グイノ神父の説教



2022 C年

年間第13主日から

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          年間第13主日  C年  2022626日    グイノ・ジェラール神父

             列王記 19, 16-21    ガラテヤ5,1-18    ルカ 9,51-62

  預言者エリヤは自分の後継者を探しに行きました。エリシャを見つけると、何も言わずに彼に自分の外套をかけました。そうすることでエリヤは預言者としての自分のすべての権能をエリシャに譲りました。とてもびっくりしたエリシャは、エリヤに従う前に少しの時間を要求しましたが、預言者の使命から早く離れたかったエリヤは、それを断りました。

 エルサレムに向かっているイエスの使命が数日のうちに終わりますので、イエスも自分にすぐ従う人々を探しています。イエスは父なる神のそばに戻ることで、ご自分の弟子たちに残した福音宣教がよいことをよく知っています。そう言うわけで、イエスは 厳しい条件を付けます。まずヨハネとヤコブが望んだこと、つまり自分を歓迎しない人々、言いかえれば福音を信じない人々に対する天罰としての復讐をすることを禁止しました。歓迎しなかったサマリア人の村を火事で破壊しようとしたので、ヨハネとヤコブは「雷の子」(参照:マルコ 3,17) というあだ名をつけられました。イエスが要求する弟子たちの理想の姿とは、彼らが自由であり、謙遜で、試練と苦しみを耐え忍ぶことができ、特に我慢強く自分の感情を抑えることができる人なのです

 聖パウロはこのとても人間的な自然な反応を「肉の欲望」と呼びます。この自然な傾きから遠ざかる道は長い道のりですが必要な道のりです。しかしそれを行うには思い切った断を要求します。たとえば、福音宣教活動に対して自由であるように家族的な絆を切ることが出来ること、貧しさや不安定な生き方を恐れないこと、あるいは悲しや親しい人の死によってもエネルギーを失われたりしないこと・・・など。やはり、自由にイエスに従うために基本的な対策を取ることは、そう簡単ではありません。死に向かっているイエスは、近いうちに起こる迫害が弟子たちを危険に晒すことをよく知っています。そのために福音宣教活動に厳しい条件を付けたのでした。

 確かに、弟子であることはなまやさしいことではありません。しかしイエスが私たちの幸福を望んでいること、そして福音が良い知らせであることを私たちは知っています。イエスはいつくしみ深い方であり、彼の厳しい言葉愛の力を現わしています。イエスは人を破壊することを望みませんただ、人を癒したいだけです。それを聖パウロは確認します。「皆さん、自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由にしてくださいました・・・あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」と。イエスは決して私たちの自由を奪いません。むしろこの自由を強めたいと望んでいます。私たちの自由は、皆の目には愛と慈しみの泉として現れるはずです。

 「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とイエスも言いました。イエス自身が鋤に手をかけたまま、勇敢にエルサレムで自分の死を迎えます。イエスは地上で自分の人生の目的をじっと見ています。それによってイエスは全人類を永遠の命と光に引き寄せます。数年後、自分に委ねられた使命を思い出した聖パウロはキリストの言葉を繰り返しました。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(参照:フィリピ313-14)と。私たちが信仰をもって同じ証しをし、、また行いによってそれを証明できればとても好ましいことです。アーメン。

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          年間第14主日   C年  20227月3日   グイノ・ジェラール神父

             イザヤ 66,10-14      ガラテ 6,14-18      ルカ 10,1-20

 数日後には十字架に付けられるエルサレムに向っているイエスは、宣教することが急務であることを忘れていませんでした。イエスは救いの良い知らせが伝えられるように大勢の弟子たちを遣わします。しかし、この宣教が目立つような大きな奇蹟を実現したとしても、その後には必ず苦しみや困難、あるいは貧しさという反応があることも分かっています。この事実を実際に我が身に受けて体験した聖パウロは「イエスの焼き印を身に受けている」(参照:ガラテ6,17)と自慢しています。


