自分の家の墓で死んで四日過ぎているラザロを生き返らせてもらった時、ラザロは亜麻布を着て手と足を布で巻かれた状態のまま墓から出てきたからです。ラザロが自由になるためには人々の助けが必要でした。ですから、イエスの亡骸は墓の中には無く、亜麻布と頭の覆いだけが残されているは彼が復活したことを意味しています。イエスを縛るものが何もないことを知ったヨハネは、彼が本当に復活したことを信じ始めました。「見て、信じた」とヨハネ自身が自分の体験について証しています。

 しかし、「見ないのに信じる人は、幸い」と来週の典礼の中でイエスはトマスに言われるでしょう。確かに、目に見える物事からはっきり現わされたキリストの復活は、今度は目に全く見えない事実に同意することになるです。実に、信仰は目に見えない事実について私たちの目を開き、そして触れることのできないものを私たちに味わわせます。これについて聖ペトロは第一の手紙の中で上手に説明しました。「あなた方は、イエスを見たことはありませんが、愛しています。今、見ていませんが、信じて、言い尽くせない輝かしい喜びに溢れています」(参照:1ペトロ1,8フランシス会訳)と。また、ヘブライ人への手紙を書いた人はモーセの信仰について説明した時にこのように教えています。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず…目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです」(参照:ヘブライ11,27)と。キリストの復活はとても具体的で、目に見えない方へ私たちの眼差しと全存在を引き寄せます。

「わたしは 近い神であり、私は遠くにいる神ではない」(参照:エレミヤ23,23)と神は断言しました。キリストの復活への信仰を通して、希望と愛の内にご自分と共に生きるように神は私たちを誘っています。イエスは見えない神の目見える顔です。そういう訳で私たちの信仰と希望と愛を養うために世の終わりまで、毎日イエスは私たちと一緒に留まります。また私たちが父なる神と共に神の子どもとして親密に生きるために、イエスは永遠の命と聖性の泉である聖霊を私たちに与えました。

 イエスの復活に続いて私たち自身も復活するという私たちの信仰は、神の貴重な言葉に基づいています。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛しています」(参照:エレミヤ31,3)と。神が私たちを愛していると信じる私たちは、父なる神の愛が永遠と繋がることを理解できます。もしこの今の生きている短い期間だけ神が私たちを愛しているとするなら、それは本当の愛だとは言えないでしょう。たくさんの歌が教えている通り、「愛」という言葉は「いつも」という言葉と結ばれています。永遠の命とは終わりのない愛の豊かさです。復活とは、愛の勝利であり、神の命に永遠に与かるプレゼントです。そうであれば、声高らかに、心を込め、喜びに溢れて「アレルヤ、アレルヤ」を歌いましょう。 アーメン。

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          復活節第2主日  C 年  2022424日  グイノ・ジェラール神父

              使徒5,12-16  黙示録1,9-1317-19  ヨハネ20,19-31

 イエスがトマスに言われたことを私たちはキリストの弟子たちと聖パウロに向かって言いたいことです。「あなたたちは見たから、信じました。しかし、21世紀の信者の私たちは何も見ずに信じています。従って私たちの信仰はイエスの弟子たちであるあなたたちの信仰をはるかに超えています。そして『見ずに信じているので、私たちはキリストが幸せに定められた人々の数に属しています』」と。

 ある日「キリストが復活された」と証した先人の言葉を信じて、私たちはキリスト者になりました。きっと証したその人も他の人の証しを受けてキリストを信じるようになったに違いありません。実に、2000年前からイエスの弟子たちの証しは世界に伝え知らされています。これに対して迫害や無神論、自然災害や日常生活の試練、あるいは戦争など、どんな出来事もこの証しを止めることも、破壊することもできませんでした。なぜなら、キリストの復活は信仰に心を開平和のメッセージですから。そういう訳で、茫然自失状態の弟子たちの前に復活したイエスが現れた時、彼の最初の言葉は平和のことばでした。「あなたがたに平和があるように」と。希望と信仰を運ぶこの光輝くことばをイエスは二回繰り返しました。

