グイノ神父の説教

 

B年

待降節 と 四旬節 


   
待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日

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四旬節第1主日
四旬節第2主日
四旬節第3主日
四旬節第4主日

四旬節第5主日
枝の主日


     待降節第1主日  B 年  20201129   ジェラール・グイノ神父

       イザヤ63,16-171964,2-7  1コリント1,3-9  マルコ13,33-37

 私たちに「どんな霊的な賜物にも欠けるところがない」「私たちは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです」(参照:1コリント1,5-6)と聖パウロはしつこく断言します。そうであれば、私たちは既に救い主イエスのご降誕を迎える準備を見事に整えています。

 人間になる神の神秘、そして世の終わりに栄光のうちに再び来られる神の神秘をもっと深く理解するために待降節の時期が毎年私たちに与えられています。私たちがずっと神に向って留まるように、また神が私たちのために行うことに対して注意深くなるように、主キリストの誕生と再臨の出来事は私たちの心の目を覚まし続けています。

 私たちが用心深い人となるようにイエスは願っています。それができるように私たちは、先ずイエスの言葉に耳を傾けること、熱心に祈ること、そして他の人に対して思いやり気遣いを示すこと、さらに自分の悪い傾きと戦うことを行うはずです。目覚めていることとは今よりもっと愛すること、希望すること、信じることができるように聖霊の力を願い求めることです。目覚めていることとは、主イエスがいつも自分のそばにおられることを自覚しながら毎日生きることです。なぜなら、罪と死に打ち勝ったイエスは私たちを救うために確かにすぐそばにおられるからです。ですから、この待降節の間に一日毎の思い、言葉、行いは、すべて主イエスに結び付くことを学びたいと思います。

 将来を待ち望みながら、今の時間を生きるようにイエスは私たちを招いています。この今の瞬間の中にこそイエスが私たちの直ぐ傍におられることを発見し、悟ることです。それは、私たちが世の終わりに再臨するイエスを迎える準備をするためです。

 ですから待降節の間にイエスを仰ぎ見ながら、祈りによって清められた新しい眼差しで自分の周りをよく見ましょう。聖パウロが思い起こさせたように、私たちは「どんな霊的な賜物にも欠けるところがない」ので、イエスのご降誕をよく準備するために、分かち合い、助け合い、友情と愛徳の行いによってあらゆる策を講じるようにしましょう。神が望まれることを信頼と喜びのうちに実現するために、聖母マリアの祈りと取り次ぎを願いましょう。聖母マリアの助けによって、顔と顔を合わせてイエスを見る日が来るまで、今日、特に深い愛と喜びのうちに受ける聖体拝領によって、イエスと深く結びつくことができますように。アーメン。

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    待降節第2主日  B年  2020126  ジェラール・グイノ神父

       イサヤ40,1-59-11     2ペトロ3,8-14     マルコ1,1-8

 「悲しむ人々は、幸いである」(参照:マタイ5,4)とイエスは断言しました。聖書全体は、人を慰める神として神を紹介しています。今日、預言者イザヤは私たちに神の慰めと励ましの言葉を聞かせます。「慰めよ、わたしの民を慰めよ…ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神、主なる神は来られる」と。預言者イザヤは、新しい始まりを告げます。それは神が私たちにとても近くなることです。マルコの福音はイザヤの言葉とイメージを利用して同じ教えを繰り返します。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と。

 福音のよい知らせと言えば、不幸のせいで泣いている人や疲れた人、重荷を負う人々を慰め、力づけるために、神ご自身が人間になられることです。また神は慰め主であり、聖霊の力と喜びを人間に与えるために来られます。イエスは、この慰めの霊で満たされているので、慈しみと憐れみを表されます。イエスは罪深い全人類のために泣き、破壊されるエルサレムや友人のラザロのために泣き(参照:ルカ9,41、ヨハネ11,45)ました。また、息子を失ったやもめや飢えている群衆を見て、イエスは強く心を揺さぶられ憐れみます(参照:ルカ7,138,2)。受難の時でさえ、自分の苦しみを忘れて、泣き悲しむエルサレムの婦人たちやイエスと一緒に十字架に付けられた犯罪人を慰めます(参照:ルカ23,2823,42-43)。