 
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」 と言いながらイエスは近づく自分の受難の事を思い起こしています。イエス自身が小羊のように屠られることになるからです。こんにちでも宣教は危険な活動です。キリストが十字架上で殺されたので、弟子たちも同じ運命出会う可能性があると、イエスは忠告しています。そういう訳で、イエスは弟子たちに祈ることと慎重に行動することを勧めています。

 イエスを真似て、弟子たちは完全に自分自身を神の手に委ねるように召されています。財布も袋も履物も持たずに出かけ、迎え入れられたらそこの人々が勧めるおもてなしを受けることができ、キリストの平和をもたらすので、遣わされる弟子たちは自分を守ることやむりやり納得させることは禁止されています。もし人々に彼らが追い出されるなら、自分の宣教は誰も強制しないことと人の自由を尊重することを納得させるために、弟子たちは足についたその町の埃を払い落とすのです。

 72人の弟子たちは不安を抱いて宣教に出て行ったとしても、皆が喜びの内に戻って来ました。彼らの宣教は悪の力に対する明白な勝利でした。病気の人が癒され、悪霊が追い出されました。しかし、弟子たちの最も大きな喜びは、彼らの名が天に書き記されていることです。預言者イザヤは、昔この喜びを告げました「あなたたちの心は喜び楽しみ・・・主の御手は僕たちと共にある」と。

 世界中で今でも、神とキリストにおける信仰が与える永遠の幸福への呼びかけを知らない人が大勢います。彼らは希望がない状態の中に留まっているので、悲劇的です。そういう訳で、イエスは私たちの助けを要求します。神が収穫のために働き手を送ってくださるためには、私たちが祈ることと信仰をはっきりと宣言することをイエスは願っています。教皇ヨハネ・パウロ二世は次のように教えました。「キリストと本当に出会った人は、それを隠すことができません。どうしてもそれを告げるべきです」と。


 「狼の群れに小羊を送り込むためにイエスはご自分の平和を豊かに与えます。『神の国はあなたがたに近づいた』」とイエスは私たち一人ひとりを元気づけています。私たちの心を満たしている喜びと希望を決して隠してはいけません。信仰の証しを通して、福音の宣教を果たすためにイエスが皆さんに勇気と識別の恵みを与えるように私は今日のミサ祭儀で心を込めて祈ります。アーメン。

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             年間第15主日 C年  2022710日   グイノ・ジェラール神父

                  申命記30,10-14    コロサイ1,15-20    ルカ 10, 25-37

 神のみ言葉は愛の言葉です。この「み言葉はとても受けやすく」と、申命記が教えています。み言葉は「難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない・・・み言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができるように」と。一人ひとりの心に語りかける聖書の言葉は、何よりもまず自分自身や他の人々、また神としっかり結ぶ絆によって最も良い生き方を味わうために語られます。神のみ言葉は深い絆を作り上げます。それは平和と幸せの道を造るためです。

 また神のみ言葉は、私たちの人間性を取るために肉の体で生まれたイエス・キリスト自身です。神のみ言葉であるイエスは確かに平和と幸せをもたらすために来られました。イエスは「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をご自分と和解させられました」と聖パウロは私たちに説明しました。神のみ言葉としてイエスは私たちにとても近いです。自分自身や他の人々と、また神と結ぶ絆によって、私たちが良い生き方を送ることができるようにイエスは私たちの心に留まります。本当にイエスは私たち一人ひとりのために与えられた平和と幸せの道です。

 イエスがたとえ話を語るのは、私たちに楽しい話を聞かせるためではなく、むしろ私たちが聞いたことについて反省し、正しく具体的に物事を行うことができようにするためです。良いサマリア人のたとえ話はこの面でとても大切です。私たちが「自分自身のように隣人を愛すること」(参照レビ記9,18)と、キリストが「私たちを愛したように、互いに愛し合うこと」(参照:ヨハネ3,34)をこの例え話は誘っています。言い換えれば、愛で満たされた理想的机上の空論を生み出すのはなく、具体的に愛を表し行うことが要求されています。