 今日、イエスは私たちの間におられます。私たちはイエスを見ていませんが信じています。そういう訳で私たちは黙示録を通してヨハネが伝えたイエスの言葉を心に深く刻んでいます。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府(よみ)の鍵を持っている」と。死に打ち勝ち復活したイエスは、平和を与えるためにいつも一緒におられます。この平和は、今日特に教会が祝っている「神の慈しみ」の神秘に安全に私たちを導くのです。

 私たちが一緒におられるイエスの現存に対して最も敏感になるために、司祭はミサの時に何回も何回も「主は皆さんと共に」と繰り返します。2000年前にイエスが断言された言葉を私たちは固く信じています。つまり「イエスの名によって二人または三人が集まるところには」(参照:18,20)イエスが確かにその中にいることを固く信じています。

 ここに実際におられるイエスは、愛と慈しみの眼差しで、私たち一人ひとりをご覧になっています。私たちの各自の手にご聖体をいただく時、私たちは復活されたイエスのからだ触れることができます。そして拝領によって、私たちはまずキリストと共に、そして同時に信仰の兄弟姉妹と共に一つの体になります。自分の内にあるイエスの現存は一致と命の泉でありまた復活の強さでもあります。

 神の平和と共に、イエスは聖霊の力も私たちに与えます。イエスは本当に生きていて、私たちの間の直ぐ傍におられること、そして実際に自分の魂の内に留まることを信じることができように聖霊は私たちを助けます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(参照:ヨハネ6, 56)とイエスは約束しました。キリストはとても近いので、父なる神に感謝しながら、聖霊が私たちをより一層イエスの直ぐ傍に引き寄せますように願いましょう。 イエス・キリストの親しい友となって、神の限りのない愛と慈しみの証人として生きる恵みを聖霊に願いましょう。アーメン。

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      復活節第3主日 C年   202251日    グイノ・ジェラール神父

          使徒 5,27-3240-41     黙示録 5,11-14     ヨハネ21,1-19

 四つの福音書の中で復活についての12か所の場面で弟子たちは自分たち体験したことを分かち合おうとします。復活されたイエスは時の流れを超えて、栄光の内に父なる神の傍におられます。同時に、イエスはいつまでも、毎日、私たちと一緒に留まっています。 事実、キリストの復活はイエスの現存と不在の神秘の中心に私たちを導きます。言い換えれば、イエスが傍に実際におられるのに(現存)、私たち彼を見ないのでイエスがいない(不在)と感じるのです

 ご自分の弟子たちと出会う度に、イエスはいつも自分の神性と自分がとても近いことを示します。弟子たちを通してイエスを信じるすべての人が、神の親密さに与かることできることを現すのです。死者の中から最初に生まれた方であるキリストは、宇宙万物の王として父なる神に栄光を与えます(参照:コロサイ1,18-20)。また、黙示録によると、イエスは「屠られた小羊として、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」。実に、イエスは神の前歌われている全人類の永遠の賛美です。私たちミサ祭儀に与かる度に、天使や聖人たちに結ばれてこの永遠の賛美に参加しているのです。

 今日の福音の物語が教えているように、イエスは日常の普通の生活の中で見つけられます。イエスは自分の友だちの世話をし、彼らの仕事を支え、導き、また気軽に弟子たちのために朝の食事を準備し、彼らの体を温めるために焚火をたきました。イエスが変容の時になさったように、ご自分の復活の栄光の姿を弟子たちには見せずに、素直に、普通のイエスの姿で彼らと出会います。やはり弟子たちも、福音史家たちも、イエスを普通の生き方の内に見つけることを教えています。不思議な出来事を求めることや驚くべき現象に夢中になることは神を知ることを不可能します。神はいつも、恐れずに、また、栄光の力で人を強制せずに、単純さと親密さの内にご自分の存在を示します。


 人間になった、「インマヌエル」である神は、その名が教えている通り私たちと共におられます。ですから、私たちは人々との分かち合いや教会の秘跡を通して、あるいはミサ祭儀を通して、信仰の内に自分たちの心の奥底にしっかりと神を受け止めることを学びましょう。