 福音および聖書全体の良い知らせとは「神はご自分の民をはじめ、全人類のための励みと慰め」であることを知ることです。良い羊飼いのように、神は私たちを導き、集め、養い、懐に抱き、よく面倒を見るのです。預言者イザヤは「神どんな方であるかを」よく理解してから、これから来られる神を歓迎するように私たちを誘っています。預言者イザヤと同じように、洗礼者ヨハネもイエスご自身もその招きを繰り返します。神はいつくしみと憐れみにあふれる父であり、私たちを救うためにご自分の心から湧き出る無限の愛を私たちに与えるです。

 ですから、待降節に当たって自分の信仰と愛を再び勢いづけるために、希望と喜びのうちにこのよい知らせをここ受け止めましょう。私たちのところに来られる神を歓迎するために、自分の心の内にまっすぐな道を整えましょう。洗礼者ヨハネの呼びかけに答えて、回心を目指して、心の道を邪魔するものを取り除き、捨て去るのはとても大切です。そして神に倣って私たちも慰めと憐れみの溢れる人となりましょう。

 「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」と聖ペトロは私たちに願っています。ですから新しい天と地が与えられるように、努力したいと思います。私たちの所に来られる神を急いで迎えに行きましょう。神とのその出会いをクリスマスの忘れがたい出来事にしたいと思います。 しかしその日を待たずに神が私たちのためになさるすべての業を思い巡らして神に感謝と賛美を捧げましょう。アーメン。

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     待降節第3主日 B  20201213    ジェラール・グイノ神父

      イザヤ61,1-210-11  1テサロニケ5,16-24  ヨハネ 1,6-819-26

 今日の主日は「喜びの日曜日」と呼ばれています。そして典礼の色はピンクです。

 預言者イザヤは最初に自分の喜びを表現します。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神がわたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包むために」と。次に聖パウロは私たちが喜ぶように誘います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい霊の火を消してはいけません」と。また、洗礼者ヨハネの喜びはとても慎み深い「期待の喜び」です。

 ところが、この日曜日の喜びは特別です。この喜びは解放をもたらし、立て直し、前に進ませ、飛び上がって喜ばせ、山を乗り越えさせます(参照:イザヤ 52, 7)。またこの喜びは、聖パウロが言ったように救いの良い知らせを伝えるために世界の果てまで届きます。この喜びの特徴は、持っている人がもっと受けるように、自分を邪魔する物を捨てる恵みを与えるのです。確かに、もっともっと沢山の豊かさを与えるためにこの喜びは人を貧しくさせます。預言者イザヤはこの特徴を「花婿の輝く冠と花嫁の宝石」を通して象徴的に表そうとしました。

 洗礼者ヨハネはこの特徴的な喜びで満たされました。彼は光ではなかったが、光の証人となりました。私たちが神から来るこの喜びを受けるように洗礼者ヨハネは、預言者イザヤと聖パウロと一緒に声を合わせて熱心に誘っています。なぜなら、この喜びのお陰で信仰が強まり、光り輝き、優しく人に伝わるのです。またこの喜びによって、私たちも洗礼者ヨハネに従って「神の光と神の愛の証人」となるに違いありません。更に、この喜びのお陰で自分の心と自分の周りにも主の道を整えることができるのです。

 神の喜びが私たちを満たすように自分を邪魔する物から解放されることを承諾しなければなりません。 確かにクリスマスの喜びを味わうためには貧しく欠乏している状態が必要です。貧しい羊飼いたちだけが、貧しさの中で生まれたイエスを迎えに来たのです。彼ら大きな喜びで満たされたことを思い起こしましょう。