 イエスを試そうとした律法学者はこのたとえ話を聞いて反省するように招かれていました。自分が暗記した神の言葉を口で上手に人に述べるだけでなく、その神の言葉を具体的に実践するようにイエスは彼を誘います。細部まで正しく律法を知ること自体が律法を行うことにはならないからです。聖ヤコブはそのことをはっきりと言いました。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです・・・行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」(参照:ヤコブ2,17-18)と。

 神のみ言葉も律法も、それが人に与えられたのは自分を高めるためであり、決して人々を差別したり、無視するためではありません。ましてや、神のみ言葉を利用して人を咎めたり、批判して辱めたり、社会の生活から追い出すためではありません。人々が親しく近寄ることができ、絆を結んで一緒に生き、助け合うことや各自の持っている違いを認め合い一致して平和のうちに生きるために、律法と神のみ言葉は非常に役に立ちます。神のみ言葉は愛と慈しみと赦しの言葉です。良い神である方ご自身の口から出てくる言葉は、決して憎しみや妬み、軽蔑や否定の言葉にはならないからです。

 そうであれば「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」神を 愛することは「自分の隣人を愛すること」を意味します。愛することは、「私はあなた方を愛したように互いを愛し合いなさい」と言ったイエスを真似ることです。イエスはそれを律法学者にも勧めました。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。私たち神の国の門を大きく開くこの隣人への愛に生き、実現できるように神のみ言葉と聖霊が助けになりますように。また私たちは祈りと良い実を結ぶ信仰の証しによって、互に支え合いましょう。アーメン。

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           年間第16主日 C年  2022717日   グイノ・ジェラール神父

                 創世記18,1-10     コロサイ1,24-28   ルカ10,38-42

 第一朗読と福音書の個所はもてなしについて語っています。この2カ所の朗読は、お客様によい歓迎のもてなしをするために一生懸命に努めている一人の男性と一人の女性を紹介します。来られたお客様に温かく安らぎのある歓迎を行うためにアブラハムもマルタも同じようなおもてなしを行いました。アブラハムは、妻サラと僕たちとで三人のお客様の世話をしました。マルタは、たった一人で十三人のお客様の世話をしていました。なぜなら、妹のマリアは何もしなかったからです。マルタはイエスの話を聞くために彼のそばに座ってはいませんでした。しかし、マルタは昔アブラハムのテントの中で妻サラがしたように、話を台所からよく聞いていました。

 いつもは、イエスは男性たちのおもてなしを受けていました。彼らは身分の高い人たち、ファリサイ派の人々、責任のある人たちでした。今日のイエスは女性たちの世話になりました。彼女たちはイエスの友であり、ラザロの姉妹たち(マルタとマリア)でした。聖ヨハネは特にマルタとマリアについて、二人の性格違いについても語りました。


 お客様に対してマルタの態度もアブラハムの態度も常識的で正常です。人を歓迎することはその人に対して奉仕をすることですから。ところが、マリアの態度はお客様をもてなすという観点からは、とても異常でした。当時の文化に従うなら、女性は男性の食事のテーブルからは離れなければなりません。現在でもこの習慣は、北アフリカや中東アジアやインドに残っています。マリアの態度を見た弟子たちは、きっとショックを受けたに違いありません。ところが、イエスはこのマリアの態度をとても良いと感じています。「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とイエスは言っています。

 本当ならマルタがイエスを自分の家に招いたので、家の主人として、何もせずにイエスのそばに留まるべきでした。そして妹のマリアが台所で食事の準備をして、もてなしをするのが普通のことでした。ところが、お客を招いた姉のマルタが台所で色々ともてなしのためにせわしく立ち働いていました。なぜでしょう。マルタの忙しく働いている様子を見て、彼女の不満を聞いた弟子たちは、いったいこの時、何をしていたのでしょうか。忙しく働いているマルタを手伝うことにしたのかどうか、についてルカは何も教えなかったので、私たちは好きな様に自由に考えることができます。


 この福音の個所について、ある人々は次のように説明します。「マルタにとって、イエスを歓迎することはイエスを食べさせ、心のこもったもてなしを与えることです。ところがマリアにとっては、イエスを招くことはイエスから何かを受けることです。イエスの言葉は人を養うものだからです」と。また他の人々は 活動的な生き方と観想生活を比較して、観想生活の方がより優れていると決定しました。