 傍に近寄るイエスがペトロに言われた言葉を私たちに問いかけます。「あなたはわたしを愛していますか」と。神は私たちの愛を必要とします。ちょうど私たち神の愛を必要としているのと同じように。実を言うと、神の内の生き方は愛の生き方です。しかも永遠に続く愛の生き方です。信仰の生活によって私たちは全てが変容され美しくされるこの愛を目指しているのです。ですから、優しい仲間として私たちに与えられた聖霊が神への愛を増やし、成長させ、私たちの目を開くように願いましょう。そうすれば、私たちは容易に自分の生活の中で傍におられる、私たちの世話をするイエスの現存を発見するでしょう。アーメン。

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      復活節第4主日  C年  202258日   グイノ・ジェラール神父

         使徒13,1443-52      黙示録7,914-17     ヨハネ10,27-30

 カトリック教会とプロテスタント教会の指導者たちは「牧者」とも呼ばれていますが、イエスだけが唯一のまことの牧者です。「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」(参照:マタイ23, 8)とイエスは言いました。ご自分の死と復活によってイエスだけが永遠の命を与えるからです。司祭たちや福音を伝える人たちは、ただイエスの声を聴かせる人たちです。

 ご自分の言葉を歓迎する人々に、イエスは永遠の命を与えます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける・・・わたしは彼らに永遠の命を与える」とイエスは断言します。使徒バルナバとパウロは、ピシディア州のアンティオキアのユダヤ人たちに命を与えるイエスの声を聴かせようとしましたが、町から追い出されました。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」と確信をもってパウロは勇敢に宣言しました。残念なことに、よい牧者の声を聴くことを拒む人がいます。


 
キリスト者である私たちにとって聞くことは神の呼びかけに心を開く真の愛のしるしです。世界召命祈願の日に当たって、自分の心にある、キリストを信じる原点ときっかけとなった聖書の言葉を思い起こしたいと思います。また、今日、私たちに平和、喜び、希望、慰め、隣人への愛を豊かに与えるイエスの言葉を思い巡らしましょう。

 神の言葉を聞くことだけでは、十分ではないと私たちはよく知っています。聞いた言葉が自分の生き方を変化させることを承諾する必要があります。イエスに従うことは彼の歩む道を歩くことであり、そして私たちを愛しているイエスを愛することでから、心を込めて彼一致することです。永遠の命は、考えられない程素晴らしい恵みです。永遠の命とは、父なる神の手の中に憩うことです。ヨハネの黙示録によると、神の手は目から涙をぬぐうこと、苦しみや飢え、渇きから救う父親の手です。この強い手から誰も私たちを奪うことはできません(参照:ヨハネ10,27


 預言者たちの声を通して、神が私たちに打ち明けた言葉を思い出しましょう。「人の腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。わたしは人間の綱、愛のきずなで人を導きました」(参照:ホセア11,3-4)と。また、見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける(参照:イザヤ49,16)と。父なる神の手の中にいることは愛情ある存在感で包まれて、深いを味わうことです。

 注意深くイエスの言葉を聞くことや父なる神の手に自分の身を丸めことは本当に神の親密さを味わう恵みす。父と子の完全な一致の内に湧き出るこの親密な愛から私たちを奪うものは全く何もありません。「わたしと父とは一つである」(参照:ヨハネ10,30)と、もう一度イエスは私たちに打ち明けていました。キリストの弟子たちとして私たちが信じたことを、勇気をもってはっきりと自分の周りに宣言しましょう。「死も、命も・・・現在のものも、未来のものも・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(参照:ローマ8, 38-39)アーメン


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       復活節第5主日  C年  2022515日   グイノ・ジェラール神父

          使徒 14,21-27      黙示録 21,1-5     ヨハネ 13,31-35

 昔の弟子たちとは違って私たちは直接にイエスを見たり、触れたり、聞いたりすることができません。そうであれば、どのようにしてイエスと出会うことができるのでしょうか。この質問に弟子たちはイエスの答えを後の人々に伝えました。ただ隣人を通してだけイエスと出会うことができます。そして隣人に害を与える者が人をイエスから遠ざけ、離ればなれにします。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(参照:マタイ25,40)とイエスは言いました。