 ですから、神の喜びを味わうことを妨げる物事を捨てるように努力しましょう。預言者イザヤとおとめマリアが宣言したことを私たちも宣言するはずです。「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂は救い主である神にあって喜び躍る」と。今日もいつものように唯一の喜びの泉として、イエスは私たちの間におられます。誰もその喜びを奪うことができません(参照:ヨハネ16,22)。イエスだけが私たちの幸福であり、私たちの命です。ですからイエスに自分の心を大きく開きましょう。アーメン。

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    待降節第4主日 B   20201220日  グイノ・ジェラール神父

       2サムエル7,1-58-1214-16  ローマ16,25-27  ルカ1,26-38

 エルサレムの門の近くにダビデ王は立派な宮殿を作りました。しかし神の現存を具体的に現す目に見える契約の聖櫃は今も古いテントのに置かれていました。すでに150年が過ぎました。ダビデ王は神にもっと相応しい住まいを与えようと決め、その神殿をエルサレムの中央に建設することに決めました。ところが神は四辺の壁の中に閉じ込められることを望まれませんでした。神は私たちの間に住みたいので、預言者ナタンの言葉を通してそれをダビデに聞かせます。

 「家」という単語は二つの意味を持っています。まず住む場所を示し、次に人が属する家族を示します。今日の福音が教えている通りヨセフは「ダビデの家」の人で、その子孫の一人です。ちょうど清盛は平家の家系に属していたように。神はダビデ王が建てるつもりであった神の住む家を建てることは断りますが、ダビデの家、つまりダビデの子孫を守ることと祝福することは約束します。この子孫から「インマヌエル」即ち「神は私たちと共にいる」と呼ばれるメシアは生まれるでしょう。私たちと同じ人間になって、神はともに住むようになるのです。

 今日の福音によって聖母マリアは「人々の間にある神の新しい家」として紹介されています。確かに母マリアは新しい神の聖櫃としてイエスを身ごもっています。人々と共に住みたい神を納める場所になることを母マリアが承諾したからです。世界の流れを変えてしまった出来事、そして2000年以上前に実現されたこの出来事を私たちは近いうちに喜び祝います。クリスマスは私たちの間に住む神の到来です。

 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(参照:ヨハネ14,23) とイエスは約束しました。こんにち、神の住まいとなる誘いが母マリアだけではなく、私たちにも提案されています。私たちも世界の人に神を与える使命と責任を与えています。クリスマスが近づいているので、この大切なことを思い起こしましょう。つまり、イエスが生まれるのは私たちの個人の救いのためだけではなく、何よりもまず、私たちが神を全人類に与えるように生まれます。なぜなら、私たちは大きな、おおきな家族である世界の人々に属するから、彼らに平和と光と幸せをもたらすはずです。世界中の町や道を綺麗に飾り美しく輝かている理由は、私たちにこの使命と義務を思い起こさせるためなのではないでしょうか。ア-メン。

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     四旬節第1主日 B年 2021221  グイノ・ジェラル神父

      創世記 9,8-15     1ペトロ 3,18-22      マルコ 1,12-15

 灰の水曜日に復活祭を目指している私たちの歩みが始まりました。灰が表している回心の印を受けて、私たちは40日間イエスにしっかり結ばれて生きるのです。この四旬節の期間に私たちは命の泉である復活されたイエスの方に進むのです。

 今日の福音の個所は、聖霊によって砂漠の孤独の中に連れていかれたイエスを見せます。砂漠とは何も成長しない荒れ地で、野生の獣が住む場所であり、水が全く無い、厳しい試練の場所です。しかし聖書によれば、砂漠は神との出会いができる特別な場所です。「私は荒れ野に導き、その心に語りけよう」(参照:ホセア2,16と神は預言者ホセアに打ち明けました。砂漠の中で、神は人と話します。そこには人の世話をする天使たちもいます(参照:創世記 21,14-181列王記 19,4-8, マルコ1,13)

 今日の典礼は、洪水についても語ります。多過ぎる水は、水のない砂漠と同じように命を奪います。しかし死をもたらすこの危険な水の上に「平和の印である虹」を、神は置かれました。また「救いと新しい創造の印」としてノアの箱舟が浮かんできます。更に、聖霊は鳩の形で水の上を飛んでいます(参照;創世記1,2)。そして洗礼を受けたイエスの上に留まります。