 私は、ルカの話は2種類の食事を見せていると思います。まず、マルタが準備する人の体を養う食事、しかしその食事は準備のために手間がかかり自分を忙しくする食事です。もう一つの食事は、マリアの心に安らぎを与えたイエスの言葉の食事です。確かにイエスの言葉は私たちにとって真の糧です。なぜなら、キリストは「天から降って来た生きたパン」(参照:ヨハネ6,51)ですから。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(参照:マタイ4,4)ので、マリアは良い方を選びました。

 私たち一人ひとりは、誰でも自分の内にマルタとマリアの態度を持っています。色々な活力に溢れる生き方は私たちをイエスから遠ざけることになり、ただ神に向って生きる生き方は私たちを人々から遠ざけます。確かに、良い方を選ぶのは簡単ではありません。大切なことは、不安がなく落ち着いて活動ができるキリスト者であることです。また、もう一つの大切なことは、私たちを養い、生かしている神の言葉を心に受けとめるために、落ち着いてゆっくりと静かに座る時間を十分に取ることです。しかし最も大切なことは、イエス自身を自分のうちに招く決意を持つことです。聖体拝領を通して、イエスは私たちを訪れます。自分たちの心をよく整えるために聖マルタとその妹聖マリアが私たちを助けますように。アーメン。

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         年間第17主日 C年   2022724日   グイノ・ジェラル神父

             創世記18,20-22     コロサイ2,12-14        ルカ11,1-13

 私たちが神に祈るのは、大抵は自分のため、また誰か他の人のために役立つ何かを願うためです。しかし、執り成しの祈りを神に捧げることを忘れてはいけません。ソドムとゴモラの罪びとの救いのために、アブラハムは信頼をもって、神の前で一生懸命に執り成しました。同様に、キリストも聖母マリアも、天使や聖人たちも私たちの救いを望んで期待しているから絶えず神の前で執り成しています。天にいる者たちは、全ての人に結ばれている私たち、神の前で全人類の救いの執り成しをせずに、自分の個人的な救いだけを望むようなことはできないことを思い起こさせます。

 イエスが弟子たちに教えた祈りは、自分の心の秘密として祈られていても、みんなの名によって、みんなの祈りとして神に祈られています。私たちは「わが父よ」と言わずに、「私たちの父よ」と言っています。これこそ「聖徒の交わり」の神秘です。イエスのたとえ話はこの面でとても意味深いです。真夜中に自分の友を起こした人は、それは自分の利益のためではなく、突然訪れて来た旅行中の友だちのためでした。アブラハムは、自分の安全のためではなく、全く知らなかった人々の救いのために神に願い、執り成しました。私たちもこのように行うように招かれています。私たちの祈りは全ての人々を助ける奉仕の祈りであり、人々に強い希望と救いを与える祈りでなければなりません。

 私たちを救うためにイエス来られたので、の祈りは神に世の救いを願う祈りです。実に、この祈りは、全人類と一致したイエス自身の望みと期待を持っているのです。従って私たちがこの祈りを祈る度に、父なる神とキリストの一致、そしてその愛の交わりに入るのです。同時に、私たち自分個人の期待と望みから超越させられています。父なる神に耳を貸し、神を愛し、礼拝するためにイエスの祈りは私たちの存在をまとめて神に向わせます。特に「主の祈り」は、どのようにしてイエスが神の前で私たちのために執り成したかを思い起こさせます。聖パウロは今日のコロサイの信徒への手紙の個所でイエスの執り成しの仕方を纏めました。「神はキリストと共に私たちを生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し…イエスを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」と。