聖パウロはこの教えに新しい幅あたえました。即ち信仰によって私たちはキリスト自身の体参照:1コリント12,27)であり聖霊の神殿(参照:1コリント6,19)となりました。言い換えれば、信仰によって私たちは「神と人々との唯一の出会う場所」となりました。

 更に聖ペトロはこの教えを強め、詳しく説明しました。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(参照:1ペトロ2,5)と。従って私たちの責任は重大です。確かに私たちはこの世にあってキリストの顔であり姿です。そしてキリストの現存になっています。

イエスが与えた愛の掟のお陰で、私たちはキリストの現存を自分たちの周りの人々に示すことができます。「あなたがたに新しい掟を与える。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。イエスの愛と隣人への愛が自分を完全に与えることを要求します。神の慈しみ深い心から湧き出るこの愛が、どこにいても、何をしていても、私たちの日常生活に深く染み込むべきです。

この愛はまたキリストの教会の典礼を通して染み込ませるはずです。兄弟的な雰囲気が信者たちの共同体にるなら、ミサ祭儀や秘跡やキリスト者との出会いは真実の意味を持っています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(使徒4,32)と理想的な共同体の姿を描写して聖ルカは書きました。教会は、全人類のすべての問題を心に留めて、配慮する態度や社会生活果たすべき協力などが、実際にイエスが要求する愛であると、理解させます。

 キリスト者たちが兄弟姉妹として、心と手を合わせて一致した振舞いをする時こそ、聖霊は全力を発揮することができます。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とイエスは断言しました。ですから、効果的に、しかし謙遜に、私たちを生かキリストと親密に一致ましょう。更に私たちがキリストの体であり、聖霊の神殿であることを示すことで神の愛を世界の人々にはっきりと示しましょう。そして、栄光ある永遠の愛の内にキリストの弟子たちとして生きる恵みを私たちに下さった神に感謝しましょう。私たちは「生きた石として用いられ、神の国を造り上げる霊的な家」です。アーメン。

    
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       復活節第6主日  C 2022517日   ジェラール・グイノ神父

         使徒15,1-222-29     黙示録21,10-1422-23   ヨハネ14,23-29

 「これはわたしの愛する子。これに聞け」(参照:マルコ9,7)と神は言われました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」とイエスは言い加えました。イエスにとって愛することはまずご自分のことばを聞き、心に受けとめることです。ちょうどイエス自身が父なる神の言葉を聞き、心に受けとめたように。「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」(参照:ヨハネ5,30確かにご自分の父に心を配り、み旨を聞き続けるためにイエスは長く祈りました。神が言いたいことを聞き分けるために、祈りは心の耳を開き、その心に謙遜と信頼を注ぎます。

 私たちの心に話しかける父なる神とイエスの声に耳を傾けることを学ぶ必要があります。と言うのもこの注意深い聞き方は近くにおられる神の現存を味わわせるからです。「わたしたちを愛し言葉を守る人の所に父とわたしとは行き、一緒に住む」とイエスは約束しました。祈りは神の言葉を忠実に受けとめる人の心に道を開き、神とイエスはこの道を通して人の内に住むことができます。


 言い換えれば、イエスと父なる神の言葉は愛の現存です。この現存は神との親密さへと祈る人を引き寄せながら、その人を聖霊の神殿へと変化させます。またイエスと神の言葉は聞き分ける心をもつ人々に神から来る平和を注ぎます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」とイエスは説明しました。社会の中でもキリストと一致しながら教会の信仰の兄弟姉妹と交わるなら、神から来るこの平和によって私たちき、喜びを汲むことができます。黙示録を通して聖ヨハネは、天から下ってくるエルサレムのイメージを借りてこの事実を説明しようとしました。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」と。祈りとみ言葉を聞くことによってキリストと一致するなら、私たちは神の栄光輝いキリスト者になります。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」とイエスは言います。わたしたちに深い平和が必要なことをイエスはよく知っているからです。確かに不安、失敗、恨みが私たちを次々と襲って来るので、平和私たちの心に長く留まることが出来ません。私たちを助けるために、第一の朗読を通して使徒たちは私たちに「兄弟的な対話」と言う平和への道を勧めています。初代教会の人々が体験したように、他の人々が私たちに打ち明けたいことに耳を傾けることや自分の意見を伝えること、互いに助け合うことが平和を生み出し、友情を強めます。教皇フランシスコがすべての信者の意見を聞いて開シノドスは、人々を神の平和に導く兄弟的な道です。