 砂漠の中でイエスは孤独と祈りの生活を40日間体験しました。「40」という数は象徴的数であり、特に、物が熟すために必要な時間や人が妊娠する週数です。お母さんの体内の子供が人間になるためには40週間が必要です。エジプトの奴隷の状態から人々が自由なりイスラエルの民、そして神の民になるには40年間がかかりました。また、モーセが十戒を受けるために40日の断食が必要でした。モーセと預言者エリアが神と顔と顔合わせて出会う準備にも40日間必要でした。ですから、私たちも復活の喜びに入るには、四旬節の期間の40日間が必要不可欠です。

 天使たちと野生の獣たちとが調和して暮らす「新しいアダム」として、マルコはイエスを紹介します。イエスは神と全人類を新しい永遠の契約に結び合わせるためにこの世に来ました。イエスは悪霊たちと死の支配を終わらせ、私たちに永遠の命と神との一致を与えるために来ました。ご自分の死と復活によって、神と全人類を和解させるキリストは、また天と地、動物と天使、人と神を完全に一致させました。

 この調和のとれた一致を深く味わうために、イエスは心を新たにするように誘います。「回心して、福音を信じなさい」と。聖ペトロは、イエスの望まれる回心について次のように説明しました。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」。そして、イエス・キリストの復活に与かることです。

 まさに、復活祭に向かう私たちが歩む信仰の道は、聖ペトロが教えた生き方です。昔まずノア結ばれ、のちにキリストが実現した神の契約を信じて、回心の道を歩むように洗礼を受けた私たち一人ひとりが同じ道に召されています。「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる…わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(参照:創世記9,13-15)と、神は断言しました。アーメン。

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     四旬節第2主日 B年 2021228   グイノ・ジェラール神父

     創世記 22,1-29-101315-18     ローマ8,11-14    マルコ9,2-10

 回心することは、心を主の方に向けることですが、同時に自分の眼差しを変えることです。主の変容の話しは、特にこれを実行するように私たちを誘っています。先週の灰の水曜日の式は私たちが「塵」であること、そしていつか「死ぬ」ことを思い起こさせました。これこそ人間の現実の状況です。しかし私たちは「塵」というだけではなく、神の息(息吹)が私たちに与えられました。人の状況の中で消えてしまうものがあっても、私たちにはずっと残る霊的なものがあります。主の変容はそれを思い起こさせます。命と光である神の似姿で創られた私たちは、光の子であり、神の栄光の反映です。

 「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(参照:2コリント3,18)と聖パウロは説明しました。自分の眼差しを変えることは、結局、自分に対して世界に対して将来に対しても、新たにされた見方を持つことです。聖霊によって照らされたこの見方は希望へと導きます。私たちは「神の目には貴い」(参照;イザヤ43,4)者です。神は貴重な宝物として私たちを守っています。実に、私たちが神の内に生きることができるように神は私たちのために死ぬのです。

 先週の日曜日に聞いたイエスが受けた誘惑の話は、誘惑に対する私たちの弱さを思い起こさせました。しかし今日の変容の話は、悪に打ち勝つことができることを教えています。確かに、「私たちを救うために神はそばにおられます」(参照:エレミヤ1,8)。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と言った聖パウロは正しいです。これこそ福音の良い知らせです。試練のただ中にいて私たちは聖パウロと声を合わせて宣言します。「わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています…何もわたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(参照:ローマ8,37-39)と。

 上へ上へと延びるために、木は土の中で根を深く降ろすことが必要です。同様に地上に住む私たちは、天におられる神に向って昇ろうとします。霊的な賜物を受けるために地上の物質的な物を軽蔑することは役に立ちません、霊的な物と物質的な物の両方が必要です。そういう理由で、生きるために私たちは神に「毎日のパン」と「天のパン」を願っています。人間として成長し、また霊的に成長するためには「地上のパン」と天のパンである「ご聖体」は必要不可欠なものです。主の変容の神秘はそれを具体的に思い起こさせます。地上の子供の私たちは光の子供であり天上の者です。塵で作られた私たちは神の栄光の反映として、いつか神の栄光を衣として着るように召されています。