確かに、私たちがイエスと共に世の救いのために執り成すことができるように「主の祈り」は私たちをキリストと一致させます。祈りが叶えられていても、叶えられなくても、私たちの祈りはすべて、神に向って絶えず自分たちの期待や望み、罪や誘惑を打ち明ける、私たちの貧しさをよく現しています。祈りは私たちの希望が全人類と一致していることを神に表現します。祈ることにより、私たちは自分が少しずつ変化し、またイエスに増々似ている者になり、さらに聖霊で満たされていることを固く信じるようになります。そのため、絶えず、諦めずに祈ることが肝心です(参照:ルカ 18,1)。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とイエスは言いました。キリスト教的な祈りはこの確実さを持っています。私たちを形作り救うために、また私たちの内とその周りにご自分の愛の業を実現するために、神が私たちの執り成しの祈りを待ち望んでいます。アーメン


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          年間第18主日C年  2022731日  グイノ・ジェラール神父

          コヘレトの言葉1,22,21-26    コロサイ3,1-59-11   ルカ12,13-21

 5世紀の有名な修道者ジョン・カッシアンは人間の魂を「種を砕く止められない風車」と比較しました。もしこの風車に粉にする良い麦の種を与えなければ風車は肉の欲望や高慢虚栄の考えや自己愛、利欲などなんでも砕いてしまいます。聖パウロは、コロサイの教会への手紙の中でどのようにしてこの風車によい種を与えることができるかを教えました。「にあるものに心を止め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と。

 毎日の聖書の朗読、詩編を暗記して唱えること、祈りやロザリオなどは、特に自分の精神の内面の止められない風車に良い種として入れることができます。聖母マリアはそれをよく理解して行いました。「マリアはこれらのことをすべて心に納めて、思いめぐらしていた」(参照:ルカ2,1951)と記されています。たとえ話の金持ちは穀物を納めるために新しいもっと大きな蔵を造ろうと思いました。しかし、コヘレトが言った通り金持ちは自分の考えにとらわれて、「夜も彼の心は休まりません」。私たちも自分の魂の蔵に納め物を忘れほどに悩んでいないでしょうか。きっと自分の魂の蔵には大きな空(から)の場所があります。そこに自分を良くし、聖化するものを納めることができます。神の前に豊かにならなければ、私たちは役に立たない、物質的な物についてだけ悩み続け、結局命の意味を失うでしょう。

 今日イエスは審判者になって、遺産分与(いさんぶんよ)の問題を解決するために来たのではないと説明しました。むしろイエスは「永遠の遺産」であるご自分の命を天の栄光の内に私たちと共に分かち合うために来ました。「主はわたしに与えられた分(訳によると分け前、遺産)、わたしの杯です」(参照:詩編16, 5)とある詩編が保証します。また「わたしたちは神の子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に栄光をも受けるからです」(参照:ローマ8, 17)と聖パウロも保証します。人間の命に意味を豊かに与えるご自分の言葉と教えによってイエスは、風車で砕くための良い種を捧げます。それを砕いて私たちが皆と分かち合うために美味しいパンを作るためです。確かに、これを行うことによって私たちは「神の前に豊かになります」。

 私たちはしばしばあまり値打ちのない物事のために心を砕いています。この世のものが消え失せることを知り、人間の価値と命の尊さを考え大切にしたいものです。ですから自分の存在を無駄にしないことを忠告するイエスの言葉を思い起して、私たちの命に神の愛と寛大さの幅を与えましょう。私たちの人生を満たす物事も大切ですが、それよりも私たちの命は唯一であり、もっと大切です。

 生きるために食べ、家に住み、服を着、働くことは当たり前のことです。生きるためにまた、教育を受け、勉強をし、話し合ったり何かを受けたり、与えたりすることも肝心です。同時にキリスト者である私たちにとって、生きるとは神と全人類と一致することです。信仰と信頼をもって、私たちは未来を恐れていません。なぜなら、それを願う前に、神は必要なものをすべて私たちに与えることを知っていて、それを信じているからです(参照:マタイ 6,8)。

 ですから、感謝心で、信頼をもって、毎日神が与える永遠を目指して精一杯生きていきましょう。なぜなら、「私たちはキリストと共に死んで、復活させられ、私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです」(参照:コロサイ3,3)。アーメン。

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          年間第19主日  C年   2022710日   グイノ・ジェラール神父