 神に耳を傾けること、信仰の兄弟姉妹に聞くこと、一緒に祈ること、あるいは一人で、神と顔と顔を合わせて祈ることは私たちのすべてのニーズに心を配る神が傍に留まることを実現します。もし聖母マリアと同じように私たちの心に神の言葉を納め、何回も思い起こならば、私たちの心は現在に対しても、未来に対しても不安を抱くことはないでしょう。ですから、祈りや平和や神の言葉に対して、聖母マリアが私たちの心を大きく開いてくださるうに一緒に願いましょう。アーメン。

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         主の昇天 C年  2022529日   グイノ・ジェラール神父

          使徒,1-11  ヘブライ人 9,24-2810,19-23  ルカ 24,46-53

 主の昇天の出来事によってイエスは父なる神のところへ昇り、そしてマリアから受けた私たちの人間の肉を三位一体の内に置くことができました。死者から復活されたイエスは、ご自分が天に戻ると神の神性に全人類を入れることにしてしまいました。今日、正に私たちはそれを祝っています。今日、ヘブライ人の手紙がそれを説明しようとしました。「キリストは、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」と。

 昇天の出来事によって、イエスはまた神を父として認めるすべての人々を天に引き寄せます。主の昇天は私たちに体の復活の恵みを与えました。なぜなら、私たちの肉の体が復活したキリストの体に結ばれるようにするために、イエスは人間になったからです。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(参照:ヨハネ16,7)とイエスは言いました。 世の終わりまでイエスは私たちの心の奥底に留まります。それは父なる神の方へ私たちを引き寄せるためです。天において、神のそばで、イエスは私たちに対してご自分の全力の愛を尽くしています。人の自由を真摯に尊重して、無限のご自分の存在に合わせるためにイエスは働いています。言い換えれば、私たちが三位一体の神の神秘に永遠に生きることができるように、イエスは全力の愛を尽くしています。

 キリストの使徒と弟子たちがイエスは本当に復活したという事実を認めるために、また復活の目的を悟るために復活の日から昇天の日までの四十日間という時間が必要でした。と言うのも、昇天の日になってもまだ弟子たちのなかには、キリストが地上の政治的な支配をすると考え続けていたからです。「主よ、いつ、イスラエルのために国を建て直してくださるのか」と弟子たちは尋ねました。従って、神の愛がどこへ私たちを引き寄せ、昇らせるのかを理解するために、私たちにどのぐらいの時間が必要なのでしょうか。その答えにイエスは、聖霊の訪れを約束します。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と。ところで聖霊が助けに来て、私たちの知恵と信仰を照らすことが出来るように、私たちは果たして十二分に祈っているでしょうか。

 昇天はキリストの不在ではなく、かえってすべてを満たすイエスの存在を意味しています。イエスは宇宙万物を聖霊で満たしています。「地上に降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、天よりも更に高く昇られたのです」(参照:エフェソ4,10)と聖パウロは教えています。そういう理由で、聖パウロは私たちに次の事を願います。「もはや子供のように、人間のまやかし、すなわち、人を惑わせる悪賢い抜け目なさが生み出す教えの風に吹き回され、ほんろうされることがないように」と。「むしろ、私たちが愛に基づいて真理を語り、あらゆる面で頭であるキリストに向かって成長するように」(参照:エフェソ4,14-16フランスシスコ会訳)と聖パウロは勧めています。

 神が地上に生きている私たちに聖霊の賜物と恵みを注ぎますように。昇天によってイエスは私たちの人間性を神の神性に入れられたので、聖霊が私たちの心に主キリストの内に共に生きる大きな望みと決意を与えますように。アーメン。

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          聖霊降臨  C年  202265日    グイノ・ジェラール神父