 復活を目指して私たちは歩んでいます。わざと神がご自分の命に死を取り入れたのは、私たちを変容させご自分の栄光に入れるためでした。確かに私たちは地上の子どもであり、同時に天上の者、神の子どもです。今日の典礼に照らされて、私たちが自分と世界に対する自分の眼差しを変えることができますように。そうすれば私たちは、前より多くの信仰、希望、愛をもって神に感謝することができるでしょう。アーメン。

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      四旬節第3主日 B年 202137   グイノ・ジェラール神父

        出エジプト20,1-17  1コリント1, 22-25  ヨハネ 2,13-25

 第一朗読を通して私たちはシナイ山で神から受けた十戒のリストを聞きました。不思議なことに、このリストは神がご自分の民イスラエルのためにったことから始まります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と。イスラエルの民に対する神の働きかけは、モーセに与えられる十戒の土台となります。神の掟を行うことによって、神のために具体的に何をするといいのか、そして神と隣人を尊敬することを学びます。

  特に、神に対する尊敬を思い起こさせるために、イエスはエルサレムの神殿で商売をしていた人々を追い出しました。イエスは怒って神殿が「神の現存の尊い場所」であることを厳しく示します。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」とイエスはどなりつけました。羊や牛を追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒すことで、イエスは両親に与えるべき尊敬の掟を父なる神に対して実現しています。しかし、人々を憤慨させたことは、イエスエルサレムの神殿を「自分の父の家」だと宣言したことです。なぜならこれを言ったイエスは「自分が神の子」であることを公に宣言したことになったからです。さらに、イエスの行動を弁明するように印を願った人々に、イエスは愛の印を与えます。確かに全人類を救うためにイエスは近いうちに死んで復活するのです。

 「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とうイエスは肉の体を受け人間となった自分自身が人々の間神の現存の新しい神殿であることを啓示しています。「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである」と聖ヨハネは明らかにしました。私たちは洗礼を受けた時に「神の子」となりました。そういう理由で、聖パウロが教えている通り、私たちの体も「神の現存の尊い住まい、「聖霊の神殿」(参照:1コリント6,19)となりました。私たちの神殿はもしかして「商売の家」あるいは「強盗の巣」(参照:マルコ11,17)になっていないでしょうか。自分の生き方が充分に神の現存を現しているかどうかについて考えることが大切です。神の愛を受けるために、またこの愛が私たちを変容させるために、私たちの人生の内に神に第一の場を与えなければならない大切さを、イエスは今日の福音を通して思い起こさせています。

 ある意味で、毎週日曜日に聴いているイエスの言葉、私たちの心にしっかりと受け留められ、自分の心の回心を助ける「愛の鞭」でありますように。というのは神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(参照:ヘブライ4,12)

 自分の人生の内で神に与える場所が足りないなら、私たちの周りにいる人を受け入れる場所も小さくなります。私たちはそれをよく知っています。ですから、この四旬節にたって、信頼をもってイエスに向かって回心する私たちの決意と希望を委ねましょう。また神の掟を実践することによって、心を尽くして、神と隣人を自分のように愛する恵みを願いましょう。アーメン。

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   四旬節第4主日  B  2021314日  グイノ・ジェラール神父

      2歴代16,14-1619-23  エフェソ 2,4-10  ヨハネ 3,14-21

 イエスという名は「神が救う」を意味しています。神の名を信じることは、神に信頼を示すことですから裁かれないことになります。イエスは今日、特にそれを説明しようとします。聖パウロはイエスの教えをよく理解させるために次のように説明しました。「神は豊かにあわれみに満ちています…信じている私たちは恵みによって救われました…このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」と。