              知恵の書18,6-9    ヘブライ11,1-28-19    ルカ12,32-48

 今日では、大勢の人は未来を恐れています。彼らは物の不足の状態、病気になること、リストラで仕事を失うこと、また年老いてから老人ホームに入れられて見捨てられ忘れられてしまうこと等を恐れています。そういうわけで「小さな群れよ、恐れるな」というイエスの言葉は希望を失って未来を恐れている人々に告げ知らせることはとても重要なことです。

 実を言えば、神は私たち一人ひとりを、丁寧に世話をなさいます。私たちの過去は神の慈しみと赦しに覆われています。神は約束された通りに、毎日私たちの傍で一緒に生きておられます。そのうえ、私たちの未来がとても美しく穏やかなであり、天国の栄光の内にあることを神の摂理は保証します。確かに「神は喜んで私たちに天の国をくださいます」。ですから何も恐れずに、飾りのない愛で私たちを愛し、大切して下さる神に感謝の心をささげましょう。

 私たちの人生のすべての出来事を通して、天の父は私たちに語り、私たちの信頼を強めています。神は一緒に歩みながら、ご自分の言葉によって終わりのない幸せに安全に私たちを導いています。神と共に、神の内に生きる人にとっては 過去・現在・未来の間に、もはや区別はありません。なぜなら神は「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(参照:黙示録1,8)ですから。皆さんは気が付かれたでしょうか。このお方(神)によると現在は過去先立っています。その理由は、過去の実りである現在は神からいただいた賜物を実らせるための時です。上手によく使われていると、この賜物が輝いて曇りのない未来を約束し保証します。


 このように昔アブラハムは、自分の過去を忘れて神の未来へと進みました。神に従って、信仰の内に歩んだアブラハムは、私たちに本当の「約束された地」である永遠の国の門を大きく開きました。神の内に生きることは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(参照:ヘブライ11,1)と教えられています。今、現在神の国を所有することができるため、即ち、今神と共に神の内に生きるために「目を覚ましている」ことが大切だとイエスは教えています。言い換えれば、神が私たちの直ぐ傍におられる事実を納得して、神の眼差しの元に生きていかなければなりません。なぜなら、神も「目を覚まして」わたしたちの世話をなさるからです。現在の私たちの歩みは夜の暗闇を歩むような不安定な歩みですが、神が守ってくださり、私たちのすぐ傍におられる神の現存に照らされていることを私たちは皆確信しています。

  神が傍におられることを知り、また信じているのはとてもいいことですが、自分が神の内に生きていることを体験するのはもっと必要です。「私は、あなたに対して獣のようにふるまっているが、常にわたしは御もとにとどまることができる」(参照:詩編 73,22-23)私たちの罪と欠点にもかかわらず、同じ体験をするようにと詩編は誘っています。ですから、ためらうことなく、神と共に生きるこの貴重な恵みを願いましょう。

 もし私たちが「目を覚まして」神に生きようとするなら、神ご自身が「帯を締めて、私たちを天国の食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれるでしょう」(参照:ルカ 12, 37)。神は約束しました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(参照:黙示録 3, 20)と。

 ですから、過去も、現在も、未来も、何も恐れずに、精一杯神と共に、神の内生きるように今の時、この瞬間を感謝と希望、信仰と愛の内に過ごしましょう。アーメン。

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          年間第20主日  C 年  2022814日  グイノ・ジェラール神父

            エレミヤ38,4-68-10     ヘブライ12,1-4     ルカ12,49-53

 預言者エレミヤをはじめ、何世紀にもわたって大勢のキリスト者たちは、彼らの信仰の証しを拒否する人々から暴力迫害を受けました。実に、神における信仰は、分裂や憎しみ、死をもたらす暴力を生み出します。

 イエスは分裂をもたらすために来られたことを隠しませんでした。しかし、預言者イザヤはメシヤを「平和の君」(参照:イザヤ9,6)として告げ知らせました。洗礼者ヨハネの誕生の時に、聖霊に満たされた年老いた父ザカリアもすぐに来られる救い主が「人々の歩みを平和の道に導く」(参照:ルカ1,79)と予言しました。そしてイエスの誕生日にあたって天使たちは「地には平和、御心に適う人にあれ」(参照:ルカ2,14)と約束しました。最後に、父のもとに戻る前に、イエスは私たちにご自身の平和を残し、与えました(参照:ヨハネ14,27)。