            使徒 2,1-11      ローマ 8,8-17    ヨハネ 14,15-1623-26

  天地創造の初めに水の面をおおっていた聖霊は聖霊降臨の日に戻ってきました。新しい創造を実現するために聖霊は、使徒たちの上、生まれようとする教会の上、そして世界の上にも下ってきます。聖霊降臨の日に神は全てを新たにします。私たちに与えられた聖霊によって地の面を一新しながら神はご自分の愛を私たちの心に注ぐのです。(参照:ローマ5,5)。今から後、聖霊の力の内に、御ひとり子イエスにより始まった救いの業を神は続け、完成させます。キリストの教会の人々は神の新しい民となりました。イエスの血の内に結ばれ、復活の出来事によって証明された「新しい永遠の契約結び合う場所」は、もうイスラエルの民ではなく、キリストの教会です。

  父なる神とキリストから出て、私たちに与えられた聖霊は私たちを神の新しい神殿として作りあげ(参照:1コリント6,19)、私たちが本当に神の子であることを(参照:ローマ8,15-16)保証します。私たちが聖霊についてめったに考えませんが、この聖霊は神の子としてこの世に生きるために最も必要な賜物と実りを私たちに与えるのです。聖霊の七つの賜物は次のようです。知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛する恵み、神を敬う心です(参照:イザヤ11,2-3)。聖霊の12の実は、次のようです。愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、謙遜、誠実、柔和、節制、貞潔です(参照:ガラテ5,22 、教会のカテキズムNo.1832)

  私たちにとって聖霊は大切な教育者です。イエスが約束した通り聖霊はイエスが言われたことを私たちに思い出させ、詳しく理解させます。また弁護者として私たちを守り(参照:ヨハネ15,26)、慰め(参照:ヨハネ14, 26)、真理に導きます(参照:ヨハネ16,13)。実に聖霊は私たちの心に神の愛を溢れるほどに注ぎたいのです。それを可能にするために私たちは、聖霊降臨の日、あるいは堅信式や叙階式が行われる時だけではなく、心を大きく開いて日ごとに聖霊に祈る必要があります。

  私たちの日常生活が豊かになり聖とされるように、聖霊はイエスと共に私たちに伴います。事実私たちの内に、私たちと共に、私たちによって聖霊は地の面を新たにします。聖霊は全地を満たすために私たちの愛と信仰の証しを必要としています。ですから、聖霊の友となることを学びましょう。自分自身の内に働く聖霊の現存を捜し求めることや見つけることの喜びを味わいましょう。

 神は父としてのご自分の愛を私たちに与えます。イエスは神の子としての平和を私たちに与えます。聖霊はご自分の力を私たちに与えます。ですから、私たちがキリスト者になったことの喜びを示すことによって神に感謝しましょう。また、神と共に世の救いの業のために働くようにイエスによって選ばれたことを大いに賛美しましょう。更に、約束された聖霊を待つ間、使徒たちと共に祈った聖母マリアが聖霊の喜びの内に神に生きることを私たちに教えて下さいますように。アーメン。

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        三位一体の祭日 C年 2022612日   グイノ・ジェラール神父

           箴言8,22-31        ローマ5,1-5    ヨハネ16,12-15

  「ただ一人の唯一の神しかない」と旧約聖書は何回も繰り返しますが、新約聖書は「父、子と霊」として神を啓示しています。歴史によると2世紀の終わりにテルトゥリアヌスによって使われた「三位一体」の言葉は、四世紀に教会により承認されました。それは神のアイデンティティーを攻撃していた異端と戦うためでした。キリスト教の信仰は神について三つのことを大切にするからです。それは、神は唯一の神である、父と子と聖霊はそれぞれ神である、しかし一人ひとりは特徴の違うパーソナリティー(人格)を持っています。聖書全体がこの揺るぎない真理を啓示しています。

  実に、旧約聖書は目立たないやり方で三位一体の神の存在を啓示します。特に創世記では世の創造の初めの時(参照:創世記1,1-2)、男と女の創造の時(参照:創世1,26-27 )、さらに、三人の旅人とアブラハムの出会いの時(参照:創世記18,1-5)です。預言者イザヤは神を次のように紹介します(イザヤ63, 7-10)。父なる神は「主の栄光」と呼、子は「救い主」と呼、霊は「聖なる霊」と呼んでいます。