 イエスは私たちの苦難、失敗、力の限界、過ちと弱さをよくご存じですので、私たちを裁くのではなく、私たちを救い自由にします。イエスは、元気で正しい人々のためではなく、罪びとや病人のために来ました。ですから、ありのままを主にはっきりと見せることを恐れてはいけません。善と悪、美しいものと醜いものが私たちの内で混在していることをイエスはよくご存じです。自分のそばに近寄る罪びとをイエスは決して捨てません。むしろ彼らを清め、赦し救うためにイエスは慈しみの手を差しのべます。イエスの方へ来る人は、必ず「永遠の愛で愛されていること」を発見します。

 残念なことですが、この考えられない愛を知りそれを信じても私たちは無関心になっています。赦しの秘跡に与かる機会をわざと遠ざけることによって、自分が罪びとだと認めることを拒否しています。赦しの秘跡に対する恐れに打ち勝つために、今日の福音の言葉を度々自分に聞かせる必要があると思います。「悪を行う者は皆、光を憎み…しかし、真理を行う者は光の方に来る」と。

 大勢のキリスト者が心に赦しと光、天の喜びを豊かに注ぐよりも、自分の心の暗闇を強く守ることを好むという不思議さがあります。「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神のうちにあってなされたことが明らかにされるために」(参照:ヨハネ3,21フランシスコ訳)とイエスは言っています。言い換えれば、驚くべきことに、罪の赦しを受ける人の行いが、神ご自身の行いとして認められているということです。つまり、神は私たちの罪を本当に背負って、ご自分の聖性で私たちを覆うのです。そうであれば、どうして私たちはいつも赦しの恵みを遠ざける必要があるのでしょうか。

 神が私たちの父だということを忘れる時、また神の赦しをもう望まない時にも、あっという間に裁きの恐れが私たちに襲ってきます。神は怖い審判者となり、救われるためには神の愛に値する人となるべきだと信じるようになります。この状態では、人は信仰と力と希望を失う危険性がとても大きいです。「私の光に生きるなら、何も恐れることがない」とイエスは私たち一人ひとりに言っています。「私が来たのは裁くためではなく救うためです。私を恐れるなら、大変間違っています。信仰によって私はあなたたちと永遠の契約に結ばれています。悪、罪、死さえも、それを滅ぼすことができません。あなたたちのために私は死んで復活しました。それは救われたあなたたちが永遠に一緒に生きるためでした」と愛と慈しみをもってイエス私たちに打ち明けます。

 「主よ、あなたが心に留めてくださる人間は何ものなのでしょう」(参照:詩篇8,5)と詩編作者は質問しています。誰かが自分のことを心に留めることを知る度に、私たちは喜びを感じ、幸せを感じます。父なる神はずっと永遠の昔から、ご自分の心に私たち一人ひとりのことを思い巡らしています。それを知って、それを信じて、どうして私たちが幸せにならないのでしょうか。これも不思議な神秘です。確かに神の愛は人の感情を遥かに超えています。なぜならこの愛はすべてを深く探り、心の深いところ静かに変化しますから。

 今日の福音のメッセージは、キリストの十字架を仰ぎ見るように招いています。揺るぎない信仰と信頼をもって、上にあげられたイエスをよく見ましょう。ご自分の無限の愛で私たちを覆うために、イエスは必ず惨めさや悪の力、あるいは恐れと暗闇の世界から私たちを癒すからです。さあ、真理を求めて、ありのままに、恐れずに、光の方へ進みましょう。アーメン。

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    四旬節第5主日 B 2021321日  グイノ・ジェラール神父

         エレミヤ31,31-34  ヘブライ5,7-9  ヨハネ12,20-33

 私たちは、苦しみの拒絶と死への恐れを強く持っています。イエスでさえ、苦しむことと死ぬことを恐れました。「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある父なる神に」この試練遠ざけてくださるように願いました。しかし、神の救いの計画を実現するために、イエスは自分の意思を捨てて、苦しみ死ぬことを承諾しました。イエスは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(参照:フィリピ2,8)と聖パウロは説明しました。またヘブライ人への手紙も「イエスは多くの苦しみによって従順を学ばれた」ことを私たちに思い起こさせます。