 
イエスが言われた言葉を詳しく調べるなら、イエスが「平和」ではなく「自分の平和」を残し、与えます」と言いました。この平和こそが反抗、憎しみ、迫害、そして人生のすべての試練と困難を耐え忍び、乗り越える力を与えます。そういう訳でイエスは次の言葉を加えました「心を騒がせるな。おびえるな」と。イエスの平和は喜びの泉であり、この喜びを奪う者はなにもありません(参照:ヨハネ14,27)。

 イエスを信じている私たちの心に注がれた神の愛は、莫大な平和を運んできます。迫害者たちはこの平和を奪うことも破壊することもできません。なぜならこの平和が赦しの力を持っているからです。確かに、あざけれられ、迫害されているキリスト者は心から自分の敵を赦すことができます。キリストの平和が苦しみを耐え忍び、人を赦すために内面的且つ神秘的な力を湧き出させるからです。

 イエスがもたらす「分裂」は、聖書のすべてのページに現れます。分裂はエバに対する蛇の誘惑から始まり、弟アベルを殺したカインの妬みに続きました。イエスご自身も親戚の中で同じ分裂に出会いました。身内の人々はイエスの使命を信じないだけではなく、イエスが「気が変になった」(参照:マルコ3,21)と思っていたことを福音書は隠しませんでした。ナザレの人々も同じ考えを持ち、イエスを山の崖から、突き落として、殺そうとしました(参照:ルカ4,29)。

 憎しみと分裂に反して、イエスは愛の大火事を早く投ずることを望んでいます。なぜなら、この火事は悪からすべてを清め、離れさせる役割を持っているからです。「受けるべき洗礼」すなわち「十字架上での死」によって、つまりこの「火の洗礼」によって、イエスはこの火事を起こしました。

 イエスは私たちに平和を残し与えました。ですから、失敗、軽蔑、憎しみ、あらゆる暴力を恐れてはいけません。私たちは神の慈しみの手の中に隠れていて、神の愛が私たちを守り救います。ですから、イエスが私たちを愛し赦したように、私たちも人々を愛し赦すことができるように努力しましょう。そして平和の炎が私たちの心に立ちのぼり、自分たちの周り全体に点火しますように。 アーメン。

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         年間第21主日  C年  2022821   グイノ・ジェラール神父

            イザヤ66,18-21    ヘブライ12,5-711-13    ルカ13,22-30

 イエスに従っている一人の弟子は何人が救われるかを知りたかったのです。イエスはその人に数を教えませんでした。彼に狭い扉が閉まる前に、その扉をくぐるために努力するように願いました。以前に預言者イザヤは全ての国と全ての人に救いが提案されていることを教えました。また神は異邦人の中からご自分奉仕する祭司選ぶこともはっきりと預言しました。聖パウロはこのことについて確認しました。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(参照:1テモテ2,4)と。

  狭い門とはイエス自身だと私たちはよく知っています。この門は全ての人に開かれています。そしてすべての人が救われるようにイエスは祈り命をささげました。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください(参照:ヨハネ, 24)と。イエスが宣言する「神の国」は場所ではなく「永遠の命」であることも私たちは知っています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(参照:ヨハネ7,3)とご自分の受難と死を迎える前にイエスは祈りながら説明しました。


「私は救われる必要はありません、自分で上手くすることが出来るからです」という人がいます。他の人が救われるかどうかについて全く興味も恐れも持ちません。ある人は「救い」の意味を信仰や神と全く関係のない様々な現実示します。キリスト者である私たちは『救われることは』「天国に入るための必要なパスポートを手に入れること」ではないでしょうか。自分の救いについて時々私たちは考えますが、すぐ忘れてしまいます。