  私たちは三位一体の神秘をなかなか理解できなくても、信仰によってこの神秘に与っている保証を受けたと聖パウロは思い起こさせます。「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。・・・わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5, 1-5)と。この聖霊とはイエス・キリストが私たちに与えてくださった不思議なプレゼントです。この聖霊はイエスが言われた「真理のあらゆる面」つまり神の完全な真理にまで導くお方です。

  今日私たちは、神は「父、子、霊」であることをもう一度発見するように招かれています。神の神秘のうちに子がいなければ、神は父になれないし、聖霊も父と子なしでは神になれません。父と子と聖霊は互いを必要としているからです。簡単に説明すれば、三位一体の神の一致は愛で満たされている永遠の関係です。神の似姿で造られた人間も他の人々との関係の中で生きていかなければなりません。「人が独りでいるのは良くない」(参照:創世記2,18)と神は言われました。信仰によって私たちは神との関係を結び、またこの信仰が私たちと大勢の人々を神に結び合わせるのです。というのは、洗礼の時に受けた、信仰、愛と希望は私たちを神の愛する子どもとし、兄弟姉妹とされたからです。

 三位一体をほめたたえることは、終わりのない神秘に入り込むことや神学的な教えを納得することではありません。むしろ、私たちは、聖パウロがめていることを実践するように努力しなければなりません。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして・・・へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、・・・めいめい、自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(参照:フィリピ2,1-24)と。

  神の栄光ヘの賛美として三位一体の神、私たちが、一致と愛のうちに生きるように助けて下さり、また私たちを清め、聖とされますように。アーメン。

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       キリストの聖体  C  2022619日   グイノ・ジェラール神父

           創世記 14,18-20    1コリント11,23-26     ルカ 9,11-17


  フランスのことですが、現在「キリストの聖体」と呼ばれる「神の祝い日」に私の故郷のすべての家の壁は花で飾られ、各地区に祭壇が整えられていました。司祭はその祭壇に行列して運んで来た「キリストの聖体」を置いて、地区の人々祈りを捧げ、また他の地区にイエスの聖体を運びました。現在ではこのような伝統的なイベントはなくなってしまいました。僅かに残っているのはとても目立たない行列だけです。

 現在では地味になってしまった「キリストの聖体の主日」は、私たちに聖体の秘跡を再発見するように呼び掛けています。聖体は、神が全人類に示している愛のしるしです。聖体分かち合うようにと今日の三つの朗読が思い起こさせます。メルキセデクのパンとぶどう酒、群集に配ったパンと魚はそれを受けた人々を一致させました。同様に、キリストの御体と御血となったパンとぶどう酒が神の神秘に私たちを実際に一致させます。なぜなら、それをいただくことによって私たち自身キリストの体と血になるからです。聖体は、私たちをキリストの体とするのです。この神秘を再発見することはとても必要ではないでしょうか。

 キリストの教会は喜び、悲しみ、希望、知識、持ち物などの全てを分かち合うように私たちを誘っています。また同時に、自分たちの信仰の体験、一緒に味わう教会での生活、聖書への理解と無理解をも分かち合うように招ています。私たちはキリストの兄弟姉妹になったからこそ、すべての人を歓迎することができるのです。私たちの間では、家族的な精神を発展させなければなりません。


 
命のパンであるキリストは、私たちを生かすために、大勢の人々ご自分の命を分かち合うように願っています。今日の福音は、特に足りないことを恐れずに、出来るだけ大勢の人に必要な物を与えるように誘っています。キリストの信仰は、心配せずに、安全に自分の小さな共同体に閉じこもる危険性を防ぐのです。昔も今もイエスは私たち一人ひとりを励ましています。「沖に漕ぎ出して網を降ろし・・・恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(参照:ルカ5,4 10)と。

 キリストの命に与かるなら、自分たちの命を他の人分かち合うようにます。それができるように、神に絶えず聖霊の助けと母マリアの援助を願いましょう。聖霊は私たちに力と勇気を与え、母マリアご自分の特徴のあるやりかたを教えるでしょう。最後に私たちがこの世でキリストの手と顔になるために、お互いに祈り合いましょう。アーメン。

       



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