グイノ神父の説教

 

A年

年間第23主日から

王であるキリストの祝日まで


   
年間第23主日
年間第24主日


    年間第23主日  A年  202096   グイノ・ジェラール神父

       エゼキエル 33, 7-9     ローマ 13, 8-10    マタイ 18,15-20

  最近はますます個人主義が溢れるようになって来たのでイエスは、今日はまたとても実現しにくいことを要求しています。昔、小さな村で暮らしていた人々は何でも公に人々に知られていました。あるいはまた、すべての物を共同で使っていた時代の修道院の人たちならイエスが願っていることを簡単に行えたでしょう。しかし現在では、人の正しくない態度を咎めるためにわざとその人の所へ行って、出会うことはとても考えられないことです。私たちは彼の犯した罪を知っていても、それは彼自身の問題なので、彼自身の良心に従えばよいのではないでしょうか。私たちには全く関係がありませんと考えます。

  しかし、イエスはこの考え方を追い払います。なぜなら、私たちの考えが隣人愛にどっぷりと浸かった考えになって欲しいからです。私たちは他の人々にたいする責任も持っているとイエスは理解させようとします。かつて預言者エゼキエルに委ねられた使命は、現在の私たちの固有の使命となりました。なぜなら、神の救いの協力者である私たちも「危険を告げる見張りの人」ですから。望んでいても・いなくても、承諾していても・していなくても、私たちは神の目には兄弟姉妹に責任を持つ者です(参照:創世記4,34)。

  この責任の実現について、イエスは矛盾したことを私たちに忠告します。イエスの話によると、人の目にあるおが屑を取り除くよりも、まず自分の目から丸太を取り除く方がいいということです(参照:ルカ6,41)。また罪の女を石で殺そうと望むファリザイ派の人々に、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(参照:ヨハネ8,7)とイエスははっきりと忠告ました。人を咎め、罪びとと決めつけるためには、キリストと同じように完璧で、謙遜と愛で満たされている人とならない限りはとても無理です。また勇気も必要です。なぜなら「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(参照:マタイ7,1)とイエスは忠告したからです。では、何をしたらよいのでしょうか。人の過ちを咎めるのか・黙っているのか、咎めるなら一人で相手と出会うのか・数名と一緒に出会うのか、このようなことに対応するのは至難の業です。

  教会の歴史を見れば、教会は信仰に反する異端の問題以外は、一度も人の言い訳を聞くためにその人を一人で大勢の人の前に立たせたことがありません。教会は神の愛と赦しの印ですので、人を切り捨てて破門したりはしません。異端者自身が教会から離れるのです。教会は仲間のキリスト者から離れるその人の選びと決意を公に認めるだけです。とにかく、矛盾しているように聞こえる勧めと要求によって、私たちはお互いに助け合うことが必要だということをキリストは教えています。私たちはキリストの神秘的な体であり、すべての人の救いの責任者です。

  人と繋がることによってしか私たちは信仰に生きることができません。それは強制的なものではなく、ある種の解放です。私たちが一緒に生きることで、人生のトラブルや問題を解決できるイエス私たちの間に留まっています避けてはならない条件としてイエスは次のようにそれを確認し勧めました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(参照:マタイ8,20)と。イエスは日曜日のミサの時だけではなく、私たちの人生のあらゆる面にも存在しています。

  確かにイエスはわたしたちと共におられます。もし、あなたも私も、祈り・分かち合い・赦しによって人々と繋がりを保つなら、必ずイエスは共におられます。私たちは信仰の兄弟の幸せとをとても大切だと思うなら、その人を悪い傾きから解放するために、彼と出会うべきです。もし万が一その人の無理解や暴力、批判があるならば、イエスは私たちのすぐ傍におられることをよく知ってください。 私たちの正しい行動は教会とキリスト者の一致を強めるからです。また私たちも自分の過ちを認めて、兄弟姉妹の助けと励ましを望むなら疑いもなく私たちは、キリストの教会とキリスト者の一致を強めます。ですから遠慮なく、恐れなく、預言者エゼキエルのように私たちは「危険を告げるかしこい見張りの人」になりましょう。アーメン。


      年間第24主日A年  2020913   グイノ・ジェラール神父

          シラ書 27,30-28,7  ローマ14,7-9  マタイ18,21-35

  恨みは怒りと復讐を生み出す悪い雑草のようなものです。受けた傷や害を百倍にして、復讐しようとする野望がいつも頭から離れません。多くの人にとって復讐することが、受けた傷や害を癒すための唯一の方法です。

  77回復讐する(創世記4,24)というレメクの提案の悪い結果を確認したハムラビ王は紀元前1750年にメソポタミアの国民に「目には目を、歯には歯を」という「同等の刑」の法典を強要しました。エジプトの文明になかったこの「同等の刑」を、数世紀後、モーセがイスラエルの民に与えました。この規定を利用したところ「復讐の精神」を抑える最も効果的な手段となりました。これ以後、受けた悪に対して同じように行う掟は、文明に大き進歩をもたらしました。

  紀元前2世紀に懸命なベン・シラは復讐と恨みを育てるモーセの掟と正反対のことをします。「憤りと怒り、罪びとにはこの両方が付きまとう。…隣人から受けた不正を許せ。そうすれば、お前の罪は赦される…自分の死を思い…隣人に対して怒りを抱くな」と。ベン・シラが提案するこの知恵はとても理論的です。なぜなら、神に自分の罪の赦しを願うなら、その人はまず自分が害を与えた隣人を赦すことが必要ですから。結局、平等は返す悪の中にあるのではなく、隣人に惜しみなく与える限りもない赦しの中にあります。

  抜き差しならない復讐に足を突っ込んでしまう人は、復讐から恨みの深みへ、そして最後にはこの状態から出られないことになります。悪に耐え忍ぶ限り、悪は決して入ることができませんが、悪を止めるのは赦ししかありません。

  「何回赦すべきでしょうか」とペトロは尋ねましたが、イエスにとって赦しには限りがありません。ペトロにイエスは昔のレメクの提案を繰り返しました。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と。七の七十倍と言えば、つまり、ずっとと言う意味でイエスにとって赦しには限りがありません。確かに、イエスにとって赦すことは神を礼拝することにまさっています。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをしなさい」(参照:マタイ5,23-24

  どれほど神に対して私たちは返済不能の債務者であるかをイエスは思い起こさせました。赦しは、神の愛と慈しみに与からせる貴重なものです。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい…赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられるあなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(参照:ルカ6,36-38)。

  キリスト者は悪を耐え忍び、いくら難しくても苦しくても、どんな犠牲を払っても人を赦し、何とかして神の愛と赦しを具体的に示す人だとイエスは私たちに思い起こさせます。キリスト者は、イエスと共にイエスのために、生き・行い・赦し、そして死ぬ人ですから(参照:第二朗読 ローマ14,7-9)。アーメン。


                       

                           

 

                       

 






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