 イエスはこの苦しみの選びこそが、私たち実を結ばせるための唯一の方法だと提案します。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と。イエスは苦しみと死を受けると同時に、私たちの手を取って一緒に死の暗闇を乗り越えさせます。

 私たちがイエスに従って、父なる神の王国に入るように、イエスは最初の人間として死の門を超えました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(参照:マタイ16,24)「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる…父はその人を大切にしてくださる。」(参照:ヨハネ12,26)とイエスは、はっきり教えています。神によって大切にされるとは、神の命と神に与かることです。

 十字架の一面には復活が隠されています。つまり、それはイエスと全人類の復活の始まりであるからこそ、言い表せない栄光で満たされています。十字架は「世の支配者であるサタン」とあらゆる形の悪に対する輝く勝利です。十字架上のキリストの死は世界の救いとすべての人に提案されている永遠の命です。ですから、十字架の神秘をよく理解するために、聖パウロが勧めている通り「キリストが抱いておられたのと同じ思いを抱くこと」(参照:フィリピ2,5フランシスコ訳)が必要です。

 つまり、イエスが十字架上で示された不思議な愛のために神を賛美し感謝するだけではなく、この愛に生きること大事です。自分の住む場所で愛に生きるのは大切です。ですから、それができるように聖霊と聖母マリアが私たちを助け導きますようにそして更に私たちにイエスの受難の神秘に入ることを教えますように。イエスが地上から天に上られるとき、私たちと共に全人類もが引き寄せられるように心と体を整えましょう。アーメン。

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    枝の主日 B  2021328日    グイノ・ジェラール神父

     イザヤ 50,4-7    フィリピ 2,6-11    マルコ 14,115,47

 人々はイエスについて思い違いをしていました。イエスは神の王国について話しました。しかし、人々はイエスがイスラエルの王国を立て直すと思い込んでいました。悪霊を簡単に追い出していたイエスは、同様に高い税金を要求する敵であるローマ人を簡単に追い出すのだと人々は信じていました。イエスは、回心、分かち合い、赦し、隣人愛を勧めていたのに、人々は復讐、企み、裏切りの計画を立てていました。ある人々は、イエスは自分の反対者たちを納得させるために奇跡的な力を使うであろうと思っていましたが、彼は弱い者として反抗もせずに敵の手にご自分を引き渡されました。

 苦しんでいた人々を癒されたイエスは拷問にかけられます。泣いていた人々、差別された人々を慰めたイエスは、屈辱、あざ笑い、侮辱を受けます。死者をよみがえらせたイエスは、死の宣告を受けます。神の子であり、命の泉であるイエスは、犯罪人の一人に数えられ、恐ろしい苦しみのうちに殺されます。

 今日から一週間の間、私たちはイエスの受難の神秘について考えるはずです。自分の信仰と希望を養うためにこの期間が必要です。そして復活の喜びと光に与かるようにこの準備の時はとても大事です。

 ですから、エルサレムの婦人たちと共に十字架の道のイエスに従いましょう。ベロニカとキレネ人シモンと共にイエスに感を示すことで、イエスを慰め、彼の苦しみを軽くしましょう。マグダラのマリア、ヨハネ、ニコデモ、アリマタヤのヨセフと共にイエスを安らぎの墓まで運び、イエスの傷だらけの体に香料である私たちの祈りと真心、そして罪に対する心からの悔い改めを塗りましょう。最後に、イエスの母マリアと共に沈黙の内にキリストの復活を告げる良い知らせを待ち望みましょう。

 愛と信仰をもってこのように行えば、きっと私たちも百人隊長と共に「本当に、この人は神の子だった」と恐れずに皆に宣言するでしょう。そしてまた「イエス・キリストは主である」、彼の死は「父である神の栄光と私たちの救いのためです」と聖パウロと共に私たちも宣べ伝えることができるでしょう。アーメン。

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