 イエスにとっては、救いは人生の旅路の終わりにあるのではありません。救いは今、私たちが住んでいる所に提案されているので、「私たちの間にある」(参照:ルカ17,21)のです、ですから神の国の門を通って入るように努力することが肝心です。神の国の狭い門は、愛、分かち合い、正義、真理、平和、赦しに大きく開いています。実に、福音の教えに従って生きることやイエスに倣った生き方などの自分の人生の豊かさを他の人々分かち合うことは簡単ではありません。しかしそれを実践しようとする人は永遠の値打ちのある土台の上に自分の人生を作り上げているのです。

  神の国に入るために大切なことは、洗礼を受けた教会の共同体に属することではなく、福音のメッセージに従って生きることだと教えています。信仰を持つことは自分の良心に安らぎを与えますが、それだけでは足りません。大切なことは、信仰に生きることです。いいかえれば、兄弟的な愛と分かち合いや、助け合いと憐れみや、仲直りや赦し、平和や正義を具体的に実践することです。それらのことが無ければ、私たちの前の天の門は閉じられたままです。閉じられた門のイメージは、用心深さや賢明さ持つための大切な呼びかけだと思います。私たちがキリスト者になったことは特権ではなく、イエスの本当の弟子になる責任を受けたのです。

 もし私たちが救われた人の数に数えられることを望むなら、「永遠の命の門」であるキリストを通して、愛する神、赦す神の似姿になるために私たちは努力しているでしょうか。その答えはあなたの心の奥深くにあります。アーメン。

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          年間第22主日   C 年  2022828   グイノ・ジェラール神父

           シラ書3,17-1820,28-29  ヘブライ12,18-1922-24  ルカ14,17-14

 イエスの語られた言葉は私たちを惑わせるかも知れません。実際問題、友だちの家に誘われた人は絶対に自分から良い場所を取ろうとはしません。また、自分たちの食事に貧しい人や体の不自由な人、足の不自由な人や目の見えない人などを招く人は滅多にいないでしょう。そいう訳で、聖ルカはイエスが例え話を話したことをわざと明確にしました。このたとえ話を通して、イエスは二つの勧めを与えました。最初の勧めは食事に招かれた人々に、そして次の勧めは人を誘う人にも与えられています。どちらの立場であっても謙遜な態度を現すように招かれています。

 ときどき良い行いは、それを実現する人にとって、高慢の泉になります。招かれた人は尊敬され、光栄を受けることによって高慢に陥る可能性があります。そして招く人は、自分の家に重要な人々を受け入れることによって高慢になる可能性があります。極端な例を与えることで、イエスのたとえ話は単純さや慎みを提案します。高くなるために遜ることが必要だとイエスは説明します。しかし、気をつけないと、上に上がるためにこのやり方が偽善的な謙遜になる危険性を持っています。そこにも高慢と虚栄心が隠れています。大切なことは自分を良く見せることや自己主張することではなく、ありのままを正直に行い、生きることです。

 私たちは自然に他の人々と比較するので、高慢と嫉妬の間で引き裂かれています。自分を他の人と比較してよいのだとすれば高慢に陥り、自分を他の人よりも悪いものだとすれば嫉妬と妬みが私たちを襲ってきます。謙遜であることはありのままに、真実であるということです。また、謙遜であることは、自分の行うすべての事に無償で無報酬であるという意志をもつことです。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(参照:マタイ10,8)とイエスは願いました。

 イエスが私たちに理解させたいことを知るには、カトリックのボーイスカウトの祈りになったロヨラの聖イグナチオの祈りは、役に立つと思います。「主よ、寛大であることを教えてください、あなたにふさわしく仕えること、報いを望まずに与えること、傷を心配せずに戦うこと、休息を求めずに働くこと、ただ、あなたのみ旨を行うことだけが私のよろこびです」。

 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とイエスは言いました。言われたことをイエス自身が行いましたので、イエスの生涯は模範的です。フィリピの信徒への手紙で、聖パウロはそのことを私たちに思い起こさせました。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい・・・このことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2,35-9)と。

 イエスを見て、謙遜に生きることを学びましょう。私たちが誇りを持つ理由は何一つありません。私たちが持っているものは、すべて神から無償でいただいたからです。そうであれば、心を尽くして、謙遜に神に感謝しましょう。アーメン。

   


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